霧の中
「伊藤、伊藤……」
自分を呼ぶ声が聞こえた。
――吉田? その声が吉田秀樹のものであり、助けを求める断末魔のように聞こえた。
そして、伊藤大輔は目覚めた。
辺りは夜だった。
CH‐47JAのコックピット内の計器の微かな明かりで周りが確認出来た。
「山県、大丈夫か?」
副操縦士の山県三等陸尉を揺すり起こす。
「ここは、何処ですか?」
目覚めた山県が周りを見渡しながら言った。
「他の隊員達は?」
二人は後方に行って安否を確かめた。
「桂一等陸曹、寺内二等陸曹、田中二等陸曹、岸二等陸曹、佐藤三等陸曹」
名前を呼びながら一人ずつ体を揺すり起こしていく。
隊員達は目覚めた。
だが、唯一、彼らが秀才と呼ぶ佐藤三等陸曹だけが意識を取り戻さなかった。
「やはり、無理だったんでしょうかね」
山県が言うと、
「いや、秀才の知識は俺達にとって役に立つ」
自信を持って伊籐は答える。
「知識と言っても、学校で習った範囲内での知識じゃ……彼らは教科書には強く、実技には弱い。ここ(自衛隊)では役に立ちませんよ。ここは、経験だけがものをいう世界ですからね。でも、秀才は好きですよ。楽な背広組(文官)にはならず、現場に居るんですから」
それぞれの持つ時計――デジタルは止まっていたものの、アナログの針は動いていた。
デジタルの数字はPM01:00で止まっていた。それは遭難する直前の時間である。アナログの針は2時を差していて、意識を失ってからかなりの時間が経っていた。
「外は夜、それに濃い霧が立ち込めていて遭難の恐れがある。夜が明けるまで、この場で仮眠しよう」
彼らは夜が明けるまでその場で仮眠を取った。
数時間後、白々と夜が明けてきた。
隊員達は霧に包まれた外に出て機体の点検を行った。
機体は木々に当り大破していた。辺りは今まで経験したことのない霧に覆われていて、一メートル先も見えない。
「ここは何処だ? 全ての電子機器がイカレていて、肝心のGPSが使えない」
「遭難直前、比叡山上空を飛行していたんだから、その近くなのは間違いありません。でも、自衛隊が遭難したんじゃ、世間の笑い者になりますよ」
「まったくだ、救助しに来て、我々が遭難したんじゃな」
霧が晴れるまで待機することになった。
濃霧の中、それぞれが朝食の用意をする。
ストーブで湯を沸かしながら隊員達は語り合った。
軍隊向けの保存食として開発された缶詰。戦闘糧食Ⅰ型、通称カンメシ。全自衛隊で共通使用されている戦闘糧食Ⅰ型に対して、陸上自衛隊専用の軽包装糧食と呼ばれる戦闘糧食Ⅱ型は、ビーフカレー、ハムステーキ、フランクフルト、牛丼などバリェーションが豊富。
「この時ばかりは、陸上自衛隊で良かったと思うよ」
そう言って、むさぼるように食べる。
隊員達は、知らずのうちに体力を消耗していた。
「秀才はまだ目覚めないのか?」
伊藤が聞くと、
「はい、前方から突っ込んだので衝撃が大きかったのでしょう」
心配そうに片山が言う。
佐藤はまだ眠ったままだった。
「我々と違ってまだ体が出来ていない秀才には、強い衝撃は耐えられなかったのでは……秀才は有名大学を卒業した後、大企業に就職しエリート街道を歩んでいたそうですが、どうも人間関係が上手くいかず辞めてしまったそうです。失業中、弱い自分を鍛えようと入隊したのですが、無理だったのでしょうかね」
「いいや、秀才には、頭脳の他にも、短期間でチヌークの整備をマスターする器用さもある。体力だけが自慢の我々とは違うタイプだ」
そう伊藤が言って、佐藤を気遣った。
しばらくして、佐藤は意識を取り戻した。
佐藤が目覚めるのを待っていた伊藤は、ようやく重い腰を上げ、この場から脱出することにした。
「鍛え抜かれた自衛隊員が遭難したんじゃ、洒落にならないですよ。今頃、自衛隊がバッシングされているんじゃないですか、税金泥棒だとか。ヘリコプター、一機53億円、それを一瞬で破壊したんだから」
「そう思うと、なんとか自力でここから脱出しなければならないな」
「良く言った。あらゆる武器の類を担いで、ここから脱出するぞ!」
隊員達の尻を叩くように伊藤が言った。
「これを全部、担いで行くんですか?」
「当たり前だ、危険な武器が何者かの手に渡って見ろ、それこそ自衛隊は何をしているんだと叩かれるぞ。これぐらいの重さは演習の時に経験している。あの死の行軍はこんなものではなかった筈だ」
84ミリ無反動砲――主に対戦車用として使う火器で、射撃時に反動が少なく操作や携行が容易なのが特徴。と、その榴弾。89式5,56ミリ小銃――重量三,五キロと軽量なうえ三点制限点射にも切り替え可能、一度引き金を引、連射する機能などが特徴。とその銃弾。保存食に携帯燃料、装備品の数々。それらを担いで脱出するというのである。
極限の状況下を想定して行われる野外訓練。根を上げない体力だけは、彼らが唯一自慢出来るものであった。
「やっぱり、これらを担いで行くんですよね?」
「もちろんだ。これは遭難した我々の仕事。せめて手助け無しで、自力でここから脱出しなくては。しかし、重量のあるカールグスタフと榴弾は置いておく。素人では扱えないし、あんな物を盗もうとはしないだろうからな。この先は延暦寺のある観光地だ。人目を避けるため車道は避け、出来るだけ山道を通って行こう。それと、バディの誤射を防ぐために、安全装置は利かしておけよ」
伊藤達は人目を避けるように山道を進んで行った。
空は日食のように暗く、四方が曇り、土器の粉のような物が舞っていた。
「これは灰です、降灰です」
佐藤が灰を握り締めながら言った。
降り積もった灰は、草木に積もって大地は霜の朝のように白く輝いている。
更に、馬の尾に似た黒、白、赤と言った色の毛髪のような物が降って来た。
「あれは火山毛です。火山の噴火の際に、粘性の小さいマグマが火口内で細長く引き伸ばされて出来る物です。降灰といい、火山毛といい、どこかで火山の噴火が起きたのは間違いないです」
「火山の噴火と地震、被害は甚大だろう……」
隊員達はゴクリと唾を呑んだ。
霧が僅かに晴れた。
その僅かな隙間から一瞬、大きな湖が見えた。
「あれは、海か?」
「海のような湖は、恐らく琵琶湖でしょう」
眼下の琵琶湖を眺めた。
真っ青な湖面がまるで海のように見える。
「確か、大津に陸上自衛隊大津駐屯地があった筈。二班に分かれ、一方は山を下ってボートで大津駐屯地に行って救援を頼もう。チヌークをあのまま野晒しにして置く訳にはいかないからな。もう一班は吉田隊を捜索しつつ、山沿いを歩いて京都を目指す。出来うる限り被災者の救出をしなければ、ここまで来た意味がないからな」
折り畳み式の重いボートを担ぎながら、道無き道を下って山県三等陸尉と桂一等陸曹、寺内二等陸曹の三人は湖畔にたどり着いた。
小さく折れ畳まれた特殊ゴムボート(インフレータブルボート)を人力で膨らませると、湖に浮かべて三人はボートに乗る。
小型エンジンは電子制御でなかったためエンジンがかかり、三人は顔を見合わせて喜んだものの、霧の立ち込める湖畔を、しかも方角の分からない大津駐屯地まで自力で向かわなければならないと思うとゾッとした。
霧はまだ晴れていない。僅かな視界の中、ボートはゆっくりと進んで行った。
「あれは、城か? 大津城ではないだろうな……」
桂が指差して言うと、霧の中、櫓のような物が僅かに水面上に見えた。
「この大津辺りに天守閣など無かった筈……琵琶湖周辺に見える城といえば、長浜城と彦根城ぐらいだが、位置的にあり得ない」
寺内が答える。
彼らが見たものは、四重五階の望楼型の天守閣であった。
「三重が四重になっただけの違いがいはあるが、あれは、あの形は彦根城の天守。何度か行ったことがあるから見覚えがあるんだ。何故、海辺? 山の上にあった筈だが……」
山県が過去の記憶を思い出しながら言った。
「大津城天守は、確か、落城しなかった幸運な城として彦根に移築されたと聞いたことがあるんだが……」
霧の中に浮んだように見える、幻想的な水城の光景に息を呑む。
「……俺達は、夢を見ているのか?」
「あの茅葺の家は……城下町らしい風情のある街並みだが、どこを見ても大津の、近代的な街並みが見えないではないか。琵琶湖大橋は? 俺達はどの辺りを走っているんだ……」
視界を遮る濃い霧が、三人を一層不安にさせた。
広い琵琶湖を進むに連れ、次第に対岸が迫って来て、流れの速い川へと変わっていく。
「ここは瀬田川? か」
更に進むと長い橋が見えて来た。
中州を挟んで大小二つの橋からなるその橋は、全長三百メートルを超えるものだった。
「あれは瀬田の唐橋だ。近江八景の一つの」
「馬鹿な、瀬田の唐橋はコンクリート製の橋、あれは木で出来ている。一体、誰が作ったんだ、あんな長い木の橋を」
「車が通れないほどの幅の狭い橋だな。ロケのために、わざわざ造ったんだろう」
「それにしても、規模が大き過ぎる。周りの茅葺の家々を含め、セットが大掛り過ぎないか? それに不気味なほど静かだ、まるで真夜中のように静まり返っている。電車とか車の騒音、都会の喧噪が一切聞こえてこないではないか」
「まさか、災害によってライフラインが寸断されたんじゃ……」
三人は最悪の状態を想像した。
瀬田の唐橋らしき橋をくぐって、川の流れのまま更に下流に進んだ。
瀬田川の西岸に位置する辺りに伽藍が見えた。
巨大な硅灰石のそびえる石の上に多宝塔が見える。それは有名な石山寺だった。
「やはり、この川は瀬田川なんだ……」
霧が次第に薄れていく。
一帯は倒壊した建物が多く、救いを求める民衆の姿があった。
震災の被害を目の当りに、
「ボートを近付けよう」
山県が言うと、
「危険じゃないのか?」
桂が警戒する。
「確かに、何か悪い予感がします」
寺内も不安がる。
民衆の多くが粗末な服、まるで乞食のような格好をしていて不気味だった。
「とにかく、不可思議なことが多過ぎる。それを確かめるためにも、上陸してみなければ分からんだろう」
ボートはゆっくり岸に近付いて行った。
上陸した彼らに救いを求める群衆が一斉に集まって来た。
三人は身の危険を感じ恐怖した。
「――こいつら、芝居なんかじゃない! マジな目をしている」
ゾンビのように三人を囲む。
それでも、威嚇のための発砲はしなかった。伊藤との約束を守って、身の危険を感じながらも引き金を引くことはなかった。
一方、道無き道を進んで行った伊藤、田中、岸、佐藤の四人は、一向に道路にたどり着けないでいた。
行けども行けども舗装された道路に出ることはなく、通行人にも出会わない。
「観光客の多い比叡山だ。どこかで比叡山ドライブウェイの道路に出る筈だが……」
次第に辺りが明るくなり、やがて、開けた場所に出て来た。
「やっと、ここから脱出出来る、遭難せずに済んだ」
喜んだ隊員達の足取りは幾分軽くなった。
覆い尽くしていた背の高い木々が無くなり日差しが差し込んで来る。一帯は禿山のように見渡せる場所だった。
「――建物が見えた、助かったぞ!」
田中二等陸曹が思わず叫ぶ。
近付くと寺のような建物だった。
若い木々が生長しつつある一帯に、真新しい建物群が立ち並んでいた。数多くの塔堂、仏閣様式の大伽藍群は、まさに荘厳な光景だった。
「ここは、本当に延暦寺か?」
「違うだろう、延暦寺なら象徴的な根本中堂がある。それに、俺の記憶では確か、広い敷地の中に売店があって、そこから少し下りた所に根本中堂があった筈。東塔、西塔、横川の広大な三つのエリアに分かれた境域は、舗装された道路で繋がっているんだ。俺達が通って来た道は舗装されていない山道だったぞ」
「やはり、別の寺だろう。きっと、金儲け主義の住職が、信者から金を巻き上げ巨大な寺院を造ったんだ」
山門から中に入ると、数人の僧侶が庭の掃除をしていた。
「すいません。ここは、どこですか? 道に迷って困っています」
伊藤が僧侶の一人に尋ねた。
彼らはこちらを見るなり、慌てて建物の中に入った。
まるで伊藤達から逃げるように。
「――何故?」
「無愛想だな。震災で困っているのは分かるが、俺達を盗賊のような目で見ていた。寺に入って盗む物など無いというのに……」
僧侶の冷ややかな視線に田中が不満を口にすると、
「そうだよな、あの目は、俺達を恐れている目だった。そんなに俺達、自衛隊員は嫌われているのかなぁ」
人気の無さに、隊員達は落ち込む。
いや……と、伊藤は、恐怖の目で逃げる僧侶に不安を感じずにはいられなかった。
騒ぎを避けるため、伊藤は僧侶を引き止めるのを諦め、寺の前の大きな参道を下って行った。
やがて眼下に街並みが見渡せた。
霧はいつの間にか晴れていたが、霧とは違う何かに包まれている。
それは、倒壊した家々から放たれる土煙のように見え、被害は甚大だろうと隊員の誰もが思った。
「あれが、京都? いいや、違う。京都タワーに高層ビル群が無い」
田中の疑問の声に、
「位置的には京都の筈だが、あんな街並みは見たことがない。碁盤の目のように、通りがはっきりと並んでいる」
岸二等陸曹も同調した。
「墜落の衝撃で、一時的におかしくなっているんじゃないんですか? 遭難中に幻視を見ることが多いと聞きます。それは、大脳の中にある脳幹が障害を受け、金縛り状態になった時に幻視を見るそうです。月を見た時、実際は五円玉の穴ぐらいの小ささなのに大きく見える。それと同じで、自分達は幻覚を見ているんでしょう。今見えている街は、きっと幻覚ですよ」
佐藤が言った。
だが、下に下りて行くが幻は変わらない。
更に隊員達は山を下って行く。
眼前には非現実な世界が克明に、ハッキリと見えた。
庶民の住宅は、木片を重ねながら並べて飛ばされないように、木材を横に渡して石で固定した板葺きが敷かれていた。
一帯は板葺石置屋根の家が多く、板葺屋根に石を乗せた平屋の家や店が並び、瓦は寺などの一部にしか使用されていなかった。
「あれは太秦映画村? いや違う、セットが巨大過ぎる。京都にあんな巨大なジオラマを造ったと言うニュースを聞いたことがない」
「俺達は日本ではない別の場所、韓国や中国の山奥か、果ては東南アジアの町にでも飛ばされたのか?」
「地震の影響で空間を移動するなんて、聞いたことありませんよ。ここは絶対、日本です」
そう佐藤は言い切った。
「では俺達は、誰にも知られていない山奥の秘境に来たのか?」
「衛星で地上を細部まで調べられる時代にあって、あんな広い秘境が今まで知られずにいる筈はないですよ」
佐藤は、自分の知識内で解釈しながら話した。
風が吹いた。突然、異臭が鼻を突く。
それは、誰も馴染みのない、ワラや土壁の匂いだった。
将棋倒しになった家屋から、もうもうと立ち上がる壁土の砂塵は、町を包み視界を奪う。
広範囲で家屋が倒壊、地割れも起きていて、地震の凄ましさを物語っていた。
砂塵の中から、見慣れない姿の人々が姿を現した。
「――ちょん髷? 服装も違う。やっぱり、ここは映画村のセットなんだ」
ホッとした隊員が、武士の格好をした役者に、
「すいませーん」
と声を掛けるも応じない。
迷彩服の大男集団。彼らは恐れるように伊藤達から離れた。
伊藤は怯える子供に食料を差し出した。
子供はゆっくり近付き、サッと食べ物だけを取ると、走って逃げた。
その子供は離れ所で身を隠し、むさぼるように食べている。
この様子を離れて見ていた民衆らしき人達が、ゆっくりと近付いて来た。
ガヤガヤと野次馬が伊藤達の周りに集まって来る。
隊員達の周りには瞬く間に人だかりが出来た。彼らはキツイ方言の混じった日本語を喋っている。
「やはり、ここは日本だ……」
隊員達は確信した、ここは日本であると。
と同時に、この世界が令和の時代ではなく、別の時代ではないのか、と疑い始めた。
「俺達はタイムスリップしたといいうのか? 信じられん。でも、目の前の世界は、現代とは違い過ぎる……」
呟くように田中が言った。
次から次へと非現実なことが起こり、隊員達の頭の中では整理し切れずに混乱した。
「武士の世なら、戦国時代か江戸時代……」
佐藤も目の前の光景を見ながら呟く。
「ここが江戸時代? そんな、馬鹿な!」
岸が声を上げた。
「例え話です。自分だって、そんなこと信じられませんよ。でも、リアル過ぎませんか? 見るもの全てが武士の世界に見える。見るもの全てを現実に照らし合わせると、無理があり過ぎるんです」
そう考えるのがごく自然である。
あまりの驚きに、混乱する頭を押さえながら田中や岸が天を仰いだ。
彼らには、現代とは違う世界を、少しずつ理解していくしかなかった。