亜竜の眼《挿絵あり》
竜の息吹とは、すなわち破壊という概念の具現化だ。有史以来、竜は時に怒りに身を任せ、時にきまぐれに身を任せ、人間に恐怖と混乱をもたらしてきた。辺境で地形が変わっている箇所があったらたいていは竜やそれに準じたバケモノの怒りだ。
《壁》のおかげで基本的に魔物がダンジョンにしか生息していないここタイレル文化圏ですら、大きな被害を受けたときの慣用句や、谷なんかの地名でよく由来になっているほどに、竜の力というものは畏敬の念を集めている。
それが今、メリーめがけて放たれた。
……僕は動かなかった。いや、動けなかった。
「メリーっ!」
「ん」
──ごうごうと音を立てて、エネルギーの波がメリーを飲みこま……ない。
メリーだけを避けるように、ブレスは二股に分かれて虚空を薙いだ。
竜の息吹の中にいても、メリーは微動だにしない。
紫色の瘴気の籠もった波動は、見るからに健康に悪そうなんだけど、そんなものはまるでおかまいなしだ。
「えっ……」
ステラ様の目が点になってる。心なしか、黒い亜竜の方も動揺してるように見える。
正直、叫びはしたけど、僕に驚きはなかった。
でも心臓に悪いからやめてほしい。ほんとにやめてほしい。
「あの、あれ」
「吐息は連発できるものじゃないです。すぐに距離を取りましょう」
「見間違い……、では、ないわよね、あの。ねえ。あれ」
「急いで! 相手には手足も羽もありません! 全速力で走ればこっちの方がまだ早い! 焼き切れば勝ちなんです!」
「……行きますよ、姉さま」
シア様が、ステラ様の手を引きながら、氷人形を複数体生成した。そこに混ざるように二人は駆けていく。
メリーのことを心配してくれるのは嬉しいけど、今はそれどころじゃない。巨体がのたうち回るだけでしがみついてる僕らは挽き潰される。早く逃げないと危険だ。
竜の吐息を撃った後は大きな隙ができる。その間に、張り付いて攻撃する必要がない人は離れた方がいい。
ステラ様の攻撃は、その凶悪な威力はもちろん、誰からの攻撃なのか掴みづらいのが一番大きい。そして臓器を焼くので、異変を認識した時には手遅れになる。
反応はない。どうやら、攻撃されていることにすら気づいていないようだ。
──ぎああああ! ぎああああ! と亜竜が鳴く。そこにあるのは悔しさか怒りか。それはともかく、この元気な鳴き声は相手がもう動けることを示している。
だが、吐息は撃てないはずだ。こいつには手足も羽もない。そうなると、獲物を追いかけるためには地を這っていくことになる。自然と頭は地面へと下がる。
「落ち着け……」
そう、こいつはゆるゆると頭を下げた巨大な蛇だ。メリーを轢き潰そうと巨体を動かしたその鼻先に、僕は一撃をお見舞いしてやるんだ。
だから落ち着け。落ち着いて……今だ!
「はっ!!」
……ダメだ! これじゃ浅い!
すれ違うようにして一撃を入れたのだが、相手は微動だにしない。人型と違って脳を揺らそうにも、竜の頭は大きく重すぎる。
どうすれば……?
「だめなあてかた。のーかん」
──はい? なんだってメリー?
ノーカン? うわ戦闘に参加してない人がなんか言ってる。
君が大丈夫なのはわかるんですけどせめて防御態勢とか取ってくれませんかね。
……ああほら、亜竜が動き始めた! メリーそっち向かってるよ! 紫の沼気を巻き上げながら向かってる!
ほら来てる来てる! あの、ちょっとは動いて? 動いてってば!
「ん」
黒い巨体が地響きを上げながらメリーに近づいていく。
どうやら、アイツはこの中で一番の脅威がメリーだと考えたみたいだ。あんなに華奢な体で、眠そうな目で、さっきからずっと微動だにしてないし、そもそも攻撃するつもりすらないのに。
その一方で、さっきから棒でつついて跳ね回ってる僕は、最初からあの亜竜の眼中にはないらしい。
……ああ、そう。そうかよ。わかりましたよ。
──だったら、強引にでも『目を奪って』やろうじゃないか。
僕は、ちょっとだけ無理をすることにした。
「はッ、はっ──」
緊張で心臓が跳ねる。今からやることはさっきまでの比じゃない。曲芸綱渡りで一歩間違えたら死ぬことだ。
痛いのは嫌だ。怖いのは嫌だ。モンスターは痛みと恐怖が生物の形を取った存在だ。今すぐ帰りたい。僕には向いてない。いますぐにでも帰りたい。
……だけど、僕にも許せないことのひとつやふたつはある。
「──いくらメリーがオマエに手を出さないからって、好き勝手暴れてんじゃ……、ないッ!」
僕は棒で地面を蹴って竜頭の真正面に飛び返り、空中にいるまま右の目玉に棒を突き刺し、その勢いで空中で一回転半の逆上がりを決める!
重力と遠心力で体中がシェイクされそうだ……!
「でも……っ、とった!」
ぐちゃり、とぬかるんだ泥のような嫌な感触がする。関係ない。遠心力に身を任せてそのまま目玉をかき回す。再生されるのは嫌だし棒は突っ込んでおきたいでもそうすると武器がないから棒の突き出た部分に手刀をぶち当てて即席の短棍にしよう。した。
空中で思考をまとめ、飛んだままの勢いで大きく下がると──亜竜ががくりと体勢を崩す!
「ステラ様! シア様! 今すぐ耳塞ぎながら口開けて!」
──ぎきいいいいいいいい!
耳を引き裂くような叫び声。僕は当然、叫び声が来る前に耳栓をつけている。それでも耳がビリビリする辺り、相当な声量だ。
「くりてぃかる」
……ざまあ。ざまみろ。ざまあみろッ! 叫び声をあげさせてやったぞ。
大きい生き物は痛覚が鈍い。痛みを痛みと認識するまでにタイムラグがある。
だから離脱が間に合った。間に合わせなきゃ僕は死ぬ。地響きを立てながらのたうち回る亜竜を見て、僕は冷や汗を拭った。
……仮に左目まで欲張ってたら、僕は死んでただろう。それに相手の視界を完全に潰すのはよくない。この巨体がでたらめに攻撃してきたら、攻撃を避ける難易度はむしろ跳ね上がる。
「今のうち! メリー! 下がって!」
「さっきのは。はなまる」
「はなまる、じゃないよ! いいから! 下がって!」
「めりを。たてにするのはいい。ずるじゃない。かんきょうりようとうほ──」
「いいわけないだろっ!」
……ああ、もう!話は後!! 今亜竜が睨んでるのは僕! 何せ文字通り目を奪ったわけだからね!
僕はそのまま、メリーやステラさんたちとは反対方向、瘴気が充満した沼地に向かって走る!
後は時間を稼ぐだけだ。心臓はバクバクと震えるし一歩間違えたら多分即死するけど、それでも僕が抑えないと全滅する。
じゃあ走るしかない。そら、追いかけてくる、追いかけてくる──!
「おおおッ!」
僕は叫び声を上げて、恐怖を振り払うように走る。後ろから死が迫ってくる。迫る死を寸前でかわすように、死が他のみんなに向かないように、ただ走り続ける。
ぬかるんだ土地が僕の足を絡めようとする。だが、条件は相手だって同じだ。むしろ相手は這ってる。転ばなければ逃げきれる!
「はっ、ひっ、はッ──」
残念ながら、今ちょうど必要性を痛感していたのだけど、なぜか僕の背中には目がついていない。
ついていないけど、気配が、殺意が僕を一秒でも早く殺そうと追いかけてきているのがわかる。
僕の役割はそれを一秒でも長引かせて、ステラ様の決定打に繋げることだ。
体力はまだまだ上等。後は息が切れても走り続ければなんとかなる。さて、ペナルティは僕の命の鬼ごっこを続け……地面が凍っていく!?
「うわっ──」
僕は咄嗟に、短くなった棒で自分の体を宙に跳ね上げた。
「……転びなさい」
どうやらシア様が、地面に薄い氷を張ったらしい。僕が宙へ飛び上がった瞬間、辺り一帯の地面は完全に凍り付いた。
一方で、片目だけになったアイツはどうも、氷の存在に気づけなかったらしい。地面に張られた氷の罠は、全速力で動く巨体を、その勢いのままに大きく滑らせた。
手足のない亜竜には、体勢を崩されたら対応することができない。けたたましい音を立てながら地面へと真っ逆さまに倒れ込む。
「ぶえっ!」
見るからに大ダメージだ。
僕もまた、受け身に失敗して両手をしたたかに打ち付けている。
大ダメージだ。
「うう……痛い……」
「今ね!」
「……はい」
そんな僕にはろくに目もくれず、姉妹はそのまま亜竜の対処をしている。シア様の瞳から燐光が迸った。
「……凍てつきなさい」
倒れ伏した亜竜の顔に、地面から草木のように何本もの氷が伸びる。そのまま、幾重もの氷の枝が顔を縛りつけ、一柱の巨大な氷塊が出来上がった。
「はー……、すごいな、これ」
……予備動作なしで距離に関わらず地面に氷を一瞬で張るというのは、かなり凶悪な技だ。地に足を着けている相手の、その足下を崩すのは致命的な隙を生むことになる。そして、世界には地に足をつけてない生き物の方が少ない。
「これで安心かしら? 後は私が焼き切るだけね」
「……そうですね。こうなれば、私の軛からは逃れることはできないでしょう。溶けることなき氷晶の、その内側で。姉さまのお力で蒸し焼きとなるのです」
「ありがと。シア。そしてあなたたちにも感謝します」
「……手足を振り乱して走る様子はまるで無様でしたが、隙を作っていただいてありがとうございます」
「一言多いわ。シア」
「あー……」
なんていうか。その。言いづらいんですけど──ありがた迷惑というか、すごく困る!
だって、まだ戦闘は終わってないんだ!
「皆さん、警戒を解かないで──」
ずらりと並んでいた氷の人形が、一斉に破裂した。
手足がバラバラに弾けて、空気中で氷の結晶に変わっていく。
「シア!?」
「いえっ……、私はまだ、なにもっ。一体なにが……っ」
……そうして、二人は見てしまった。
隻眼の亜竜が、厚い氷の壁越しに、姉妹を睨みつけている姿を。
ステラ様とシア様は、それだけで竦み上がり、その場にうずくまってしまった。
「ひっ……!! おとうさまっ、シアっ……」
「……あ、ああっ。あっ……、ねえさま、ねえさまっ……!!」
なるほど、《竜の眼光》だ。
中位以上の竜になると、視線一つすらも大きな武器になる。
相手の格によっては視線ひとつで破壊の風を起こしたりする。もちろん目の前の亜竜にそこまでの力はないが、敵対者の身を竦ませることで、相手の動きを封じることくらいなら容易だ。
それも、まだ《適応》が済んでいない、ダンジョンに慣れていない女の子二人なら尚更だろう。
でも、僕には効かない。
氷に縛られた竜が、内に激しい力を込めながら僕に視線を向ける。
竜の眼光。さっきよりもビリビリと、肌を震わすような殺意を感じる。
「でもね。悪いけど、僕には効かないよ」
──だって、メリーの方がよっぽど強いからね。
熱視線をくれた片目の黒亜竜に、僕は笑顔でウインクを返した。