崩壊
「嫌です。ぼくは、ここから動きません……!」
幼いキフィナスはしゃがみ込み、《計算屋》を名乗る住人の言葉に耳を塞いだ。
メリスもキフィナスの真似をして、無表情のまましゃがみ、耳を塞いでいる。
「困ったでちね」
「とりあえず《計算屋》の仕事場に連れていくでち」
「「「わたちたちが運ぶでち」」」
「《煙突拭き》の業務量は大丈夫でちか?」
「でも《歯車磨き》の人員じゃ手が回らないでち」
「「《大工》は《計算屋》に1日あたり労働者数の増加の提案をするでち。近日中に脚を一本増やすでち」」
「受理しまちゅ」
「「「「《罐焚き》の基礎魔力量はもっと高くあるべきでち」」」」
「検討しまちゅ」
「報告は後にするでち。『地上の方への接遇はすべてに優越する』でち」
「「「「そうでち。そうでち」」」」
機構都市の住人たちはでちでちと唱和しながら、しゃがみ込んだキフィナスを取り囲む。
「えっ、わっ、あっ……! や、やめ、やめて! やめてくださいっ!!」
「きふぃ。とめる?」
「あ、いやっ──」
囲まれて、胴上げをされて運ばれながらも、キフィナスは抵抗を躊躇った。
メリスに頼まずとも──それどころか、キフィナスが少し力を入れるだけでも、ここの住民たちはそのまま死んでしまう気がした。
・・・
・・
・
頭上に設置された石灰灯の不健康な青白い光が、部屋を不自然までに明るく照らしている。
カルスオプトの心臓部・機関室には、機工都市の至る所に設置されていた蒸気機関も、竜巻のように回転する巨大な歯車も、捻れ狂った配管もない。
代わりに、キフィナスの背丈より少し大きい程度の機械が一台だけ設置されていた。
それは、幾重にも並べた歯車を算盤のように配置した装置だった。
煤と蒸気を見ない場所はない機工都市の中で、機関室だけは無機質で、清浄だ。
キフィナスは、困惑のままにでちでちと鳴く波によってここまで運ばれてきて、空気の違いに再び困惑した。
この部屋には、最高機関士である《計算屋》と、キフィナスとメリスの三人しかいない。
キフィナスは、再び耳を塞ぎしゃがみこむ。
「どうちて話を聞いてくれないでちか?」
小さな手で耳を塞いだ程度で、声が聞こえなくなるわけがない。
キフィナスはそれを聞き流そうとして──良心が痛んで、返答をした。
「…………だって、ぼくがお話を聞いた人は、みんな死んじゃったじゃ、ないですか」
「そうでちね」
「……ぼくがまた、あなたを殺しちゃうかもしれないんです」
「そんなことはないでちよ。今までだって、地上の方が殺したなんてことはないでち」
「でも……!!」
「だって。たとい説明をしなくたって、死ぬことは決まってまちたからね」
「えっ……」
「ここ機工都市の《労働者》は、もともと3日間しか生きられないのでち」
キフィナスは絶句した。
「だから。わたちも、地上のかたが聞く、聞かないに関わらず、今日の晩に《缶詰》で分解されて、再生成されるんでち」
「…………それ、は……」
自分の目前へと迫る死を認識しているにも関わらず、《計算屋》は、さながら天気を語るように穏やかだった。
(文化が、ちがう……)
辺境で、キフィナスたちが見てきたもののひとつに、年に二度の生贄を要求する集落があった。
生贄に選ばれたひとは、それを名誉と認識して、恐れを感じさせず、痛みに耐えることを美徳とした、そんな土地だ。
キフィナスたちは余所者として、そんな酷いことあるか! と義憤からその風習を破壊して──結果、生贄に選ばれた相手を含めてひどく恨まれた。
都市全体が、平等に生贄を要求する土地──カルスオプトはそれなのだと、キフィナスは理解する。
「でも、地上の方には、それは関係ありまちぇん。わたちたちは、地上の方を歓迎しまちゅ。それが、カルスオプトの成立した理由なのでちから」
キフィナスは、暑くないのに汗が止まらず、寒くないのに震えが止まらない。
「きふぃ。めりが。きく」
「……いや、ぼくも聞くよ。聞かないと、いけないと思う」
もう、耳を塞いでしゃがみ込む、年相応の子どものような振る舞いをする気は起きなかった。
そんな彼を見て、《計算屋》は穏やかに笑いながら、キフィナスの震えが止まるのを待った。
*歯車が回る*
「これは《階差機関》。カルスオプトの、心臓でち」
──階差機関は、刃のように鋭い小型の歯車を回転させながら、正確に、精密に、迅速に、パンチカードに幾何学的な模様を打ち込んでいく。
打ち出されたパンチカードの紙面の質は悪く、出てきた端から劣化し、砂のように崩れる。カルスオプトが動くことで勾配が生まれ、崩れた紙片は一所へと纏まり、再生紙を作り出す。
「今まで、いろんなものを見てきてもらいまちたね」
──そうして《計算屋》は滔々と語り出す。
《煙突拭き》には、カルスオプトの廃熱機関を調整する役割がある。熱と運動エネルギーによって動く機工都市は、熱をより無駄なく利用するために配管を至る所に設置している。
彼らは地表部に出る機会も多く、定期巡回中にキフィナスを発見し、保護したという。
キフィナスは、親切な笑顔でマスクをくれた子を思い出した。
彼──あるいは彼女は既に死んでしまったが、しかして同じ顔、同じ体格、同じ声の住人が同じ作業に従事している光景を、キフィナスは目撃している。
《歯車磨き》には、カルスオプトの骨格となる歯車を修繕する役割がある。動力を強化する度に磨耗することが約束されており、排煙に含まれる鉄砂や塵に混ざった鉄を魔力によってコントロールし、歯車をコーティングする。
現時点の定員である住民一万体のうち、彼らの割合はもっとも高い。
キフィナスは、メリスのように余計な水分を必要とせず、自分の仕事を遂行していた子を思い出した。
既に死んでしまったが、同じ顔と体格と声の住人が同じ作業をしている。
《罐焚き》には、カルスオプトの各間接部等に備えたボイラーに、動力源である熱エネルギーを投下する役割がある。魔力の火は燃やすものと燃やすべきでないものを選定することができるため、燃焼熱による損耗を抑えることができる。
何より、職務担当者の生命エネルギー以外の資源を必要としない。
キフィナスは、赤々と燃える炉に照らされた、いきいきとした顔を思い出した。
既に死んでいるが、同じ姿の住人が同じ作業をしている。
上級機関士である《大工》には、備蓄している資材の量に応じて、カルスオプトを拡張する役割がある。目的地なく辺境を疾走する巨大機工カルスオプトの脚部に付着した有機物を回収し、分類することで資源を貯蔵することも大工の役割だ。
彼らの職務は広範に渡り、裁量の権限も強い。
キフィナスは、わいわいと明るい表情で作業をしていた姿を思い出した。
……きっと、住人の誰かが同じ作業をしているのだろう。
「カルスオプトは、すべて、ひとつの問題を計算するためにあるんでち」
そして、《計算屋》は自分の役割を語り始める。
「大きな脚を動かしまちゅと、歯車がころころ動くでち。運動エネルギーは脚から全身を経由して、ぜんぶ、ここに来るんでち。それを確認するんでちゅ」
──カルスオプトは建立以来、或る命題の証明をしている。
辺境の動植物を潰して回る巨大な脚も、空を汚染する黒い煙も、
「《煙突拭き》も。《歯車磨き》も。《罐焚き》も。上級機関士の《大工》も。そしてわたち《計算屋》も、この1ヤード25インチの機械を動かすためにいるんでちゅ。動かして、動かして、動かして、動かして、動かして、動かし続けるためにいるんでち」
──その巨躯を動かす生態系さえも。
すべて、ひとつの目的を達成するための手段に過ぎない。
「わたちの前の、
その前の、
その前の、
その前のその前の、
その前のその前の、
その前のその前のその前の、
その前の前の前の前の前の前の前の前の前の前の、そのまたずぅ~~っと前から、この機械は計算を続けていまちゅ」
触れるはしから砂に変わる紙は、まだ計算を続けていることの証左だ。
キフィナスには判断できない幾何学的な文字が何重にも打刻され、紙が潰え、また補充されることを繰り返す。
「でも、次の瞬間に計算が終わるかもしれないんでちよ。その、悲願の瞬間を見逃さないように、わたちの命はあるんでち」
最終証明が完了次第、階差機関は動作を一時停止し、
12時間後にその解を反復し、複写し、大量生産する。
「──『世界のすくいかた』を計算しているんでち」
そう告げた《計算屋》の語り口は、どこか荘厳な宗教施設の司祭を思わせる静謐さがあった。
(……よく、わからない)
しかし、キフィナスには、それが崇高なものには聞こえなかった。
目の前にいる誰かをないがしろにして、何かの大きな使命とかを達成することに対して、納得することはできない。
文化が違う。過ごしてきた環境が違えば、考え方は違ってくる。辺境の旅路で出会う人は、それぞれに個別の考えを持っている。
キフィナスに、その考えを否定する気はない。自分の中の正義感と、相手の中の正義感は必ずしも一致するものではなく、相手を傷つけることにも繋がりうることを経験から学習していた。
「……メリー?」
「ちがった?」
「うん……」
端的な会話。このやりとりは、既に幾度となく繰り返されている。
──ここも、ぼくらの住む場所じゃない。
キフィナスたちの故郷は既にない。どこかで文化の違いには折り合いをつけなければならない。
だが、それはここではないとキフィナスは思った。
「…………ありがとうございました。ぼくは、この都市には住めません。ごめんなさい」
キフィナスは顔色を伺いながら、決別の言葉を告げる。
──だけど、一時的とはいえ、ぼくらを受け入れてくれた人たちに、敬意と感謝を。
この辺境で、異邦者を受け入れることが果たしてどれだけ難しいことか。
それだけでも、感謝をしなければならない。
「そうでちか。でも、地上の方にカルスオプトを伝える使命を果たせて、わたちは、よかったでち」
《計算屋》は穏やかで、キフィナスはここの住民がどこまでも牧歌的で善良であるという印象を更に強めた。
(このひとたちに、ぼくが返せるものはなんだろう)
キフィナスは少し考えて──、
「あの。ちょっと、いいですか」
「どうしたでちか?」
「えっと。……いままで、みなさんにこの都市を教えてもらったかわりに。ぼくにも。今までの旅路を。みなさんに聞かせる機会を貰ってもいいですか」
どこまでも善意から、今度は自分が外の世界を教えるのはどうか、と提案をした。
*ガチャリ*
*ひとかけらの歯車に、小さな亀裂が走った*
・・・
・・
・
──そして、幼いキフィナスは聴衆に語った。
声変わりのしていないボーイソプラノの声で、ところどころつっかえながら、拙い吟遊詩人の真似事をした。
傍らのメリスは、キフィナスの語りに合わせて、口笛で和音まで完璧な演奏をした。三音を同時に出す超絶技巧だ。
話題には事欠かない。
険しい辺境の旅にも、時として喜びはある。
世界はときどき、泣きたくなるくらい眩しいとキフィナスは思う。
──たとえば、光を乱反射して、七色に輝く水晶の砂漠。
メリスは語りに合わせて、美しく、しかし物悲しい口笛を奏でる。
二酸化ケイ素の海に、生きている生物はほとんどいない。
子どもの手のひらくらいの大きさの《水晶蜘蛛》は毒がなく温厚で、近くにいても噛みつくことはない。生息地は水源に近いため、瑞兆として旅人に親しまれている。
キフィナスが抜け殻を見せると、カルスオプトによく似ていると住人たちは大いにはしゃいだ。
次は、次はと請われ、キフィナスの語り口にも熱が入る。
──たとえば、雲よりも高い──つまり、カルスオプトよりもほんの少しだけ背の高い──山頂から見える、黄金色の朝焼け。
メリスは語りに合わせて、英雄の冒険譚のような勇壮な音色を奏でる。
清やかな朝日が雲の絨毯を染める光景は、さながら金の羊毛だ。
カルスオプトの住人たちは、まず雲を知らない。至る所に設置された煙突から噴き出す黒煙が空を覆うために、彼らが知っている空というのはいつも黒い。
そのためキフィナスは、雲の説明からしなければならなかった。補助としてメリスはキフィナスの頭上に雲を作り、雷を自分の指先に落とす。
キフィナスは腰を抜かしてしばらく声が震えていたが、住民は興味津々で、その苦労も楽しかった。
──たとえば、カルスオプトの住人100人分よりも太い幹の大樹に成る、甘くて辛くて苦くて酸っぱくて渋い、不思議な味をした木の実。
メリスは語りに合わせて、複雑で楽しげで、耳に残る特徴的なフレーズのある曲を奏でる。
食事というのはどの文化圏でも共通した行為で、それでいて差異が大きいため、キフィナスとしては会心の話題として、満を持して話題に上げた。
……しかし、予想よりも食いつきが悪い。
キフィナスが何故かと問うと、
カルスオプトには食事の概念がないという。
キフィナスは愕然とした。メリスにもう一度雷を出してもらって、その間に話題を変えることにした。
そうしてキフィナスは、喉が枯れるくらい、今まで生きてきた経験を語った。
メリスもまた、それに合わせて、二人の大事なおもいでを音に変えて聴かせた。
──自分たちの故郷の話をした。
──湖に住む首長竜の話をした。
──ここに似た世界の話をした。
キフィナスの節も音程もすでにぐちゃぐちゃになっていて、ただとにかく、自分の経験を言葉にした。
メリスは無表情のまま、高揚感でほんの少し拍を狂わせながら、キフィナスとの思い出を音色にした。
笑顔の住民に囲まれて、二人も──メリスは表情をわずかに綻ばせた程度だが──心から笑いながら。
語り手も観衆も眠気で頭をふらつかせて、銀の缶詰に入る時間のギリギリまで、全員で楽しい時間を過ごした。
自分の即興吟詠が、生贄となる道を選んだ人々に、どんな影響を与えるのかなど考えずに。
ただ、本心の底の底から、彼らの歓待に返せるものをと想い。
二人は、善意で音楽した。
* 亀裂が走ったひとかけらの歯車は、ついに破裂した *
・・・
・・
・
翌日。
機工都市の住人は、定員に合わせるために予定通りに死に、予定通りの数が誕生した。
誰が昨日の吟詠を聞いているのかいないのか、傍目のキフィナスからはわからない。
多くの住人たちは、既に自分たちの仕事場に就いているらしく、見送りの数は多くはなかった。
「じゃあ、ぼくはこれで。わずかな──いえ、楽しい時間だった……、でした」
キフィナスが最初に迎えられた日に生きていた住人はもういない。
彼らにとっては、わずかな時間ではないのだ。キフィナスは注意深く換言した。
「みなさんどうか、よい旅路を──」
──瞬間、カルスオプトの体勢が大きく崩れ、キフィナスは尻餅をつきそうになったところをメリスに抱き抱えられる。
「メリー! みんなを、まもって!!」
「ん!」
キフィナスは、咄嗟にメリスに指示を出す。
──その直後にカルスオプトは、大爆発を起こした。
・・・
・・
・
爆発のきっかけは、昨日の吟詠を聞いていた900体の《煙突拭き》だった。
《煙突拭き》は機敏で、高所での作業が得意で、風の魔術を行使する権能を設定されて生まれてくる。
──だが、《煙突拭き》には、噴き出した黒煙の隙間にある青空を、ほんの少しだけ覗き見る機能などは付いていない。
彼らは自らの人生に疑問を持たない。機工都市で生産された彼らに、外の世界に対する関心など、生まれるはずもない。
だが、この厚い黒煙の隙間に、青色の空などという見たこともないものがあると聞いて。
つい、ほんの少しのぞき見よう、という気持ちが生まれてしまったのだった。
気のいい、牧歌的な、お調子者の彼らは次々にカルスオプトの縁から転落する。
そうして、『等速直線運動を続ける物体αから物体β落とすと真下へと落ちる』という物理法則に従って、彼らは次々脚にぶつかり、さもなければ地面にぶつかって絶命した。
そして、常に稼働しながら修繕を続けていた配管から修繕者がいなくなれば、当然不調が発生する。
配管に蓄えられていた熱エネルギーは不適切な行き場で爆発し、本来届くべき箇所に届かない。
右側第13肢を担当していた《罐焚き》に至っては、ボイラーに熱を送る最中に逆噴射する高熱に全身を焼かれたほどだ。
熱エネルギーと運動エネルギーの均衡によってバランスを保っていた歯車が、ひとつふたつと砕けていく。《歯車磨き》によってコーティングされていたと言っても、600年以上の経年劣化は確実に歯車を蝕んでいた。カルスオプトの神経である1兆個の歯車は、修繕するはしから、完全に破裂し、風化し、不可逆の鉄屑に次々変わっていった。
居住区に繋がる通路から見えるひときわ大きな歯車が破損し、噛み合う歯車の失った小さな歯車たちは超高速で空転する。
超特急の運命の車輪が、すべてを轢き潰すように。
上級機関士である《大工》の作った比較的新しいパーツは、年月によって歪んだ年輪を重ねた過去のパーツと、ことここに至って不協和音を見せた。
稼働したまま止めることなく増築された脚や胴は、飴細工のように歪曲し、カルスオプトの肉体から、剥ぎ取られるように崩れる。
あるいは『地上の方』──キフィナスがいなければ、各配属先の人員は、この未曾有のトラブルに対応できたかもしれないが、実際のところは定かではない。
結果として、辺境を走る機工都市カルスオプトは、突如の内に崩壊した。
・・・
・・
・
「よかった……! メリー、間に合った。みんな、無事……だよね……?」
黒雲が青空を覆う平原。
カルスオプトの残骸と、カルスオプトを支えていた多くの人員が横たわっている。
巨大質量と速度が生み出すエネルギーは大きい。メリスも、体を横たえて肩で息をしているほどに消耗している。
彼らの胸が上下していることを確認して、キフィナスはそっと胸を撫で下ろした。
──ここに横たえた人員は、爆発の直前までカルスオプトに残っていた者に限られている。
メリスが取りこぼした命の数は少なくない。
あくまで、爆発の瞬間に、物理法則をほんの少し改竄しただけだ。
だが、事故の過程で何人を守れなかったにせよ、結果は変わらなかった。
「「「「「「「「けほ、けほ」」」」」」」」
カルスオプトの住人たちが、示し合わせたように、一斉に小さく咳きこむ。
そして二、三回咳をすると、ことりと倒れ、そのまま動かなくなった。
それで終わり。
「えっ……?」
こうして、カルスオプトにいた全人命は永久に失われた。
「あ……、あ……っ」
呆然とするキフィナスに向かって、炎の手が伸びる。
カルスオプトの残した熱が、平原の草木を焦がしていたのだ。
その火は次々に勢いを増し、さながら透明なカルスオプトが走るような速度で大地を燎原へと変えようとする。
灼熱が、キフィナスを呑み込もうとしたさなか──メリスが何回か大きく手を振って、伸びつつあった火を吹き消した。
メリスの形のいい鼻から、真紅の血がひとすじ垂れる。
そうして、平原に静寂が戻った。
「…………ねえ、メリー、」
「ごめん。きふぃ。ごめんね」
キフィナスの言葉の先を、メリスは遮った。
メリスの見立てでは、この8500の命は、カルスオプトを離れて存続することができないものだ。
その事実を傍らの優しい少年に伝えることは、更に彼を追いつめることに繋がると考え、メリスは口を噤んだ。
「ごめん」
メリスは、キフィナスに謝罪を繰り返す。
元々、人間の存在を感知し、それを伝えたのはメリスの側だった。
「……ううん。メリーは、わるくないよ。ぼくがっ…………ぼくはっ! ぼくがっ……! こんなつもりじゃっ……ぁ、なかっ…………っ!」
嗚咽が混じって、言葉にならない言葉を、キフィナスは繰り返す。
──ぼくはただ、貰ったものを、すこし返そうとしただけなのに。
──ぼくにできる、ほんのすこしを、わたしたかっただけなのに。
──ぼくは、こんなひどいことを、選んだつもりはなかったのに。
「きふぃは。なにもわるく。ない」
透明な金の目で、震える彼の全身をくっきりと映しながら。
おっちょこちょいで、不器用で。それから──だれより優しいキフィナスは、何も悪くないのだと。
メリスは、いつもの無表情を保ちながら、キフィナスにやさしく囁いた。
──そうして、キフィナスは善意を相手に向けることをやめた。
それ以来、彼が他人に向ける感情はすべて『きまぐれ』と『わがまま』になった。
メリスは、そんな彼が傷つかないように、彼女の『だいじなもの』以外に無関心になった。
辺境の旅は続く。
腰の高さまである草むらに足を取られて、キフィナスは足裏の血豆をひとつ潰して小さく呻いた。
それでも足は止めなかった。
「……まあ、こんなところですかね。参考になりましたか?」
「ああ、うん。なかなかユニークな体験記だったよ。今まで聞いた中では、十指に入るか入らないかといったところかな」
黒髪の金貸しは、そう言ってにやりと皮肉げに笑う。
「まあ、それでも満足したよ。スメラダの借金を棒引きにしていい程度にはね」
「いや、僕らこれからスメラダさんに宿泊料払うので。そこから受け取ればいいでしょ」
「それはあまり健全ではないよ。このコインには、人間の欲望を惹起する魔力が掛かってるんだ。仕事への対価は正当でなくてはならない」
「はあ。灰髪の僕には魔力とかいうものはないので関係ないですね」
「翡翠のは魔力持ちだよ。そして、既に彼女の金銭感覚は狂っている」
「別に、持ってるならいいんじゃないですかね。市場経済はお金を使うことで回ってるんでしょ。じゃあ貯め込まずにぱっと使った方がいい。ね、メリー」
「ん。きふぃに、おかねあげる。いっぱいあげる。ぜんぶあげる」
メリーが僕の頭に金貨をじゃらじゃら降らす。
いいぞ。その煽りは多分金貸しに有効打だ。
じゃらじゃら。じゃらじゃらじゃら…………長いな?
「ねえメリー」
「おかね」
「あのメリーさん」
「おかね」
「ごめんなさいメリーさん。そのくらいにしないと僕、金貨に埋もれて溺れ死んじゃう。物理的に」
「さながら驢馬耳の王だね。キミたちの仲が睦まじくて何よりだが、1枚残さず仕舞いたまえ」
金貸しはこほん、と咳払いをして僕に向き直った。
「ボクはね、借り手の返済には、富める者でも貧しき者でも、まったく同じだけの負担をかけたいと思っているんだ。平等という言葉は多義語だ。ボクが財を投下したとして、どの相手にも同じ額の対価を徴収することは平等であると表現できるし、不平等であるとも表現できる。なぜなら、貧しき者にはより負荷が高くなってしまうからね」
「はあー。それ決めるの貴方ですよね。じゃあお金持ってる人の方が負担重くなることもあるんじゃないですかね。それは不平等で不完全なシステムじゃないです?」
「世界に完全なシステムなどないよ。この世界の物理法則だって完全なものではない。改竄できる存在もいる」
「詭弁じゃないです? 主語が突然大きくなるの。僕は理屈を蚤の市みたいに並べる金貸しさんが僕に不当な取り扱いしてるんじゃないのって言ったつもりなんですけどーー、ひょっとしてご理解いただけませんでした? あっ知能も蚤相応なのかな?」
「もちろん理解しているとも。その上で、試させてもらったんだ。キミがどこまで翡翠の……、ギーベ家のことを思っているかということは徴収者として確認しなければいけない。連帯保証人という制度を当店でも導入しているけど、それは、彼の彼女のために、自分の魂の一定以上の部分をさらけ出してもよいと思う相手に限っている。なぜなら、フェアではないからね」
「……はあ。そうですか。じゃあ一点だけ聞きますねー? なんで『差し押さえ済』なんて札貼ったんですかね?」
「ああ。キミが不在の時に、美味しい茶葉を手に入れたからだね。こうすれば来てくれると思ったんだ」
……二度とくるか!
暗くてじめじめした陰湿な店と、そこに輪をかけて陰湿な店主め!
「さて! 《貧者の灯火》は、胸にこそ火を灯す。それではご機嫌よう、灰髪の青年とその愉快な隣人たち。君たちの道行きに、どうか幸多からんことを」
「前回の非礼のお返しはできたかな?」と笑うクロイシャとかいう金貸しに、わざわざ暗くした部屋のカーテンを開けるという嫌がらせをしながら。
僕はきょとんとしたスメラダさんと給仕の服を着たインちゃんを連れて、宿屋に戻った。
僕らが戻った頃には、既に忌々しい『差し押さえ済!』の札はなくなっていた。
まこと忌々しい金貸しである。




