Ⅰ.不愉快な雨
布が肌にぴたりと張り付いている感触が不快だった。
彼女はすっかり雨で濡れてしまった前髪を右手で払いながら、隣に立っている青年を盗み見た。
視線に気付いたのか、彼はにこやかに笑いかける。いかにも好青年然とした人のよさそうな彼は、灰色の空を見上げた。
「見かけない顔だね、もしかしてパメラさんのいってた娘?」
青年の言葉に彼女は頷いた。
「ロゼルよ。あなたは?」
「ケネス。ケネス・シャレット。うち、花屋なんだ。興味があるなら今度来なよ、まけるからさ」
そういって彼はにっと笑った。わかるかな、場所。ケネスは思い付いたように訊いてきた。それはロゼルも知っている。色とりどりの花が並んでいるので、あの道を好んで通っていたのだ。そういえば、見覚えのある顔だった。ミセス・シャレットは息子がいるのだといっていたか。
灰色のコートに黒い革靴。焦げ茶の髪はしっとりと濡れている。ライトブラウンの瞳は母親譲りなのだろう。
「そうだ、ミレイユには会った? 俺の幼なじみなんだけど、君と歳も近いし、仲良くなれると思うんだ」
知らない。いいかけて、落とした果物を拾ってくれた少女が脳裏に浮かんだ。
「ねえ、その娘、亜麻色の髪?」
「ああ、そうだよ。知っているのかい?」
ええ、彼女、とてもいい娘ね。ロゼルはそういったものの、彼女とは仲良くなれないだろうと考えていた。ああいうひとは苦手だった。
ロゼルの言を疑いもしないケネスは自分のことのように喜んだ。そうだろ。あいつは、俺の妹みたいなものなんだ。
はしゃぐケネスを尻目に、ロゼルは空を仰ぐ。
相変わらず灰色の空ではあるが、雨は止んでいる。
「パメラさんにもよろしくいっておいて」
ケネスはロゼルに別れを告げて歩いていった。
しばらく彼の後ろ姿を眺めていたロゼルだったが、首筋に張り付いた髪を払いのけると、逆方向へと歩き出した。
ロゼルは家には戻らず、町外れの泉へと向かった。
泉を覗き込むと深いため息を吐いた。
髪の生え際からは、ところどころ金色の髪が覗いている。灰色がかった緑の瞳はめずらしいからせめてこの金髪だけでもと思ったのだが、地毛がばれないように気をつけなければいけないのが大変だ。注意深いひとにはばれてしまうのも時間の問題かもしれない。
実際、パメラには知られてしまっているようだが、彼女はそのことについて訊いてはこなかった。ただ遠回しに、綺麗なのにもったいないとはいっていたが。
彼女はおせっかいなようでいて、なかなか無関心だった。ロゼルが卑しからぬ身分の出であることに薄々感づいているようだったが、一切訊いてこない。ロゼルがいいたくないことなのだろうと配慮している風ではなく、単に興味がないからだ。ロゼルにとって、一緒にいて気のおけない相手だった。
パメラのようなひとは好きだ。干渉されず、一定の距離を保ちながら付き合うことは、ロゼルが望んでいる関係だ。
だから願わくば、彼女に害が及ぶことがないように。
もしものことがないことが一番いいのだけれど。
王都からは馬車に揺られて二日ほどの距離にある、小さな町。都会とはおおよそ呼べないが、それでも強かな活気に満ちている。昔はそれなりに栄えていたらしいこの町は、風情溢れる町並みで、王都とはまた違った雰囲気がある。
そんな町の一角に、小さな喫茶店がある。
「ロゼル、これを運んでおくれ」
「はーい」
ロゼルと呼ばれた黒髪の少女は元気よく返事をした。ロゼルはパメラからトレイを貰い、二人組の男女が座っているテーブルへと持っていく。店内にはこのふたり以外には老人がひとりいるだけだ。
パメラに手招きされてロゼルが近寄ると、彼女は買い出しに行ってくるようロゼルに頼んだ。
ロゼルは頷き、渡された数枚の銅貨を財布にしまい込む。それをポーチに戻し、店の裏口から出ていった。
ロゼルがこの町に来てからすでに二週間が経とうとしていた。
最初は町になかなか馴染めないでいた彼女だったが、パメラに出会ってからというもの、すっかり町に溶け込んでいた。
パメラに巡り逢えたことは最上の幸運だ、とロゼルは思う。彼女がいなければ、三日と経たず野垂れ死にしていただろう。裏通りが治安の悪いものだと失念していたロゼルは、すりに遭い、当面の生活費を失ってしまったのだ。そんなときに手を差し延べてくれたのがパメラだった。彼女は見ず知らずの少女に対して食事や住む場所を与え、自分が経営している喫茶店で雇ってくれたのだ。
なんてお人よしなのだろうと思う。相手が見るからに困っている少女だったとしても、普通なら助けたりはしない。財布を掏られたのも本人の落ち度であり、助けた相手がどんなことをするかもわからないのだ。
もっとも、パメラのおかげで自分は生きていられるわけだが。感謝こそすれ恩を仇で返すようなことはしない。
それにしても。パメラはあのことを知っているにも関わらず、そのことについて追求してこない。気を使っているのか、関心がないのか、あるいは余計な詮索をして面倒事に巻き込まれたくないだけか――それならば最初から保護などしなかったはずだ。いずれにしてもロゼルには都合のいいことだ。尋ねられてどう答えればいいものか、上手い嘘など思い付かない。
パメラは四十間近になる、恰幅のいい女性だ。夫はすでに他界しており、彼との間に儲けた一人娘は隣町に嫁いでいる。ロゼルが来るまでは、パメラひとりで店を切り盛りしており、彼女の都合で突然休みにすることも多かったという。よく近所の主婦と噂話に興じていて、町一番の情報通だと自慢げに話していた。
パメラはまるで娘のようにロゼルを可愛がってくれている。それをロゼルは不快には思ってはいない。むしろ、嬉しかったのだ。あの女とはまったく違い、母性愛に満ちたパメラは、まさしくロゼルの望んでいたひとだった。
あの女を『母』と思ったことはない。外聞ばかり気にして、矜持ばかりが高い貴族の娘。彼女は自らを着飾ることしか頭になかった。少なくとも、ロゼルの目にはそう映っていた。
愛された記憶はない。
思い起こされるのは、どれも苦い記憶ばかりだ。
友人でもあった赤毛の侍女。ロゼルに優しくしてくれたのは彼女だけだった。それが哀れみからだということはわかっていた。侍女の家庭はロゼルほど裕福ではなかったが、愛情が溢れていた。
彼女が侍女仲間と話しているのを聞いたとき、ロゼルの心は折れた。
彼女だけが理由ではない。両親の不貞や劣等感、さまざまな理由が積み重なり爆発した結果だった。
後悔はしていない。世の令嬢達のように生きるつもりはまったくなかった。
ただ時折、思うことがある。
なにもせず、あのまま生きていたら……と。
「――ロゼル!」
彼女の名前を呼ぶ声にロゼルが顔を上げると、軽やかに駆け寄ってくる亜麻色の髪の少女が目に映った。
「ミレイユ」
「今日は仕事じゃなかったの?」
声を弾ませ、ロゼルの少し前で止まった。ぱっちりとした青い瞳がロゼルを見つめている。
「ええ、仕事中よ。買い出しを頼まれているの」
じゃあね。そういおうとして、
「なら、私と行きましょ! ロゼルともっと話したいの」
いやよ、と返事するよりも早く彼女はロゼルの手を取った。
「ち、ちょっと!」
「なあに?」
かわいらしく首を傾げて尋ねられては、強く言い返すことはできなかった。
ずるい、とロゼルは口を強く結んだ。ミレイユは意識的にも無意識であれ、どうすれば相手を意のままにできるかを知っているのだ。
雰囲気はまったく違うのに、母親と重なって見えてしまう。
「……なんでもないわ」
「おかしなロゼル!」
くすくすと口に手を当てて笑う少女に苦言を呈することは、ついにできなかった。