きみの色 雑感
9月に入り、「きみの色」という映画を、田舎のガランとした映画館でポツリポツリと観客のいるナイトに観賞をしてきた。
特に情報も仕入れず、アニメ映画やっていたら、見ようと思ってーー。
見終わったあと、なんだかストーリーが物足りないなぁ、と空気系のようなものをみた気がした。青春にありがちな感情を大にしたぶつけ合いはなく、青春モノなのに静かだ。
まぁ、最後のライブはなぜかいきなりテンション上がっているのだが。SNSバズりサクセスストーリーでも始めるのかと、思ったけど、そんなこともなく、、、これだと「自分のタイミングで卒業した」彼女は将来どうするのか、とふいに不安がよぎったり。
「変えることのできないものを受け入れる心の平穏」
カトリック系の女学校の中で、何度も問われる問い。青春の中で、変えられるものと変えられないもの、それを分別し、受け入れる覚悟。
変えられない思い出を、受け入れること。god almightyやバレエのこと。
何を考えればいいのだろうと、ストーリーの判然としない中で考えさせられる。
わたしは、ストーリーの欠落をいくつも感じる。ストーリー上明確に説明しておいたほうが輪郭がはっきりとしそうな部分が、存外、あやふやで残っていく。
それでもストーリーは進んでいく。猫で進んだりもしますし、捨てたものを拾ったものでも進む。冬の雪景色でも。
動機というものの不明確さが青春の惑いの中で、生まれているのだろうか。
わたしは、それぞれの動機がかなり突然と現れる泡のように思えた。突然学校をやめる少女、突然話しかける少年、突然バンドに誘いーーどれもが色の変化というよりパレットに突然落とされる色のようだ。
青春の化学変化は、ゆったりとはしてくれない一つ一つの合成なのだろう。
ストーリーに入ろうとするよりキャラにポイントをおいたほうがいいのかもしれない。
憧れの少女が学校をやめた、それを気にする少女。
そういうキッカケから始まるけど、主人公は優しい子で、それに深く入ろうとはしない。誰も問い詰めていこうとはしない。
罪。
そっと。
でも、それは罪であって罪ではないのです。
いい子だと思われたくない。
そういう感性があるようだ。特に、さいきん、罪というものの軽さに対して、罰は過剰になりがちだ。
いい子と思われている。先生に、同級生に、祖母に。
でも本当はいい子じゃない、と少女は思っている。
それは、他人を騙しているとして、少女は罪悪感を持つ。
最後は、体育でボールを顔にぶつけてしまい、少女は学校を去る。
罪というものを感じる。その小ささ。
ああ、なんという小さい罪なのだろう。
それが、学校をやめるという選択を選ばせる。
罪悪感を抱かないためには、少女はどうすべきなのだろう。
罪悪感を払拭するには、奉仕活動というものがある。
寮に黙って忍び込んで、それがバレたときのように。
彼女は最後は聖歌を奏で、祖母への罪悪感を払拭する。
変えられないもの 変えられるもの
罪は、変えられないところもありながら、変えられる。
見方を変える、捉え方を変える。大切なところを変えずに。
暗さのない青春の中で、寂しさがずっと沈んでいる。どうしようもない寂しさが。期待やあこがれや信頼やーーそれが人を押し潰す。けど、神は乗り越えられる試練しか与えない。そして逃れる道も与えてくださる。
9/7
きみの色は素人目に見ても、ストーリーの断絶が明らかだ。
評価は少し高いけど、ファン以外が見始めると下がるのでは、と思っている。
この作品は、ストーリーを拒んでいる。
わたしは、パッと見た時に、青色の少女の物語として捉えた。それは、彼女が物語を進めるキーだからだ。彼女は、現代的でz世代的だ。
それに比べて、主人公はファンタジーの世界の人間だ。猫に話しかけたりするとき、現実では危ない人だ。アニメ的だから許され人物像だ。いきなり踊ったりもしますし。
で、3人のバンドメンバーの中で、主人公は特別な位置にいる。親との諍いの軽さ。バンっとぶつかり合う様子はそれぞれにないけど、主人公だけは一応の平穏を持っている
青色の少女は祖母への罪悪感、緑の少年もそうだ。
彼はきっと親の期待に応える道を行く。応えながらも自分の夢を捨てない道を。それは、青色の少女にはできなかった道だ。惹かれ合う二人の仲で主人公はそ色だけを観ている。
主人公の自分だけの世界。色の見える世界。自分だけのストーリー。親との理解の隔たりは最高潮なのに、何も共有できてないのに平穏だ。
わたしは考えながら追記している。
まだ、考えている。
作品の解釈を。
なんで少年の楽器は触れない楽器なのだろう。
バンドシーンの作画が、少し楽器的でないのはなぜなのだろう。
雪は、長崎舞台で、どうして特殊なのだろう