灰の空を汚す黒煙/王国の動向
「うわああああああああっ!! うわ、うわああああああああ!!」
明け方の街。昇る朝日が屋根の色を塗り替える。
僕は叫びながら街中を走っていた。
「うわああああああああああ!!」
訂正。
僕はメリーに担がれて、すごい速度で連れ回されていた。
いやぁ、おかしいと思ったんだ。
着替えを終えたメリーが、なんか僕の耳におもむろにスライム状の何かよくわからないものを入れてきたとき。水っぽくてくすぐったいんだけど何かなこれお返しの嫌がらせかな?って思った。
うわ耳元でしゅわしゅわするぞ、とか思ったその直後。メリーは僕の体をむんずと掴んで、担いで、そのまま疾走し始めて、あっ今のこれ準備だったんだな、って思った。
「うわっ、うわっうわあああああああっ!!」
──暴力の優秀な特性のひとつに、相手の意志を折り曲げることがある。
暴力の特性を全身で味わいながら、僕は叫び声を上げていた。
「あああああああ!!ああああああっ!!」
加速するメリーを前に、僕の体に掛かる重力加速度はどんどん加速していった。空気が壁みたいになってガンガン僕の額に当たっている。目を開けていられない。苦しい。空気抵抗で首の骨おれそう。
やばい。やばいやばい。圧力がすごい。目的地に着く前に既にピンチだ。意識が飛びそう。
ささやかな僕の決意とは本当にごくささやかなもので、そのまま体ごとぺしゃんこに押し潰されてしまいそうになる。
「あああああのっ!!メリー、メリーさん、ちょっと──!!」
「した。かむ」
「がぼっ──」
メリーの細くてやわらかな指が、僕の舌をぐっと力強く縫い止めた。
舌を顎まで押し込まんばかりの力だった。
涎がつくよ汚いよ──と僕が言うのもお構いなしだ。
いや言えてないけど。口内に指はいってるので。僕の口から発される言葉は全部もごもごって言葉に変換されていて、メリーに届いていない。
……これでは、叫ぶこともままならない。
口を開けようとしたら、僕の舌はともかく、メリーの指を噛んでしまいそうだ。
現に、僕が風と加速によって体を揺すられるとメリーの細指に歯が当たる。指の感触は本当にやわらかで、間違って噛んでしまったら、そのまま指に消えない痕を付けてしまいそうに思えてならない。
……まあもちろん、メリーは僕を50万人くらい集めて束にしても指先ひとつで叩き潰せるほど遙かに強いわけで、僕が噛むよりよっぽど痛い攻撃を受けても傷ひとつ付かないんだけど、それでもやっぱり、なんていうか、僕にはふしぎと躊躇う気持ちがある。
開けっ放しの口から、涎がだらだら垂れる。……ほんと汚くて、情けない気持ちになって、意識を手放してしまいたいという思いでいっぱいだ。すごい恥ずかしいし、そもそも風とか重力とかが襲いかかってきて物理的につらい環境に置かれている。
でも、カルスオプトが王国に向かって動き続けているのなら、やっぱり急がなきゃいけないわけで、僕のペースに合わせてくれとは言えない。
そういう意味では運搬という手段はどこまでも合理的で、だからこそ僕はこうして苦しんでいる。
……ああもう。
早起きして眠いし、雑に運ばれて痛いし、空気の壁で苦しいし。朝っぱらからなんだこの三重苦。現在進行形で体ががくがく言ってる。
すごい、つらい。しんどい。帰りたい。
──このまま意識を失ってしまえと、しんどさでぐったりしている僕に、心の中の僕が囁く。僕が眠っている間にきっとすべてが片づく。メリーならやってくれる。
というか、メリーが今、こうして雑に僕を運んでくれてるのは、あわよくば僕を気絶させようって考えもあるんじゃないかな、とかもう一人の僕は囁いてくる。
で、すべてを解決したあと、メリーはいつもの表情で、『ん』ってたった一言で済ませるんだ。
なら。それでいいじゃないか?
……いや、それじゃいけない。
僕は力がなくて、頭もそこまでいいわけじゃなくて、心だって弱い。自覚がある。
痛いのと怖いのは嫌いだし、嫌なことからはすぐにでも逃げる。僕に恥なんてない。僕にあるのは鉄より分厚い保身と、身の回りの生活環境のちょっとした改善だけだ。
──でも、そんな僕にも、戦わなくちゃいけない時がある。
それが今なんだ。
だから。
だからですねメリーさん。
もうちょっと、運び方とか……ご配慮いただけませんか?
いや、戦うって言ってもですね? その、その単語を選んだことにメリーが与えてくる物理的環境と戦うとかはまったく含意してなくってぇ……。なんていうか、もっとこう精神的な意味合い、象徴的なものなんですよ。『生きることは戦うこと』って詩人が語るとして、それをそのまま剣持ってやっとうすることだって解釈する奴は感性が死んでるでしょ。
あと、わざわざ僕の口に指をつっこむ必要はないと思うんですよ。
ほひゅほひ。
* * *
* *
*
世界最強の冒険者が、荷物を頭の上に掲げながら、タイレル王国を南西から北東に、一直線に駆けていく。
舗装された石畳に足跡を残しながら、暁天の空の元、薄紫色に染まる都市を次々に疾走するメリス。
目的地までの最短距離を直通で走る彼女に、地上の法は関係がなかった。一条の光は迷宮都市デロルの関所をやすやす突破し、公領デイメナから小領地パイソランディアに至るまで一切の区別なく足跡を穿ち、北東バルク男爵領ルクロウにて、その脚力で大地に深いクレーターを作りながら、王国をぐるりと覆う《始祖の壁》を飛び越えた。
メリスの走りによって生まれた衝撃波は、通る都市すべての硝子を──硝子が実用化・一般化するほど裕福かつ技術力のある都市はそう多くはないが──次々にぴしゃんぴしゃんと音を立てて叩き割り、商店の立て看板──こちらは沢山ある──を次々に薙ぎ倒していく。
無論、メリスは都市の破壊など一切目的とはしていないし、傍らに命よりも大切な彼がいることもあって、十分な注意を払って移動している。しかし、身じろぎひとつで破壊を生じさせる彼女が、何かの目的を持って移動などすれば、それだけ大きな破壊が生じるのは道理であった。
幸いだったのは、それが、まだ多くの人々が眠りについていた明け方に起きたことだろう。
衝撃の風は、家屋で眠る人々まで叩き割り、薙ぎ倒すことはなかった。
そうして、それから数時間後に目覚める王国の人々は、一直線に続く破壊の痕跡を見て、やれダンジョンから溢れた魔獣がどうだの、夜な夜な現れる怪人がこうだの、いや世界の法則がああだのと、恐怖と好奇のない混じった噂話に興じることとなる。
──彼らの多くは、王国にまさに迫らんとしている、真の驚異を知らない。
これまでも、そして今回もそうだ。
(動くか、冒険者メリス)
巌のように刻まれた眉間の皺が、ぴくりと動いた。
騎士団長エーリッヒは、その動きを《感知》した数少ない王国の構成員のひとりであった。彼の肉体は、もはや寝食を必要とせず、彼の生活の全ては護国に捧げられている。
冒険者メリスといえば、先日、娘がメリスらが王都へ赴くことを早馬で報じてきたことを思い出した。最後に娘と日常的な会話をしたのは、もう何年前になるだろうか。……否、この思索は今は必要ではない。
今重要なのは、騎士団がいかに動くべきかである。
王都の中枢。白い尖塔を生やした《新生タイレル城》の国王府、金剛石の円卓に、騎士たちが集っていた。
「団長。あいつらが動くようですし、俺たち15人もいる必要……」
冒険者上がり──正確には、まだ冒険者としての籍は残しているし、彼の自己認識として『自分は冒険者である』というものは強い──であり、同じく適応の進んだレスターは、《感知》によってメリスの動きを感知し、団長に進言する。
「否。方針は変えん」
──しかし、その声は頑なだった。
(……はあ。いつものやつだな)
レスターは心の中で嘆息した。
冒険者である彼は、メリスのたがの外れた力を知っている。彼の頭にある戦力の算盤は『メリスに止められないのなら、恐らく王都にいる人間全員が束になってかかろうと退けるのは不可能だろう』という解を弾き出していた。それほどまでに、メリスの力は隔絶している。
(この国の騎士の頂点に立つ男だ。力量差がわからぬはずもなかろうに……)
──いつもの『よく訓練され、制度化された非合理性』だ。
過剰な戦力を投入する必要は一体どこにあるのか。それならば、治安活動でもした方が有意義ではないか。レスターはそう思う。
姫君を守るために近衛騎士となったレスターであったが、その方針は、今なお、何とも腹に据わらない。そのために他のメンバーと対立することも多い。
しかし、エーリッヒにも考えがある。
王都を守る近衛騎士に、敗北は決して許されない。彼らの存在は、すなわち最終防衛圏なのだ。
故に、メリスの力は強大であることを理解していても、騎士団としてその力を当てにするわけにはいかない。
金髪碧眼の精悍な若人の、非難の視線を受けたところで、エーリッヒの思考は揺らがなかった。
「団長殿。壁外の集落への対応は、如何いたしますか」
思考形態の違いからレスターと度々対立している男──ミハエル・シ・アダマント子爵は、次いで、団長に避けては通れない問題を問うた。
王国の内と外を分ける高き壁。それに沿うような形で、王国に入れない人々は集落を作っている。
巨大な魔獣が王国に迫っているとなれば、まず第一に彼らが犠牲になることだろう。
ミハエルの言う『対応』とは、『対応をしないこと』をも含んでいる。あえて壁に衝突させ、勢いを殺したところで大魔獣を打倒する──という作戦もまた、確実な勝利を期すというのであれば、選択肢のひとつとなりうるものだ。
「何言ってんだ。連中を、一時的に壁の中に避難させればいいだろ」
『あいつらがいればその必要もないだろうが』という言葉を飲み込みながら、レスターがミハエルに意見する。
貴種と家名のない冒険者などという区別は、円卓内にあっては存在しない──ということになっているため、レスターは同輩として振る舞うのだった。
「壁の中に入れて、壁外で魔獣を止める、それなら何も──」
「レスター。卿の仁愛は結構なものだと思うがな。その後はどうなる?」
「その後? それからを考えている場合かよ」
「場合だとも。我々近衛騎士に求められるのは、絶対なる勝利だけではない。国家の安定もまた、近衛騎士が護らねばならないものだ」
壁外に住まう人々が王国に入れない理由はさまざまだ。追放刑を受けた犯罪者もいれば、目下入国審査を受けている者や、何代もその地で過ごしている者などもいる。独自のコミュニティが形成されている。
彼らを壁の中にやることで、トラブルが起こることは想像に難くない。
「賢王による仁政のもと、王国は多様な文化を受け入れてきた。しかし、その量は適切に管理されねばならない。薬師の調剤のようにな」
王国への入国者は、年が若いか否か、《ステータス》が高いか否かといった形で、ある程度ふるいに掛けられている。
この場にいる誰もが、ミハエルが言外に──あえて明言はできない──主張する内容に感づいている。
──つまり、王国領の生産性では、彼ら全員の食い扶持を賄い切れはしないのである。
この世界の発展を支えている『ダンジョンから資源を回収する』というシステムは、狩猟採集に近い。
すなわち、農耕牧畜文化と異なり、人頭を多くすることと生産性がイコールでは結ばれないのである。この世界の人間の能力は、とかく、個体差が大きい。
加えて、産業の発展も、技術の蓄積も、知識体系も、文明社会が積み上げてきたものとダンジョンから得たものをそのまま援用したものが混在する。
それらの特性が、社会のありようを規定する。狩猟が主、農耕が従という構造が、ダンジョンから出土する貴重品によって肯定されたのだ。
この世界の歴史の針は、世界人口に対してごく少数の者たちのみで回されてきた。
「社会のあり方もまた、護られねばならない。我々近衛騎士は王家の──」
「ミハエル。演説は実に結構だが、それは俺たちの仕事か? 俺たちは姫の──いや王家の剣であり、盾だろう。道具に意志はいらん。自律思考器具なんて厄介物は、抱えこむより受付窓口で売り払うのが一番だ」
「古巣が恋しいか、レスター?」
「古巣? いや、俺は近衛騎士であると同時に冒険者だが」
「……私語は慎みたまえ、レスター君、アダマント殿……」
「そういうアンタは、もう少し会話に参加すべきじゃないのか。ニザリエン」
「そうだ。合議で定めるべきだろう」
「壁の外、集落の外で迎え撃つなれば──」
「足下に障害物があれば速度は落ちる。あえて潰させれば──」
転移術式の起動には今しばらくの時間が必要となる。
歴史の針を回す立場としては、未だ年若き騎士たちが激論を交わす姿を前に、エーリッヒの腰に佩いた《嵐の王》は、カタカタと鳴き声を上げるのだった。
* * *
* *
*
聳え立つ壁を、壁の周りに作られた集落ごとひとっ跳びでメリーは抜けていった。
重力と空気抵抗に加え高低の移動まで加わって、僕の全身の臓器は上から下にひっくり返った。口からはみ出そうになったよね。喉まで来てた。いや知らないけど。
「そろそろ」
空気の壁の感触が和らいだ。どうやら、メリーは速度を落としたらしい。
それを合図に、僕の視界はどんどんはっきりしていった。
…………ああ、懐かしい景色が広がっている。
王国の壁の中になんとか潜り込めた時には、もう二度とこんなところ来ないだろうな、と思っていた。
来たくもなかった。なにせ、ここは治安が悪いのだ。穏やかな生活という単語の対局にある。
いつか、忌々しい金貸しさんの言っていた言葉に『《大平原》には法律がない』というものがあった。
──しかし、それは正確ではない。
大平原に存在しないものは、何も法律に限らない。
ここにあるのは、広大な空虚だ。
大平原を表現するには、たった一言あれば十分だ。
灰色。
それだけ。
空に雲はないし、大地に土はない。もちろん、木だとか岩だとか、そういった物体もない。
一切の誇張なく、大平原は、ただ平らな空間なのだ。
大平原を行くようなのは辺境出身でも学のない命知らずか、あるいは同業者なので、より早く頭に矢を当てる挨拶がたしなみである。
遠くまでよく見通せ、障害物がないということは、略奪を生業とする人間にとって大変有利な特性なのであった。
「……見えた」
僕も今回、その恩恵に預かることになった。
遠くに見える黒煙と、棒状の歪なシルエットは、かつて辺境で目にしたそれと、寸分変わらないものだった。
はは。まるで自分が凶賊にでもなったみたいだ。
……まあ、今から都市を破壊しようって考えなのだし、間違ってはいないかな。
灰の空に黒煙が混ざり、うねりを作って宙を漂う。
煤で汚れた黒鉄の多脚が、がちゃがちゃと、非生物的に、おぞましく、地面をめちゃくちゃに踏みつけながら僕らに迫る。
「7年ぶりかな。お久しぶりです。お変わりないようで」
メリーに持ち上げられたまま、僕は旧友に挨拶をした。
……僕の手足は、やっぱり震えていた。




