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太宰

作者: はざま

 隣の部屋の客が死んだ。若い女との、服毒心中らしい。

 頼んでいたはずのモーニングコールに反応せず、さらに昼近くになっても朝食に降りてこない客に、旅館の方が不審に思って部屋を訪ねると、既に二人、布団の上で息絶えていたそうだ。一回り以上歳の違う男女は、互いの手首を紐で縛って繋げ、並んで横たわっていたという。いつまでも出てこない客を心配してわざわざ見に行く所は、古くて小さな旅館らしくいいと思うが、こうも詳しい状況が半日もしない内に噂として回っているのは、中々どうだろうと少し笑える。

 それにしても。

 一階にある食堂の隅に腰掛けて、俺は考える。この座布団は、昨日の晩にも俺が座っていた所だ。そしてその時隣には、部屋順の通りになのか、今朝には自ら毒を飲んで死んだ男が座っていた。痩せ気味の貧相な中年で、やけに色が白いのが妙に病的で、綺麗だった。

 旅館の料理を食べ終えると、男は机の上に紙を広げて何かを書いていた。出された料理と同程度の、そこそこの旨さの地酒で酔っていた俺は、なんとなくそれと男が気になって、三十センチの差を詰めて男に声をかけた。覗き込んでみると、それは便箋だった。何十枚と重ねてあって、でも失敗したらしいのが何枚も丸められて机上に放られていた。

「ああ、あのね、言うなればラブレターですかね。妻なんですけど、結婚してからもう十六年振りにかな。いや、初めてかもしれませんね」

 男の目元は紅潮していた。手元の机には空になったコップがあって、どうやら男も酒を飲んでいるようだった。

「文章を書くのには結構慣れているはずなんですけどねえ。改めて全身全霊を込めて思いを伝えようとすると、大変だね。全然駄目だ、分からない。言いたいのはすごく単純で、一言で表せることのはずなのになあ」

 それはなんですか。俺が聞くと、男は赤い顔で恥ずかしそうににっこり笑った。

「あなたを一番愛している」

 男はその一言で終わらせず、言葉を続けた。

「あなたは僕の光で、犯せない聖域だ。まるであなたは太陽で、僕が引き摺り下ろして汚すのには、あなたは綺麗で眩しすぎる。僕にはとても出来ない。したいと思えない」

 男はだんだんとゆっくり、言葉を選んで推敲するように言っていた。視線を机の上で彷徨わせて、考えながらというよりは完全な酔っぱらいのようだった。

 いかにも気障っぽくしかもどこかで聞いたような台詞に、ちょっと面食らって興醒めしたのだが、男は酷く真剣な様子をしていて、俺は逆に空気に引き込まれてしまった。

「だから僕は、ここという場面であなたと一緒にいるのを選ばなかった。選べなかった。選ばなかった。でも僕が、一番愛しているのは、愛していたのはあなたです。すみません。意気地がなくて馬鹿で、本当に。どうか僕を許してください。すみません」

 男は感極まったように、飲んでいるせいもあるのだろうが、声を掠れさせていた。同じく酔っている俺は酷くぎょっとして、おろおろとうろたえた挙句に、男の肩を慰めるように優しく叩いてやっていた。友達というよりは、恋愛関連でよくよく泣いている後輩に、何度かやっている仕草だった。

 今思うと。全く男の言うことは、前後と繋がりがないどころか、直後に計画されていた出来事に直結した話だったのだ。

 窓から狭く射してくる日中の光を目を細めて見て、俺は強く奥歯を噛む。

 仲居の通報を受けてやって来た警察は、自殺ということで初めから落ち着いていたが、今では薄情に思えるくらいに静かにしていた。それよりしばらく遅れてやってきた縁者の中には、死んだ男の妻もいて、死んだ女の姉だという人間も横に並んでいた。一体どういう顔をすればいいのか、周りの方が困っていたようだったが、妻本人は、顔は強張らせてはいたが、綺麗に背筋を伸ばして立っていた。俺はそんなによくは見ていないのだが、その立ち姿と上部に纏めた長い黒髪が、着物を着せたら似合うだろうと思った。

 男の遺書は、二人並んで死んでいたベッド脇のテーブル上にあったという。内容は、昨日の晩に男が俺に向かって言ったことと、ほんの少し言い回しが違うだけで、ほぼ完璧に同じだった。これは仲居や客同士の噂話からではなく、俺自身が警察から聞き、見たので確実に本当だ。昨晩に男と俺が仲良さげに話していたと、旅館の従業員が言ったらしい。

 色白の痩せた男は一体どんな顔をして、妻への最高の愛を語った遺書の隣で、愛人と手に手をとって心中したのだろう。愛しすぎて苦しいとまで言っておいて。あの世へと行く途中ではぐれないように紐まで括り付けて。

 縁者も仲居も警察も、怒っているか馬鹿馬鹿しそうな表情をして男のことを話していた。だが俺は、昨日に男と顔を合わせて懺悔を聞いた俺は、なんとなくだが男の苦しみと愛しみというのが分かる気がするのだ。

 男の妻は、背筋を伸ばしたまま腰を折って、女の姉に頭を下げた。この旅館の女将よりも、よっぽど美しい礼だった。

「うちの夫が、そちらの妹さんを道連れにしてしまいましたようで、真に、申し訳ございません」

 きっと男と、そして女の気持ちなど、俺のような他人の物差しで測ることこそおこがましいのだろうが。

 同じような死に方をした男がいたが、時間枠が前後するから、真似したのは今朝に死んだ男の方かもしれない。それは確か、文章を書く職業だったはずだ。名前が思い出せるような気がするのだが、俺は文学者ではないので、自信がない。



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― 新着の感想 ―
[一言] すらすら読めました。よく雰囲気が出せてるなぁ、と。 弱い人間なんだけど、心の底では、他者への優しさが静かに燃えている。 あの男、わたしも好きです。
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