ダンジョンって結構そういうところある。
ダンジョンの多くは、複数の階層に分かれていて、階層ごとに気候なんかもがらっと変わる。
閉塞感のある土壁の迷宮が、ある地点から一歩踏み出したら突然広大な砂漠になる、なんてことも珍しくはない。
「シア……大丈夫?」
「……はい。姉さまこそ。お体は大丈夫ですか」
「なんとかね……。ダンジョンの過酷さは聞いていたけど……、まさか、これほどなんて」
──今、僕の眼前には極寒の雪景色が広がっている。
寒気はまず触感を奪う。棒の握りは弛まり、指を自由に動かすことはできそうにない。
指先への力の入れ方ひとつで棒の振りって大きく変わるんだけど……。これはちょっと戦力になれないなぁ。困る。
次いで、寒気は視界を奪う。勢いよく頬に吹き付けてくる吹雪は目を凍らせようとしてくるし、呼気の水分がまつげに付いて小さな氷柱を作ろうとする。
そしてそんな氷よりも空気の方が温度が低いから、肌にぺっとりと張り付いているのに、どこか暖かいような錯覚を覚える。
吐いた息が、しゃん、と凍り付き、元々雪まみれだった僕の前髪を堅く凍らせた。
「これのどこが《怪虫の巣穴》なのよ……」
ほんとそれ。ほんと。
……ただまぁ、一般的な冒険者からすると、むしろダンジョンの名前が本質を表すものじゃないことは常識だったりもするんだけども。
名前はダンジョンの発生とともに自動的に生成される。スキルや魔道具で発生を感知した時点で、名前は既に決まっているのだ。それもあって割とアテにならない。
《炎獄の洞窟》とかいうダンジョンで炎対策をしてた冒険者が氷河で凍死してた話は酒場での笑い話の鉄板として定着してたりする。
だから当然、僕だってその対策くらいはしてる。
僕は持ってきていた《赤紗熊のマント》を羽織ろうとして──僕の後ろですごく寒そうにしてるステラ様が気になってしまった。
赤い髪を氷雪が白く埋めており、一目でわかるくらいガタガタと震えている。
……はあーー。
「よければどうぞ。差し上げます。一枚だけですが」
「あ、ありがとう……。……いいの?」
「ええ、まあ。僕が無礼を働いた際に温情を掛けてもらえるかな、という打算を兼ねた点数稼ぎですので。あはは。お気になさらず」
「それを正面から言うのね……、ううっ寒っ……。なら、遠慮なくいただきます」
どうせ僕の着るものが一枚違ったところで寒さはそこまで緩和されないし、それなら下手打ったときの保険にした方がいい。
まあ、この程度で保険になるとも思っていないけど。
「……姉さま。ただちに捨てましょう。毒か何かかもしれません」
「毒を盛るなら妙なことは言わないでしょう。だいたい、あなただってこんなに手を冷たくしてるでしょうに」
「ひゃっ……ね、姉さま……」
「ほら、首。二人で巻くわよ」
「お二人とも。あまり喋ると口の中が凍りますよ。自分の舌でシャーベット作りがしたいって言うんなら、それはまあー、個人の趣味として尊重しますけど」
《適応》してない人間にとって、この寒さはかなり酷だ。
ある程度経験を積んだ、中堅以上の冒険者なら、この程度の寒さはむしろ雪景色を楽しむスパイスくらいにしかならないんだろうけどあいにくと僕は違う。寒いものは寒い。
「凍傷に気をつけて。汗をかかないように、足下は雪で動きづらいですが体の力は抜いてください」
僕の言葉にステラ様はこくりと頷いた。
ふー……。やっぱり寒いなぁ……。
「さむい?」
《適応》がすごいメリーなんかは、こうして今も平然としているわけだけどね。
めちゃくちゃ寒いよ。今すぐ帰りたいくらい寒い。
「めりをだっこする。あったかくなるよ」
「メリーはひょっとして気づいてないかもしれないから言うんだけど、僕から君に抱きつくとだいたい最終的に僕の意識がすっ飛ぶんだよね」
メリーはどうも、僕と街を歩くときとか含め、常に瞬間的な超加速と急停止を繰り返して動いているらしい。ゆっくりと歩く、ということがない。僕が抱きついててもその動きは同じだ。
だから僕は振り落とされて壁や地面と情熱的なキスをするか、さもなければ空気の壁に襲われてノックダウンすることになる。なった。
今ここでそんなことしたら間違いなく死んじゃうよ?
「だいじょぶ。めり、まもるよ」
あの。にじり寄ってこないでいただけますか?
メリーは静かに僕との距離を縮めようとする。僕は静かに一歩下がる。
寄ってくる。下がる。
寄ってくる。下がる。
寄ってくる。下がる。
寄ってくる。下が──いたっ。あれ? こんなところに壁が?
「ぎきいいいいいいいいい!!」
うわっなんだこの大型肉食獣! 壁だと思ったら背中じゃん! まずいっ!
僕は振り向きざまに手にした棒を振り回し、背骨めがけて強烈に打ち据え──たところで、ゴブリンたちとは骨格からして違う。
ぎゃん!と鳴き声を上げて怯みはするものの、致命傷にはならない。
メリーたすけ……なんで動かないの!?
「けいこ」
ここで? いつものやつここで!?
せめて他の人連れてる時はやめてくれませんか!?
「メリーこれ詰んでる! 無理無理たすけて!」
「きふぃはできる。えらいこ。がんばる」
「無理だってばー! この厚い毛皮じゃ刺突は通らないし体格からして体力もあるしこの太い腕じゃ僕なんか一撃で……うわっと!」
「がんばる」
メリーが僕を虐待してくる! こんな大きい熊殺せないってば! ルーキー殺しの大灰色熊でしょこれ!
いやほんと、僕が持ってるのはただの棒きれなんだけど……うわっ危ない!
ねえこれっ! 腕振るときにブンって轟音鳴ってるし!
「無理っ!」
「さっきの。あとさんじゅななはつ」
37発!? いやいやいや! あれは背中ががら空きだから手を出しただけだからね!
正面から獲物を見据えてる獣の背後がそんな簡単に取れるわけないだろ!
「よゆ」
そりゃ君はね!?
「できないけいこ、ださない」
「その基準が高すぎるんだっ──うわ舌凍るっ!」
「めりに、だっこするなら。そいつ。殺してもいい」
えっ嫌だ……。
何この二択……、どっちに転んでも僕が死ぬやつじゃない?
相変わらず腕の振りすごいよこの熊。ぶんぶん風を薙ぐ音するもん。
はーーーー。
こうなれば仕方ない。覚悟を決めるか。手も足も寒くて動かないけど、なんとか背後を取って持ってる道具で──?
「ひえっ……」
突然、僕に腕を振るってきた巨体の『内側』から火が『生えた』。
こわ……。僕は思いっきり後ろに飛んで距離を取る。
目や耳や鼻や口、全身の穴から炎を噴き出して獣が燃えていく。蛇のような赤い炎が熊の厚い毛皮に絡みつき、全身に燃え広がる。
苦しさに叫び声を上げようとする獣。喉が焼けているんだろう、がぼがぼという音を発することしかできない。
そして最後の力を振り絞り、突進しようとした獣の足下に、氷の轍が生えてきた。
──がぼぼばばばば!
叫びにならない声を上げ、足を縛られたままの獣が上体を崩す。
手足は炭化し、くしゃり、と内側から潰れた。体の内側から燃やし尽くしたのだろう。
そうして支えを失った巨体は地面に伏し、何度かのたうち回った末に、動くこともできなくなって、ぐったりと体を横たえて動かなくなった。
……えっぐ。
「ごめんなさいね。しばらく時間がかかりそうだったから、つい」
「……遊ばれていても困りますので。姉さまのお手を煩わせないでください」
「そういう言い方はよくないわ。シア」
僕のマントを姉妹で首に巻き付けた貴族の姉妹が、目から燐光を放ちながら僕に謝罪をした。
魔力の光だ。どうやら、ステラ様は魔力がある程度回復したらしい。今もビカビカと赤く光ってる。一方のシア様も、瞳の先にわずかな青い光の残滓を残している。
「いえ。本当に助かりました。いやー。ステラ様たちは命の大恩人ですよ。あはは」
「あなた一人でも何とかできるとは思ってたのだけどね。つい手が出てしまいました」
「……姉さまの手助けをしただけです。詰めを確実にするために。おまえを助けたわけではありません」
「ステラ様が炎で体の内側を燃やし、シア様が氷で相手の動きを奪う。素晴らしいコンビネーションですね」
「……おまえ、先の一瞬でそれを理解したのですか?」
「ええまあ。それが何か?」
「……姉さま」
「ええ。流石はSランク冒険者の仲間ね。先の戦闘には何か考えがあったのでしょうけど。ごめんなさい?」
「いえ。ないです考えとか。ないです。凍えてぜんぜん動けなかったので。本当に助かりましたよー。これで先ほどの件もプラマイゼロ。チャラですね」
「……腑に落ちないわ。あなたの隣には最強の冒険者、メリスがいるでしょう?」
「ははは。メリーに助けを求めるとか。今の見てたでしょう。完全に虐待ですよ?」
「けいこ」
「ははははは。こんな環境下で獣と殺し合わせるのは稽古じゃないんですよメリーさん勘弁してくれませんか」
「ぷん」
えっメリーなんで機嫌悪いの?
被害者は僕であって君じゃなくない?
えーちょっと機嫌なおしてくれないかな。いやね? 僕寒いのと暑いのはダメなんだよ。それだけはダメなんだ。そんな環境下で難題を出されると困ってしまうんだよ。
まずもって、僕が君のこと抱っこするとか論外だし。それだけはない。僕がここで意識手放すわけにはいかないんですよ。
ぶっちゃけメリーってばお二人のことどうでもいいって思ってるでしょ? 僕はこれでも身分とかそういう法律はしっかり覚えてるんだ。そういうのはいけない態度で──、
「ぷん」
あれ悪化した? ねえちょっとメリー?
あの、話を聞いていただけます?
《炎獄の洞窟》
ダンジョンの名前を決めるのは人ではない。それが生成された直後から固有の名前を持っている。
命名法則はよくわかっておらず、それを信じるとバカを見ることも多い。
炎獄の洞窟とは、300年ほど前の冒険者ティムトッタのダンジョン名が原因で失敗したとある冒険が元になった小咄である。
冒険者の多い場末の酒場などでは、これを歌って日銭を稼ぐ吟遊詩人もいるという。これを笑い話にするから冒険者は単細胞なんだよなぁ、とキフィナスは思っている。
〽臆病冒険者ティムトッタ
迷宮の名前聞いたなら
急いで暑さの準備して
凍えて凍ってサヨウナラ