紫へ
その朝、空は驚くほどに澄み切っていた。
滑走路に立った十九歳の彼は、油と鉄の匂いが染みついた白い鉢巻を締めなおし、深く息を吸い込んだ。その息が、肺の奥にじんわりと染み込む。今日が、自分の命の終わる日だというのに、妙に穏やかな気持ちだった。
両親のこと、妹のこと、隣に住んでいたあの子の笑顔浮かんでは消えていく顔たち。どれもが、遠い夢のようだった。
「....行ってきます」
囁くように呟き、彼は零戦に乗り込む。
滑走路の先には青い空と、敵艦隊が待っている。
彼は“死”を恐れていなかった。
むしろ、それが役目であり、誇りでもあった。命を捧げることで、国を、家族を、未来を守るそう教えられてきた。
機体が加速する。
エンジンの轟音が空気を震わせ、風が風防を叩く。
すでに照準は定まっていた。
彼の目の前には、海と艦隊、そして……
白い霧が、突如として現れた。
まるで天から降り注ぐカーテンのように、機体の前方を覆っていく。異常だった。
この高度で、これほど密度の高い霧が発生することはない。無線は雑音にかき消され、コンパスは針をぐるぐると回し始める。
「....何だ、これは....?」
霧は音もなく、じわじわと機体の中にまで染み込んでくるかのようだった。視界が狭まり、手元の計器が次々と反応を失っていく。
そして、彼の意識が、音もなく沈んだ。
目を覚ましたとき、そこは森の中だった。
鳥のさえずり。
柔らかな陽光。
遠くに見える赤い鳥居。空には雲ひとつなく、戦場の匂いも、焼けた金属の匂いもなかった。
彼は自分の身体を見下ろした。
血は出ていない。傷もない。だが、零戦は消えていた。
代わりに、落ち葉と苔に覆われた地面があった。
「....生きてる?」
言葉にした瞬間、彼の声が空気に溶けていく。その時だった。
「....ようこそ、幻想の境へ」
どこからともなく、涼やかな声が降ってきた。声の主は、紅紫の和傘を傾けた一人の女性だった。金色の長髪。眠たげな瞳。
そして、どこか“人ではない”空気を纏っていた。
彼女は微笑む。
「ここは幻想郷。あなたの世界ではありません」「あなたは……生きているのかもしれないし、死んでいるのかもしれない」
その言葉に、彼は何も言い返せなかった。
目覚めた彼は、しばらくその場から動けなかった。
木漏れ日が揺れる森の中。風の匂いが、どこか懐かしい。けれど、どこを見渡しても、自分の知る日本の風景とは違っていた。森の音はやけに静かで、鳥の鳴き声さえ、時間の流れを歪ませるように聴こえる。
そんな中、再び現れたのは、あの紫色の和傘を差す女だった。
「調子はどうかしら?」彼は黙って女を見つめた。
彼女の容貌は、まるで絵巻から抜け出してきたようだった。艶やかな長髪に、異国の貴婦人のような装い。そして、瞳の奥には底知れぬ深さがある。
「....どこ、なんですか、ここは」ようやく絞り出した声に、彼女は少し首を傾げて答えた。
「ここは幻想郷。あなたたちの世界ではないわ。けれど、かつて存在した想いや、語られなかった物語が、残り続ける場所よ」
彼には、彼女の言葉が理解できなかった。
ただ、そこにある優しさと静けさだけが、まるで体温のように感じられた。
「....俺は、死んだんですか」
彼女は一瞬、言葉を止める。
そして、静かに微笑んだ。
「わたしにも、それは分からない。でもあなたは、ここにいる。確かに、今を生きている」
そう言うと、彼女は和傘をたたみ、彼に手を差し出した。
「行きましょう。少し風に当たったほうがいいわ。お腹も空いているでしょう?」
....不思議だった。
どこか恐ろしくもあるはずの女の誘いに、彼はなぜか逆らうことができなかった。むしろ、心の奥で“この人に導かれたい”という奇妙な安堵が芽生えていた。
彼女は“八雲紫”と名乗った。
その名に聞き覚えはない。
しかし、名前を聞いただけで、どこか胸がざわつく。
「私は、幻想郷の“境界”を見守る者。あなたのように、こちらとあちらを行き交う人々を導く立場にあるわ」
紫に連れられて歩くうち、彼は小さな集落のような場所に辿り着いた。人もいれば、明らかに人とは思えない者たちもいた。
彼に対して驚いた顔をする者、無関心を装う者、好奇の視線を向ける者しかし誰もが、紫の存在には一目置いているようだった。
「ここでは、あなたの過去は問われない。あなた自身が“どう生きたいか”だけが、価値になるのよ」
紫の言葉は、どこか現実離れしていた。けれど、それがこの地の“普通”なのだということを、彼の体はすでに理解し始めていた。
「しばらく、ここで暮らしてみなさい」「そして、あなたが“どこへ帰るべきか”、自分で見つけなさい」
それは命令ではなく、提案だった。だが、彼にとってそれは、ほかに選べる道のない提案だった。
こうして彼は、“一時の滞在者”として幻想郷での暮らしを始めることになった。紫の庇護のもと、誰に敵視されることもなく、静かな日々が過ぎていった。
そして、彼は気づき始めていた。紫という女の存在が、自分の中で次第に“大きく”なっていることに
幻想郷での暮らしは、あまりに静かだった。
朝は早く、鳥の声で目覚める。紫が用意した仮住まいの縁側で、茶を飲みながらぼんやりと空を眺める。人里の市場を見物し、畑を手伝い、時には子どもたちに昔話を語ることもあった。
まるで、生き直しているようだった。
戦地では、明日の命さえ分からなかった。けれどこの地では、時間がやわらかく、命がゆるやかに流れていた。
紫との時間もまた、日常に溶け込んでいた。
彼女は決して多くを語らなかったが、彼が問いかければ静かに答えた。境界とは何か。
幻想郷とは何か。
人とは何か。
そして、死とは何か。
「あなたは“死に損なった”存在なのかもしれないわね」
紫は時折、そんなことを平然と言った。
「けれど、“死に損なう”ということは、生を得たということでもあるのよ」
言葉の端々に、不可思議な哲学が混じる。それでも、彼はその言葉たちを噛み締めていた。語り口は静かでも、紫の瞳には、確かに彼を見つめる熱があった。
ある日、彼は紫に尋ねた。
「あなたは....何者なんですか?」
紫は少し黙り込み、微笑を浮かべた。
「私はただの、“観る者”よ。境界を見守り、時折それを揺るがせる者」
「では、僕は?」
紫は彼をじっと見つめる。
そして、囁いた。
「あなたは、“こちら側”に残る選択もできたのよ」
その意味は、すぐには理解できなかった。けれど彼は、それが“誘い”であったことを、後になって知ることになる。
夕暮れ時、紫と二人きりで歩いた竹林。月明かりの下、傘の影に浮かんだ彼女の横顔。どれもが彼の胸に焼き付いて離れなかった。
彼は、恋をしていた。
それが現実か幻想かはどうでもよかった。この地で、この時に、彼女といることが、彼の“今”だった。
けれど、紫は一線を越えなかった。手を伸ばせば届く距離にいながら、その心の奥へは踏み込ませてくれない。
「あなたが“帰る者”である限り、わたしは“境界のこちら側”のまま」
それは約束のようでもあり、別れの布石のようでもあった。
彼は思った。いっそこのまま、戦争も過去も忘れて、ここで生きてしまいたいと。
けれど、紫のまなざしは、どこか遠くを見つめていた。まるで彼の“帰るべき場所”を、誰よりも知っているように。
季節が巡った。
幻想郷で過ごす時間に、彼は少しずつ馴染んでいった。だが、彼の内側には、いつも“現実”が静かに残っていた。
かつての戦場、特攻機の振動、仲間たちの無言の眼差し。それらを完全に捨て去ることは、彼にはできなかった。
「....紫さん。俺は、帰らなきゃいけないんですか」
ある夜、静かな湖の畔で彼は問うた。
紫は月を見上げたまま、答えなかった。
「幻想郷に、ずっといてもいいのなら....」
声が震えていた。
思いを、今こそ伝えるべきか....
けれど、紫は静かに言った。
「あなたの“願い”が、境界を揺らしたの」
彼は、言葉を飲み込んだ。
「あなたが、死ぬことを拒んだ。その強い思いが、この世界との“縁”を生んだのよ」
彼の胸が、ずしりと重くなる。ここは逃げ場だったのかもしれない。死から、生から、すべてからの。
「でも....もう“縁”は薄れつつあるわ。時間は、元に戻りつつある」
その意味は明確だった。彼は、元の世界へと“還る”時を迎えようとしていた。
「俺は、ここにいたい」
それが嘘ではないと、自分でも分かっていた。
紫といることが、彼にとっての救いだった。戦争も、死も、過去も、彼女の隣では色を失った。
「....でも、それは“逃げ”なんですね」
紫は頷かなかった。ただ、その目をそっと閉じた。
「紫さん....俺は....」
言いかけた言葉は、霧に呑まれた。
風が吹き、湖面が揺れる。彼女の髪がなびき、和傘の縁が月明かりを遮った。
「言わなくていいの。あなたの想いは、もう分かっているから」
その言葉は、優しくもあり、残酷でもあった。
彼は、何も言えなかった。ただ、月に照らされた彼女の姿を、いつまでも焼き付けようと目を逸らさなかった。
そして、彼の足元から、再び“霧”が立ち上がる。
見覚えのある白い靄。あの日、特攻の瞬間に包まれた霧と、まったく同じだった。
「もう....戻るのですね」
「ええ。あなたの“時間”が、あなたを迎えに来ているわ」
彼は、一歩だけ紫に近づいた。
「ありがとうございました。....本当に、俺は....」
その先は、声にならなかった。
紫は静かに微笑む。
「大丈夫。あなたはきっと、誰かの幸せを見つける」
そして霧が彼を飲み込む。
最後に見たのは、月明かりの中で微笑む彼女の姿....そして、彼女の唇が、声にならない言葉を紡いだ気がした。
けれど、その言葉が何だったのか、彼は決して知ることはなかった。
彼が再び目を覚ましたとき、そこは軍用機の中だった。
身体の感覚はしっかりとあり、手には操縦桿を握っていた。....機体は、すでに火を噴いていた。
空が燃えていた。
風が唸りを上げる。それでも、彼の心は、不思議なほど穏やかだった。
彼は操縦桿を離した。次の瞬間、機体は爆風に飲まれ、そして、闇。
....彼は、目を覚ました。
病院の白い天井。奇跡的に生き延びたのだという。
だが彼には、死ぬほど鮮明な“夢”があった。幻想郷での日々。
紫の微笑み。
風の音、湖の波紋、
そして
言葉にできなかった想い。
戦争は終わっていた。
日本は敗れ、彼は“帰還兵”として静かに社会へ戻った。
年月が過ぎ、彼は結婚し、家庭を持った。子を育て、働き、眠り、老いた。そして、幻想郷のことを語ることはなかった。
だが、忘れた日は一日もなかった。
時折、風に揺れる傘の影を見て、胸が締めつけられた。黄昏に差し込む光の縁に、彼女の面影を探してしまうこともあった。
やがて、老いは彼のすべてを包んだ。記憶も、手足の力も、次第に失われていく中
彼は一通の手紙を書いた。
拝啓 八雲紫殿
もし、これが届くのなら、どうか笑ってやってください。わたしはあなたに、何も伝えられぬまま、ただ生き延びてしまいました。
あなたに恋をしていたこと。あなたと過ごした日々が、どれほど心の支えだったか。そして、それでもあなたの隣に生きることは叶わなかったこと。
悔いてはいません。この世界にも、愛する者ができました。けれど、あの湖畔の月と、あなたの横顔は、きっと最期まで、わたしの心から消えることはないでしょう。
あなたは言いました。
「生きることは、選び直すこと」だと。
わたしは、あの日、あなたに何も言えなかった。
だから今、この手紙にすべてを託します。
ありがとう。あなたのような人に出会えたことが、 わたしの人生にとって、たしかな奇跡でした。
敬具
手紙を書き終えたその夜、彼は静かに息を引き取った。
誰にも見せなかったその封筒は、やがて風に舞い、いつしか人知れぬ霧の中へと消えていった。
幻想郷の片隅。竹林の奥にぽつりと佇む湖のほとりに、一陣の風が吹く。
紫はふと顔を上げる。和傘の影の中、その指先に、ひとつの封書が触れた。
彼女は何も言わず、それを胸に抱き、微笑んだ。
その瞳に、ほんのひとしずくの光を宿して。