辺境の旅路/キフィナスの過去 3
辺境の旅路は険しい。
昼夜問わず魔獣へ警戒を欠かしてはならない。
食糧・飲用水を常に確保し続けねばならない。
それでも、二人は旅を続けなければならない。
まだ幼い体躯のキフィナスは、大人用のマントにメリスと二人で包まりながら、吹雪の中を歩いている。
まともに立っていられないほどに激しい風雪は、容赦なく目を、顔を、体を打ち付けてくる。キフィナスは、メリスの背中に──最近、キフィナスの方がほんの少しだけ大きくなった──抱きつくように歩いていた。
「ぼくらを受け入れてくれる場所は、きっとどこかにあるはずだから」
傍らの少女は答えない。
「メリーはなにも悪くないよ。きみはちょっと人よりぶあいそで、ぶきっちょで──それから、ちょっと力がつよいだけだ」
少年は、黙ったままの少女に語りかける。
訪問した辺境の寒村を、つい今し方出ていったばかりだった。
わずかとはいえ食料を恵んでもらえただけ、扱いは遙かに良かった。天候の悪さに忠告もしてくれた。
きっと、彼らは日々をのどかに、穏やかに、善良に生きてきたのだろうとキフィナスは思う。
──それでも、ぼくの大切なおさななじみを、バケモノと呼んだあの人たちとは、いっしょの場所にはいられない。
広原を抜けた。布の屋根に住んでる人からは、石を投げられた。
砂漠を抜けた。オアシスの豊かな人々からは、顔を殴られた。
荒野を抜けた。食料を失っていた旅人からは、命を狙われた。
丘陵を、山岳を、洞窟を樹海を大河を。火山を渓谷を湖沼を訪ね、色んなものを二人は見てきた。
それでも、なお道は見えない。
この氷原を抜けた先に、あるいはそれがあればと、キフィナスは思う。
寒波が頬を撫でる度に、キフィナスの全身は震えが止まらなくなって、もう抱きしめる腕の力もほとんど残っていない。
──きみは悪くない。
──あの頃のような、おだやかな日々が、どこかにあるはずなんだ。
──きっとどこかに、きみを受け入れてくれる場所があるはずなんだ。
キフィナスの意識が薄らぐ。
もう目を開けている余裕はなかった。
それでも、胸に伝わる体温だけを頼りに、手足を動かしていた。
「きふぃ」
「うん……、メリーは……、わる、く……」
足取りは重く、旅の終わりは見えない。
彼らの道行きはさながら、異端者が往く巡礼の旅路を思わせた。
「きふぃ。きふぃ。おきて」
メリスの吐息が外耳をくすぐる感覚で、キフィナスは意識を取り戻した。
そこには、既に先ほどまでの寒気はない。
今なお大吹雪が荒れているすぐ横で、穏やかな太陽の光を浴びた新緑が芽吹いている。
辺境はダンジョンと変わらない環境だ。境界線の端境で、地面に線を引いたように寒気と暖気が切り替わる。
砂漠のすぐ隣に樹海が広がっている光景は、辺境では珍しいものじゃない。
「それでも、いつ見てもふしぎだよね……。この草、温かいところのギリギリまで生えているのに、ぴたっと線を引くようにはっきり分かれてる。ぼくと同じで寒いところダメなのかな」
「せかいがなまえをつけたものは。せかいのもの。りょうぶんを、こえない」
「あはは。なんど聞いてもよくわからないや。なんかむずかしい理屈があるのかもしれないけど、やっぱりふしぎなものは、ふしぎだよ。だってゆびをちょっと伸ばしただけでこんなに違──うわ冷たっ!! しもやけした!」
キフィナスには軽率なところがある。
長年そばにいたメリスは、その対応にも慣れていた。
「ん。あははめう」
そう言ってメリスは無表情のまま、小さな口を指一本分だけ開ける。
ちらりと赤い舌が覗いた。
メリスの体温はキフィナスよりも低いが、人体の構造として、口内であれば身体の末梢である指先よりも体温が高い。
そのような合理性を十分に含んだ提案であったが──。
「いや、噛むからやだよ。前ちぎれそうになったし」
メリスの視線を受けて、キフィナスは慌てて指を引っ込めた。
メリスは今もなお、口を開けたままキフィナスの赤くなった指をじっと見つめている。
「かうぁない」
「よだれって変なにおいするじゃん。やだよ」
「ない」
「というかきみ噛むじゃん。収まってきたのでいらな──」
──鉄錆の臭い。
見上げると、そこには巨大な鉄駆があった。
「……魔獣!? こんな穏やかそうなところに……!!」
キフィナスには、それがトゲだらけの甲羅を背負ったタカアシガニに見えた。
トゲの先から、黒煙をもうもうと出している。
長く節くれ立った鉄の足が、何本も甲羅から生えている。
赤錆た巨大な足は、常にガシャガシャと轟音を立てながら動き、動く度に間接から蒸気を噴射している。
今にも踏みつぶされそうな威容に、キフィナスは怯えた。
「……にげよう! メリー」
「なんで」
「だって、あんなの見るからにヤバ──」
「きふぃは。ひとのいるところ、さがしてた」
メリスの言葉はいつも端的だ。
「あれに……ひとが住んでるの!?」
キフィナスは、それだけでメリスの発言の意図を理解した。
あの魔獣の甲羅の上か、それとも身体の中に人が住んでいて、ずっと辺境を彷徨っている?
──ぼくらと、同じかもしれない。
「どうにか、その人に会えないかな……」
「いく?」
「うん、行けるならいきたいけど──うわぁっ!?」
メリスはキフィナスの脇に頭を入れ、そのままキフィナスの身体を持ち上げた。
肩胛骨が腹部を圧迫する体勢になって、キフィナスは苦しさを覚える。
「ま、待ってメリー! まって! これ、まさかそのままっ──」
「した。かんじゃだめ」
メリスは人差し指をキフィナスの口に入れると、そのまま垂直跳びをして雲を超えた。
「んむうううう!!」
キフィナスは恐怖と自分に掛かる衝撃で、歯を食いしば──ろうとして、自分の口内にメリスの指があることに気づき、それを堪えた。
雲の上は空気が薄い。
上空から甲羅を見下ろしてみると、トゲだと思っていた部分は、どうやら建物のようだった。
黒い煙突と、黒い配管が張り巡っている。
(なるほど、確かに街……みたいだ)
キフィナスには、無秩序に伸びたそれらは、自然界のものではない、限りなく人工物に見えた。
(ここなら、ぼくらを受け入れてくれるかもしれない)
キフィナスが、安堵を覚えたその瞬間。
落下が始まった。
「んふぁあああああああ!! あああああああああ!!!」
キフィナスは叫ぶ。舌だけは、メリスがしっかり指で押さえつけているせいで、上手く発音することが適わない。
重力加速度に従い、落下速度が上がる。
見ている景色が線になる。
自分の速度が速すぎて、目の機能が追いつかないのだ。
加速する。
加速する。
加速する。
そして、
メリスが落下する勢いはどんどん増していき、
キフィナスの身体に掛かる重力の負荷もその力を強め──、
──ついにメリスは、細い配管の上に、
なんの衝撃も起こさずにぴたりと着地した。
キフィナスはといえば、白目をむいて倒れている。
メリスは口内のよだれにまみれた指を優しく動かし、指先で舌を撫で──。
「わたち。国民番号7659291927と申しまちゅ。地上のかた、ようこそおいでくださいまちた。《機工都市カルスオプト》へ」
配管の上にいるメリスを見上げながら、まだ幼い二人よりも、さらに背の低い風貌の住民が、笑顔で挨拶をしてきた。
その笑顔には、部外者が突然現れても、それを気にしたりする様子はない。
朦朧とした意識の中でキフィナスが最初に見たものは、そんな屈託のない笑顔だった。
「……という感じで、当時10歳? ぐらいだった僕は、住人に会ったんです」
「辺境を駆ける巨大獣の表皮に、まさか人間がいるなんて驚きだったね」
「そうですね。ただ、メリーに言われてたのもあって、そこまで驚きらしい驚きってわけでもなかったですけど」
「キミの表現を援用するなら──甲羅の上に暮らしていた人々は、どんな生活をしていたんだい?」
「そうですね……。ひとことで言うなら……彼らは、疑うことを知らなかった、ですかね。あと、生活空間は甲羅の上だけじゃなくて、内部もそうでした。がっしょんがっしょん動いてる中で、たくさんの人が動き回ってたんですけど」
「そうか。……それで、ボクの知る限り《カルスオプト》は既に姿を消したわけだけど」
「はい。それに関わってました。──僕が、あの地にいた人たちを殺したんです」




