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月下の婚約者

作者: セイジン


 リリアが初めて「彼」と出会ったのは、十五歳の夏、月の祭りの夜だった。


 湖に浮かぶ灯籠の火が、静かな水面を照らしている。

 空には、まるで絵のように丸く輝く満月。

 村人たちは色とりどりの衣装を纏い、月に感謝を捧げるため、湖畔に集まっていた。


 それは、年に一度――いや、十年に一度だけ開かれる、特別な満月の祭りだった。


 リリアは人混みを離れ、一人、湖の反対側を歩いていた。

 騒がしいのが少し苦手だったのだ。


 ふと、視界の先に人影が見えた。


 彼はひとり、月を背に立っていた。

 白銀の髪が夜風に揺れ、長い黒衣が草をすべる。

 あまりに場違いで、あまりに幻想的な姿。


「……君は?」


 声をかけると、彼はゆっくり振り向いた。


 そして、微笑んだ。


「月の民だよ。地上の風は、十年ぶりだ」


「……え?」


 リリアは瞬きし、冗談かと思って笑いかけた。

 けれど、彼の眼差しは澄んでいて、冗談には見えなかった。


「君の名前は?」


「リリア……」


「リリア。きれいな名前だね」


 不思議と、警戒心が湧かなかった。


 声が心地よくて、どこか懐かしい響きを持っていた。


 月の民――そう名乗った彼の名は、シエル。


「本当に月から来たの?」


「うん。地上には満月の夜、一晩だけ降りられる。月の掟なんだ」


「じゃあ、明日には……いなくなるの?」


「そういうことになるね」


 淡々と告げられた別れの言葉に、胸の奥がきゅうと痛んだ。


 けれどその夜、リリアはなぜか彼と長く話したくなった。


 湖のほとりに並んで座り、月の話をした。

 星の話をした。

 好きなもの、苦手なこと、初恋のこと、夢のこと。


 時間が止まったかのように、夜が続いてほしいと願ってしまった。


「……君と、こうして出会えたことが嬉しい」


 シエルがそう言ったとき、リリアはふいに涙が零れそうになった。


「また、会える?」


 月の人である彼に、そんなことを訊くのはおかしいとわかっていた。


 それでも、訊かずにはいられなかった。


 シエルはしばらく黙って、そして静かに頷いた。


「十年後。次の満月の祭りの日に、またここで待ってる。……約束だ」


 その手は少し冷たくて、けれど確かにリリアの手を握ってくれた。


 それが夢でなかったことの証のように。


***


 翌朝、目を覚ましたリリアは、まず湖へ向かった。


 シエルの姿は、どこにもなかった。


 でも、草の上に月の形をした白い花が、一輪だけ落ちていた。


 それを見て、彼女は泣き笑いした。


 きっと、また会える。


 十年後の満月の夜に、彼は――


 もう一度、ここへ来てくれる。


 十年後。


 再び満月の夜がやってきた。


 二十五歳になったリリアは、幼い日の約束を胸に、あの湖畔を訪れていた。


 まるで夢だったかのような、あの出会い。

 けれど、白い月の花は、今も彼女の部屋の硝子瓶の中で静かに咲いている。


 あれが幻であるはずがない。

 そして、彼はきっと――


「……やあ、リリア」


 懐かしい声が背後から届いた。


 振り向くと、そこにはまったく変わらぬ姿のシエルが立っていた。

 あの夜と同じ白銀の髪、黒衣、そして微笑み。


 時間など存在しないような、月の人のまま。


「……本当に、来てくれた」


 リリアは、思わず胸に込み上げる感情を押さえきれなかった。


「約束したからね」


 シエルは、ふわりと月の花を手にしていた。

 まるで、十年前の夜が続いているかのように。


***


 それから、ふたりは同じ時を過ごした。


 十年に一度しか会えない。

 けれど、その一夜がとても濃密で、何年分もの愛しさを重ねられた。


 三十五歳の夜、リリアはシエルに自分の店の話をした。

 四十五歳の夜には、彼に家族を紹介した。

 五十五歳の夜には、年齢をからかわれて笑った。


 けれどシエルは、いつも変わらなかった。


 十年が経とうと、百年が経とうと――彼は月の時の中にいた。


「……僕は、リリアと同じ時を生きられない」


 ある年、彼が静かに言った。


「けれど、それでも……君が笑ってくれるなら、それでいいと思ってた」


「私も……わかってたの」


 リリアは微笑む。


「でも、それでも……この一夜のために、私は生きてるの。あなたを、待ってるの」


 その言葉に、シエルは初めて強くリリアの手を握った。


 そして、六十五歳の満月の夜――


 リリアは、彼の前でそっと薬指を差し出した。


「ねえ、シエル。次に会えるとき、私の婚約者になってくれる?」


 年齢も、時間も、種族の壁すら超えて、リリアは本気だった。


 シエルは、真剣な眼差しでリリアを見つめたあと、ゆっくりと頷いた。


「……ああ。次の満月に、君に指輪を贈ろう」


 その夜の湖は、月の光がひときわ眩しく見えた。


***


 けれど――次の満月の夜を前にして、リリアのもとに、一本の手紙が届く。


 それは、空から舞い降りた一枚の月光の紙だった。


『リリアへ


 僕はもう、地上に降りることができない。


 次の満月、君の前に姿を見せることはできないだろう。


 これは、僕たちの契約の限界。

 ……ごめん。


 君を想う心だけは、変わらず月にある』


 手紙の最後に、シエルの名はなかった。


 ただそこには、月の花の押し花が添えられていた。


 満月の夜、リリアはひとり湖畔に立っていた。


 十年ごとにここを訪れては、笑い、語り、心を重ねてきた。

 なのに今夜は、彼の気配がない。


 湖面に揺れる灯籠の光は、いつもより静かで、冷たい。

 そして空には、何事もなかったかのように、変わらず満月が浮かんでいる。


 手には、あの月光の手紙。


 折りたたまれた花びらが、しわくちゃになるほど、握りしめていた。


(……もう、来られないのね)


 リリアは天を仰いだ。


「シエル……聞こえる?」


 応える声はない。


「私は……あなたに婚約を申し込んだんだよ?」


 くすりと笑おうとしたが、頬を伝う涙がそれを遮った。


「十年に一度でもいい。会えるって、信じてたのに」


 彼女は手紙を胸に当てる。


 そこには「ごめん」とあった。

 だが、謝罪よりも先に、最後の一文があった。


『君を想う心だけは、変わらず月にある』


 それだけが、唯一の救いだった。


***


 家に戻ったリリアは、月の花を一輪だけ摘み、窓辺に飾った。


 それは、彼との最後の記憶になるかもしれなかった。


 けれど――


「終わりにしたくない」


 そう、心の奥から声が湧いた。


「もし、もうあなたが来られないなら……私が、行けばいい」


 鏡のような月の光が、部屋に満ちる。


 昔語りの中で、リリアは月の民にまつわるある伝承を聞いたことがある。


『地上の者が自らの魂を手放す覚悟を持てば、月の門が開かれる』


 それは、命を賭けることを意味する。

 もう地上には戻れないかもしれない。

 けれど、もう一度彼に会えるのなら、それでいいと、そう思えた。


***


 次の日、リリアは村の長老を訪ねた。


「月の門を開く方法を、教えてください」


 その言葉に、長老は驚き、そしてしばらく黙り込んだ。


「……あれは、戻れぬ旅じゃぞ」


「わかっています」


 リリアはまっすぐに答えた。


「私はもう、自分の人生を生き切った。

 だから、今度は――彼と、共に生きたいんです」


 その瞳には、もはや迷いはなかった。


 長老は静かに頷き、かつて伝えられた“月への祈り”を語り始めた。


「満月の夜、湖に影を映し、心から名を呼べ。

 月に愛された者にだけ、門は開く」


***


 リリアは決めた。


 次の満月の夜、すべてを賭けて、もう一度、シエルに会いに行く。


 それがどれほど儚く、途方もない願いであったとしても――

 彼と出会い、共に笑い、恋をして、そして約束を交わした。


 その事実がある限り、彼女の心はもう迷わなかった。


 満月の夜、リリアは再び湖畔に立っていた。


 風は静かで、空は晴れ渡り、雲一つない夜空の中央に、白く丸い月が浮かんでいる。


 手には、月の花。


 胸には、あの日交わした約束。


 そして、口元には微笑み――けれど、その微笑みの奥には、涙をたたえた覚悟があった。


「……シエル。私は、行くよ」


 湖面に映る自分の影に、そっと手を伸ばす。


 影が揺れると同時に、湖の中心にひとすじの光が差し込んだ。


 まるで月が道を開くかのように、銀の光が湖面を渡っていく。


 リリアはそっと靴を脱ぎ、光の道に足を踏み入れた。


 冷たさはなかった。ただ、懐かしい温もりに包まれていた。


 ――そのとき。


「リリア!」


 どこか遠くから、切羽詰まった声が響いた。


 振り返ると、湖の反対側に、シエルが立っていた。


 月の光をまとい、懸命にこちらへ手を伸ばしていた。


「来るな! その先は戻れなくなる!」


 けれど、リリアは微笑んだまま言う。


「あなたが来られないなら、私が行く。それだけよ」


 その言葉に、シエルは苦悶の表情を浮かべた。


「……どうして、そんなに無茶を」


「無茶じゃない。私は……あなたを愛してるの。あなたと一緒に生きたい。月でも、どこでも」


 湖を渡る銀の道は、ゆっくりと狭まり始めていた。


 シエルは歯を食いしばった。


「君に……そんな犠牲をさせられない」


「犠牲なんかじゃないよ。これは、私が選んだ道。

 十年ごとに会える幸せをくれたあなたに、私は今度こそ、全部の時間をあげたいの」


 リリアの涙が、月の光にきらめいた。


 そして、静かに続ける。


「あなたが月に帰れなくなったとしても、私がそばにいる。

 それで、もう寂しくなんかないでしょう?」


 シエルは、絶句した。


 その目が、ゆっくりと揺れた。


 彼は、何度もリリアに別れを告げようとした。


 けれど、いつも笑って送り出す彼女に、何も言えなかった。

 だからこそ、今度は自分が、彼女の覚悟に応える番だ。


「……来い、リリア」


 差し出された手。


 その手を取った瞬間、銀の道が輝き、ふたりの姿はゆっくりと光に包まれていった。


 やがて、すべてが静かに消える。


 湖にはただ、満月が映るのみ。


***


 村では、その夜以来、リリアの姿が消えたと騒がれた。


 けれど、誰も悲しまなかった。

 なぜなら、満月の夜、湖のほとりには、ふたつの影が寄り添うように見えるからだ。


 それは、静かに笑い合う恋人たちの姿――


 地上と月の狭間で、時を越えて結ばれた、ふたりだけの物語。


 やがて人々は語るようになった。


 「月に消えた婚約者」として。


***


 銀の道を越え、リリアが目を開けたとき、そこはまったく異なる世界だった。


 空は深く淡い光に包まれ、どこまでも静かだった。

 地面には白い草が茂り、花は光を宿しながらゆっくりと揺れている。


 夢のように柔らかく、現実とは思えない場所――そこが「月の世界」だった。


 その中心に、シエルは立っていた。


「ようこそ、リリア」


 微笑んで差し出された手を、リリアはそっと取った。


 温もりは変わらない。

 ただ一つ、月の世界に来たことで、なにかが本当に“始まった”のだと感じた。


***


 月の民は、地上とは異なる時間を生きていた。


 一日が一年に相当し、感情の動きもごく穏やか。

 彼らの間で「恋」という概念は希薄だった。


 けれど、そんな中でシエルだけは、異質な存在だった。


 千年前、彼は地上に降りた月の使者として多くの人と触れ、心を揺らすことを覚えた。

 その結果、彼は“地上への執着”という禁忌を持ってしまった。


 それが、彼に「十年に一度しか降りられない」という制限を課した理由だった。


 リリアがそれを知ったのは、月に来てからしばらく経ってのことだった。


「……それでも、地上に降りるたび、君に会うことができた。それが、何よりの救いだった」


 シエルはそう語った。


 リリアは静かに頷いた。


「でも今は、もう私がここにいる。だからもう、あなたが罰を受ける理由はないわ」


「そうだな。……本当に、そうだ」


 シエルはその手を取り、深く見つめた。


 けれど、彼の表情の奥には、言い知れぬ葛藤があった。


***


 月の民たちはリリアの存在を歓迎した。


 異邦人への好奇心と、シエルが誰かを連れてきたことへの驚きと。


「人の娘よ。お前の魂は、長くはこの地にとどまれぬ」


 そう言ったのは、月の長老だった。


「地上の者は、月に生まれぬ。

 お前がここに留まりたいならば、“魂を結び直す儀式”が必要だ。

 それは、互いの誓いによってのみ成るもの」


 それは、“婚約”を超えた、魂そのものの契約――


 リリアとシエルが共に生きるには、心だけでなく命をひとつに結ぶ覚悟が求められていた。


「……君は、それでも構わないのか?」


 リリアは、ほんの一瞬だけ考えた。


 そして、まっすぐな瞳で頷いた。


「構わないわ。だって私はもう、ずっと前から――あなたのものだったもの」


 その言葉に、シエルは苦しげに目を閉じた。


「……ありがとう、リリア」


 けれど彼の声には、微かに震えが混じっていた。


 その理由を、リリアはまだ知らなかった。


 魂の契り――それは月の民にとって、もっとも重い誓い。


 相手と生命の核を共有し、片方が傷つけばもう片方も痛みを感じる。

 喜びも、哀しみも、すべてを分け合う覚悟が求められる。


 その契りを交わした者は、互いを半身として生きていく。


 リリアは迷わなかった。


 だが、シエルは――その手前で立ち止まっていた。


***


 ある日、月の丘に咲く銀の草原で、リリアはシエルと並んで座っていた。


「シエル。あなた、何か隠してるでしょう?」


 リリアの声は穏やかだったが、その芯は硬かった。


 シエルは少し黙っていたが、やがて口を開いた。


「……リリア。僕は、ずっと考えていた」


「なにを?」


「君と魂を結べば、たしかに一緒にいられる。けれどそれは、君の未来を月に縛ることになる」


 リリアは少し驚いたように瞬きをした。


「……それが怖いの?」


「君は、人間として美しく歳を重ねてきた。

 記憶も、時間も、言葉も、全部が、地上に生きる者の優しさだった」


 彼の言葉は、静かに震えていた。


「でも、魂を結べば――君は、もう“人”ではなくなる。

 僕と同じように、変わらぬ時の中で、月の存在になってしまう」


「それが、どうしたの?」


 リリアはそっと彼の手を取った。


「私が、あなたと生きるって決めたの。だったら、“人”であることに、こだわらない」


 シエルは、かすかに笑った。


「君は、強いな」


「違うよ」


 リリアは首を横に振った。


「私は、十年に一度しか会えないあなたを、それでも愛してしまった弱い女なの。

 でも、そんな私を最後まで受け入れてくれたのは、あなたでしょ?」


 その言葉に、シエルは目を伏せた。


 けれど、彼の中で何かが解けていくのを感じていた。


 長い時間、ずっとひとりだった。


 誰にも愛を向けることなく、静かに“地上への想い”だけを抱えていた。


 それを溶かしたのは、毎回変わらずに現れた、ただ一人の人間の少女。


 リリアだった。


「……本当に、後悔しない?」


「後悔は、たぶんしない。でも、あなたと一緒に後悔できるなら、それもきっと幸せよ」


 リリアの笑顔は、満月のようにやさしかった。


 シエルは、ゆっくりと彼女を抱きしめた。


 この腕の中にあるものを、もう決して手放さないと、心に誓った。


 魂の契りは、満月の夜、月の宮の最奥――「誓いの泉」で交わされる。


 その日、リリアは白い衣をまとい、ゆっくりと光の道を歩いていた。

 周囲には月の民たちが静かに集まり、ひとつの奇跡を見守っている。


 泉は透明で、空のように深く、足元に星のような光を宿していた。


 対岸に立つのは、シエル。


 変わらぬ姿。けれど、その瞳は今までで一番強く、深かった。


「リリア」


 彼が名を呼ぶと、胸が熱くなった。


「この魂を、君に捧げよう。

 哀しみも、喜びも、過去も未来も、全部……君と分かち合いたい」


 リリアはそっと頷いた。


「私のすべてを、あなたと生きるために。

 たとえどんな形でも、あなたと一緒なら、私は怖くない」


 二人は泉の中心に立ち、互いの手を重ねた。


 その瞬間――泉の光が大きく脈打った。


 銀の光がふたりの身体を包み、やがて空へと伸びていく。


 月が静かに震えた。


 古くから続いた掟が、いま、書き換えられようとしていた。


***


 だが、泉がその輝きを増したその時――


 空が急に陰り、風がざわついた。


「……何だ?」


 ざわめく民の中で、ひとりの老いた長が震える声で叫んだ。


「まさか、“月の均衡”が……!」


 シエルがリリアの手を強く握り締めた。


 魂を結ぶということは、月の世界に新たな命を加えること。

 それは“均衡”を揺るがす行為だった。


 月の民は、永く固定された存在。

 そこに「変化」が加われば、世界そのものが揺らぐのだ。


 シエルはリリアを庇うように前に出た。


「もしこの誓いが月にとって異物であるのなら、罰はすべて――僕に下さればいい!」


 その叫びと同時に、空から巨大な月光の柱が落ちてきた。


 それはシエルを貫こうとして――


「だめっ!」


 リリアが、咄嗟に彼を抱きしめた。


 次の瞬間、光がふたりを飲み込んだ。


 ――静寂。


 月の風が止まり、時が凍ったようだった。


 そして、光がゆっくりと晴れていく。


***


 ふたりは倒れていた。


 だが、息はある。

 ただ、彼らの周囲には、新たな波紋のような光が広がっていた。


 泉の水が蒼く光り、ふたりの身体を優しく包み込んでいる。


 そして、月の空に――新たな星が、ひとつ生まれた。


 それは、ふたりの魂が一つになった証。

 月が“誓い”を受け入れた奇跡の瞬間だった。


 月の民たちは、誰ともなく静かに跪いた。


 変化を拒むのではなく、讃えるように。


 月の世界に、新たな夜明けが訪れていた。


 光の泉で魂を交わしたふたり――リリアとシエルは、静かに目を覚ました。


 リリアの身体は、月の気にすっかり馴染んでいた。

 血の鼓動はゆるやかで、けれど確かに生きている。


 傍らのシエルが、そっと手を取って言う。


「おかえり、リリア」


 その言葉に、リリアは微笑んだ。


「ただいま、シエル。……もう、永遠に一緒だね」


 ふたりの魂は、ひとつになった。


 月の時の中を、共に歩くことを許された存在。


 それは奇跡だった――けれど、確かな現実でもあった。


***


 地上では、リリアが消えてから十年が経とうとしていた。


 あの夜、満月の湖でふたりの姿が消えたあと、村人たちは語り継ぐようになった。


 ――満月の夜、湖にふたつの影が映る。

 ――それは、かつて恋を誓い合った“月の婚約者”たちの姿。


 若者たちは、その影を見て願いをかけるようになった。


 「大切な人と結ばれますように」と。


 やがて、その湖は「誓いの湖」と呼ばれるようになる。


 花嫁たちは、満月の夜に湖畔を訪れ、リリアとシエルのような永遠の愛を夢見る。


***


 月では、ふたりは穏やかに暮らしていた。


 日々、草原を歩き、光の庭を飾り、互いの記憶を語り合う。


 変わらぬ時の中で、変わらず心を重ねる。

 それは、地上とは異なるけれど、確かに“生きている”ということだった。


「ねえ、シエル。今でも時々、不思議に思うの」


「なにが?」


「こうしてあなたと並んでいることが、夢みたいだなって」


 シエルは優しく笑った。


「これは夢なんかじゃない。君が選び、僕が応えた“現実”だよ」


 リリアはその言葉に頷き、空を見上げた。


 そこには、ふたりの名が宿る星がまたたいている。


 どこか懐かしい地上を、見守るように。


***


 この物語は、語られるたびに少しずつ形を変えながらも、忘れ去られることはなかった。


 ――十年に一度、月の花が咲く夜に、湖畔で待ち続けた少女と

 ――約束を守りに来た月の青年。


 ふたりの愛は、満ちる月のように静かに、けれど確かに世界を照らし続けた。

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