第2話・ある少女の記録
ぴちょん。ぴちょん。
私は水滴の落ちる音で目を覚ます。薄暗い牢獄の中で唯一の光源は、格子の嵌った窓から差し込む月明かりだけ。私は、窓に目をやり、深夜を少し過ぎた頃だという事を把握する。そのままもう一度眠ろうと、粗末な毛布に包まった。
なのに、どうしたことだろうか。何故か寝付けずに寝返りを打ってばかりいた。眠らないと、朝からの過酷な労働に耐えられないことは良く分かっているのに。私は諦めて、毛布から這い出ると、窓から月を眺めた。
窓からは大きな満月が、美しく輝いていた。月は、見る者に甘いひとときの夢を見せるかのようだった。
「……私にこんな力がなければ、ずっと一緒にいられたのかな」
己を売った家族の顔を思い浮かべたあとに、それを振り払うように頭を振る。月光から背を向けて、手のひらを見つめる。
「もし、それが叶っていたとしても。私の手は赤く染まるんだろうな」
暗く淀んだ牢獄の中、その夜、ただじっと座って満月を眺めていた。
チチッ!チチッ!!
朝日が差し込み、気の早い鳥が活動を開始していた。いつの間にか眠ってしまっていた私は、慌てて毛布を畳んだ。畳み終わって部屋の中央に立とうとすると、ひどく荒々しい足音と女性特有の甘ったるく高い声が牢獄の中に響いた。
「お・は・よ・う♡愛しい、愛しい私のじゅ~うさ~ん番ちゃ~ん?」
「お、おはようございます。ご主人様」
しっかりと立ち上がり、部屋にやってきた『ご主人様』を、私は礼とともに迎える。ご主人様は、朝だというのに夜会にでも参加するのかというほど着飾っていた。深紅のドレス、最高級のピジョンブラッドルビーがあしらわれたネックレス。
ご主人様はとても美しい容姿をしているが、隠しきれない狂気と妄執。人の醜さを凝縮した邪悪さが、たれ目がちな瞳の奥に宿っている。
今日は、とてもご機嫌が悪いらしい。私は、何をされてもいいようにこっそりと呼吸を整えた。
「昨日はよく眠れたかしら?」
「はい、きちんと眠りました」
ご主人様の問いに、はきはきと答える。そうしなければ、彼女の『おしおき』は、より過激になる。
「ふぅん?ちゃんと寝たんだぁ~?」
「は、はい。ご主人様の恩寵のおかげです」
ご主人様はにっこりと、でも凄絶に嗤った。ああ、やっぱり。ご主人様は笑顔のまま、尖ったヒールのつま先で、思いっきり私のお腹を蹴り飛ばす。私は、胃液を吐き出しながら牢獄の床に叩きつけられる。痛みにうめく私を意に介さず、ご主人様はなおも抉る様に踏みつける。ご主人様の体重が一点に集中して、体を貫通するのではという恐怖が募る。私がまとっていたぼろぼろの布は、ご主人様の『おしおき』によって穴が開いていく。穴からのぞくのは、治りきっていない打撲や火傷の痕だ。ご主人様は、こうしてお仕置きをするけれど、その痕を「醜い。穢らわしい」と言って顔や腕なんかの見えやすい位置にお仕置きをすることはない。世間体が一応あるらしい。酔った時に、私を殴りながら言っていた。奴隷を持つ者には監査があるが、ご主人様は上手く監査を『歓待』しているからか、いつも彼女は『優良な主』の判定を貰っている。この牢獄から逃げ出す機会を、監査に期待するのをやめたのはいつだったか。……人は、弱いものに対してなら、どこまでも残酷になれるから。
痛みから逃れるために、現実逃避的に考えていたら、ご主人様はそれに気付いたらしい。私の耳をつかんで持ち上げる。下手に力の流れに逆らうと、耳が切れる。逆らわずに立ち上がる。
「こっちは、お前の能力で寿命が減らないって聞いてたのにも関わらず減ってるのに気が付いてねぇ?……死ぬ恐怖と老いる恐怖に震えているのよ!!何のために、高い金を使ってお前なんかを買ったと思ってんだ!!」
ご主人様の甲高い声が、狭い牢獄の中に響き渡り、不吉にうねり反響する。髪の毛をひっぱられ、耳元で怒鳴られる。ご主人様の理不尽に、私はなすすべなくされるがままになっていた。
「ご、ごめんなさい!!ごめんなさい!!」
いつもの謝罪を繰り返す。どうか、どうか。これで、辞めてくれますように。でないと――。
「……お前を売った両親、ここからそう離れてない場所に住んでたわよね?」
ご主人様は急に私への暴行を止めると、いっそ蠱惑的な表情と甘やかな声で言った。
「罰として、お前の両親を生贄にしましょうか」