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ライムライト



 家族が嫌いだった。


「さすがですっ、ねえさま! 陛下の剣術大会で、優勝されるなんて!」


「ああ、うん。ありがと、アーニャちゃん」


 遠征から数日ぶりに帰った実家。

 わたしを見上げる愚鈍な妹の言葉に、心の中で舌打ちをした。


 剣に名声はいらない。ただ、よく斬れればいい。

 担い手もまた同じだ。相手をよく斬れればいい。

 あんなものは、全て《嵐の王》を継ぐための儀礼でしかない。


 あれが御前試合でなければ、あんな無様な真似を──スキル頼りの見え透いた剣筋に、その子()の声を聴かずに打ち合わせるなど!──いったい誰がするものか? ろくに手入れのされていない数打ちの剣を抱えて、『用意』の声で始まる競技に、いったい何の意味があるのだろう。


 大上段に魅せるための花剣には本質は伴わない。

 単純に、わたしの方が、剣が巧いというだけだ。

 《剣術Lv5》とは、鑑定士協会の世辞ではない。


 だというのに、相手は自分の同僚や先輩で、こっちは一応立場としては新入りだから負かし方を考えてやらないといけない。……まったくの不純な剣だ。最短最速で相手を斃すことこそ剣の本懐であろうに、それをしてしまえば不都合が出る。打ち負かした相手の健闘とやらを讃えなければならないのだ。


 騎士は剣を振るのが仕事なのに、ただ剣だけを振っていればいいというものではないのだった。

 幼い頃に夢見たそれは、そう単純な世界ではない。

 近衛騎士という立場、マオーリアの長子という立場、現団長である父の後継者という立場。

 そんな立場によって、わたしは束縛されている。



「アーニャちゃんは、今日も練習?」


「はいっ! 二の刻から、五の刻まで。剣をふっておりました!」


「そうなんだ。頑張ったんだね」


「はい! 苦しいですが、がんばっております!」


 妹は毎日、日が暮れるまで自分の背丈より大きい剣をよたよたと振るっている。

 まだ小さなその手にはいくつも血豆を潰した痕が残っている。

 わたしは手の皮が捲れたこともなければ、剣に重さを感じたこともない。



 わたしの妹、アネット・マオーリアには才能がないのだ。



「わたしも、ねえさまのようになれるでしょうか?」


「……さあ、どうかな。わたしは、剣のことしかわからないからね。そんなわたしみたいになっても、別に楽しくはないんじゃないかな」


「いえ! ねえさまのような素敵な大人になりたいのです!」


「……なれるさ。きっと。頑張れば」


 ──ああ、今日も言えなかった。

 誰かが言わなければいけないのに。


 きみには才能がないんだと。

 そんな続けても仕方ないと。

 ぜんぶ無駄な努力なんだと。


 祝祭期にしか家庭に帰らない父も、剣のことをわからない母も、どうやら妹に引導を渡してやるつもりはないらしいのだった。

 その方が、ずっと残酷なことだろうに。



「斬れない剣か。……可哀想だね、きみも」


「ねえさま?」


「いや、なんでもないよ」


 妹が重そうに抱える、刃が潰された両手剣を見ながら、

 この子と妹はそっくりだなぁと、そんなことを思った。







「かっ……、は……!」


 わたしは、エルフリーデ・マオーリアは、そんな妹が確かに嫌いだった。


 だというのに。

 最期の記憶に焼き付いていたのは、哀れで愚鈍な、くすんだ土色の髪をした妹の姿だった。



* * *

* *

*



 そうして、元の名前を捨て、真理の一端に触れ──世界の果てに残った妄執がひとつ。


「アーニャちゃんを、楽にしてあげたいんだ」


 その想念が、魔人の全身を動かす。

 吹く風に淡い黄色の髪が揺らいだ。



「邪魔だから、隅っこで大人しくしてなよ」


 小蠅を払うように振るわれた剣によって、灰色の首が石畳に落ちた。




 手のひら大の小瓶の中には世界が詰まっている。

 メリスが息を吹きかけ、口を無地の布で乱雑に留めただけの小瓶。しかしひとたび開かれれば、周囲の環境を塗り変え、世界の法則を塗り潰す。

 そんな小瓶を両手に抱えたまま、首と胴体を泣き別れにして灰髪の青年は斃れ伏した。


「キフィナス……!?」


 かつての知己が低く叫んだが、それは魔人にとって重要ではなかった。

 そんなに大切なものならしっかり抱えておけばよかったのに。どうして、こんなところに連れてきたのだろう?


「スタインベックさんも。通したげるからそこどいてね。

 きみの目的地はすぐそこだよ」


「……いや。道を開ける必要はない」


 紫の雨雲が中天の太陽を覆い、貴族街に濃紫の雨が降り始めた。

 ぽつぽつと立つ雨音に、しゅうしゅうと焼けつく音が続く。

 あまだれは石を穿ち、時間が逆行する世界の中でも白煙が立ち上る。


 魔術によって発生する現象は、物理法則の影響を受けない。

 この貴族街の物理法則は天地・前後・順逆が逆さになっているが、リリの魔力はそれをねじ伏せた。


「気が変わった」


 血濡れのレインコートは、白金の近衛騎士に相対する。



「殺し合いをしよう、エルフリーデ・マオーリア。

 君が備える命、その悉くを奪い尽くそう」


「それは『気が触れた』って言うんだよ。スタインベックさん」



 驟雨は嵐へと変わる。吹く夏風が魔力の嵐に呑まれる。

 雨音は激しく、さながら悍馬の群れが地響き立てて駆けるようだ。

 かつての王都グラン・タイレルの遺構を、酸の嵐が蹂躙していく。

 酸により白煙を上げる石造りの屋根。嵐は、その白煙ごと溶かしていく。


 術者は表情を一切変えず、その背後の風雨だけが激しさを増す。

 回収した《林檎》のような未回収の終末装置の存在も、今のリリには重要ではなかった。



「そして。私はもうスタインベックではない。エルフリーデ・マオーリア」


「奇遇だね。わたしも今は、ライムライトって言うんだよ」



 グレプヴァインの酸の雨、その一滴が魔人の指先を掠めると、直ちに右腕ごと融解させた。

 ライムライトは長剣を逆手に持ち替え即座に雨雲を斬り、一人分の晴れ間を作った。

 紫の曇天の切れ間から煌びやかな日光が差し込み、ライムライトの淡い髪を明るく照らした。


「おっかない雨だね。右手がなくなっちゃったよ。今のきみとお揃いだ。流石はAランク冒険者! ここが真正面から『用意』で始まる戦いでなければ、もっと恐ろしかったんだろうね。

 だけど、きみの気力体力はいつまで保つのかな?」


「熔かし尽くすまで。保たせるだけだ」



 殺人のための術とは通常一回限りだ。なぜなら、生物は殺せば動かなくなる。死体を殺し続ける必要は基本的にない。

 そして、人間の気力体力は有限だ。

 魔人ライムライトの持つ無限の生命は、対手の手札を枯らしていくことに特化している。



「そう? それじゃあ、きみの意地を見せてもらおうかな! 《雷よ、盾となれ!》」


 射撃と酸の嵐を避けながらの二節詠唱が、ライムライトの四方に雷電の障壁を作り出した。

 紫の雨粒が雷の傘に触れる度にバチバチと電熱が弾け飛び、クロスボウから放たれる鋼鉄製の太矢が何十本と障壁に食い込み突き刺さり、激しく赤熱放電する。


「しッ──!」


 杭のように壁に突き刺さる太矢、グレプヴァインは《幻影舞踏(ミラージュ)》で接近しその矢羽ひとつひとつに掌底打ちを重ねる。

 爆音を立てる拳の衝撃は太矢に今ひとたびの推進力を与え、雷の障壁を打ち破る。敵対者の脳天、頸椎、心臓、脊髄──人体の致命部位を貫かんと暴風雨のように太矢が駆ける!


「おっと! 危ないね」


 ライムライトは隻腕の剣で、踊るように、その身に殺到する太矢を次々斬った。雷の障壁の切れ目より降り注ぐ酸は、太矢のついでとばかりに剣圧で撥ね飛ばされる。

 純粋な身体能力が、その曲芸を可能にする。

 だが、魔人ライムライトには本来防御・回避行動の必要はない。魔人にとって痛みとは肉体の防衛反応ではなく、異常に対処するための機能として維持されている。


 これは、相手の手札をより多く引き出すための見せ札だ。

 現に相対する血濡れのレインコートは、斬られた義手の先から円鋸刃バズソーを射出している。

 障壁の切れ目を探すように、円弧の軌跡を描いて跳ぶ32枚の円盤は、貼り直された雷の障壁に阻まれ黒焦げになった。


「ヒトと魔人。力の差は、すごく残酷なことだなって思うよ」


「知った、口を……!!」


「ほら、もう息切れてるよ? スタインベックさん」



 雨勢は激しさを増すが、魔人には通らない。強酸の雨を弾き、矢の雨を潜り、魔道具の雨を解体していく。

 世界の破滅に抗うが為に10年磨かれ続けた戦闘技術を、魔人の肉体、基礎身体能力が凌駕する。


 魔人の本質は概念だ。

 血液は潤滑油に、心臓は喞筒ポンプに置き換わり、想念のために肉体が動く。

 もしも王国歴984年夏の魔人ライムライトが失われたのなら、984年春に魔人ライムライトを現出させればいい。


 呪われた土地に魂魄を縛られることによって得られた、擬似的な無限の命。

 《千年劇場の舞台照明ライムライト》──彼女の権能は、自分自身を王都グラン・タイレルへと照射し投影することができる。


 ライムライトを打倒するには、それを形作る概念そのものを害するより他に方法はない。

 高位冒険者が隠し持つ迷宮兵装──巡りし星の記憶の残滓の内には、概念と化した存在を打倒する力もないとは言えない。

 その手札をどこかで切らせれば、その時点で勝利が確定する。



「それにね」


 呼吸の揺らぎを好機と見て、片腕の雷光剣が嵐雲を一閃した。


「嵐くらいなら、生前のわたしだって斬れる」


 筆頭近衛騎士マオーリア家の剣は速く、鋭く、何より重い。斬撃それ自体に質量を伴う。そして、かつて最年少の近衛騎士という栄誉を与えた彼女の《魔封剣》は、斬りしものの魔力を収奪する。


「かっ……!」


 雲を斬られ矢を斬られ嵐を斬られ、急激な魔力欠乏によってグレプヴァインの顔の半分は蒼白に変わり、焼け爛れた半身からは赤黒い血が噴出する。

 しかし、尚も魔力行使を止めない。

 グレプヴァインは口内の丸薬を噛み潰し、強引に確保した魔力を脳髄に注ぎ込む。


 酸と矢の雨は未だ止まず。

 しかし、雷鳴の傘がそれを全て防いでいく。


「っ……、ふ、くっ……! 《幻想、舞──かはっ……!」


「このままだと死んじゃうよ」


「……ここで、殺せるなら、安い……!!」


 臨死の気配を湛えながら、彼女はまだ眼が死んでいない。

 ──次の札は何か。それは鬼札か、それともここで打ち止めか。

 ライムライトは、優しげな口振りながらも血を吐く相手を油断なく凝視し──、




「混ぜろって言っただろ」



 落ちた首がそう呟いた瞬間、無数の硝子瓶が地面に降り注いだ。



「止めろ、キフィナ──」



 制止の声を掛けられども瓶は既に手から放れている。まずは、無色透明の瓶から『月のない夜』が零れ落ちる。逆さまになった四季も酸の雨も瓶の口から吹き出した闇の中に融けて消えた。

 続いて『地平線と水平線の出会うばしょ』は周囲から高度の概念を奪い取った。『風吹く水晶砂漠』は地面にいくつもの水晶を散りばめて水分を枯渇させ『みなそこの温度』は熱を奪い『さびついた太陽系儀』は空をかき混ぜ大気を奪い『時計の止まった東京駅』が時間を止めた。

 瓶は次々降る。次々に降り注ぐ。少し離れて『巨人とこびとの足跡』が転げる。『首なしじぞうの石切刑場』が落ちる。『絵本の塔』が割れて『灰色の平原』が漏れ出て『ゆけむり七色温泉』が吹き出した。小さな瓶の口から概念が濁流のように流れ出てどろどろと周囲を世界を塗り替えて塗り替えて塗り替えて、『真球の樹海』が『愚者どもが焼け死んだ村』が『蒼炎火山』が『おちてきそうな星空』が『影絵幻灯サアカス』が『黄金三角錐のオブジェ』が『血の滝』が『生焼けたまごの墜落地点』が『くらやみの消えない火』が『はじまりの森』が『溶岩洞窟の地下水脈』『塩づけの爆弾』『炭坑のかなりあの檻』『自動人形廃坑』『祈るものの絶えた聖地』『お菓子と首吊りのくに』『人體蒐集家の屋根裏部屋』『さめない夢見枕』『エウリピデスの神々の墓』『藁屑の欠けた脳みそ』『アルミニウムの心臓』『セクター42』『世界終末時計』『天使の機械』『いけにえ村』『ワインいろの海辺』『鉄錆蟹の甲羅のうえ』『なにもない』『大長虫の巣穴』『地獄の門』『耳なしのひまわり畑』『穢血病のホスピス』『詛禍の地』『ぶるぶる病の共食い島』『白痴の王のみもと』『ワールドパレット』『鍵のない銀のとびら』『クッキークレーター』『きんいろの蜂蜜池』──。

 瓶から転げた概念が概念を塗り固めていく。光がなく高度がなく湿度がなく温度がなく空気がなく時間がなく実体は次々に変移し異物が現出してはかき消え塗り替え塗り替え塗り替え塗り替え塗り替え塗り替えられていく。ダンジョン内に設置された世界を滅ぼして余りある終末装置もメリスの魔力に励起し全て破裂した。



 そうして最後に残ったのは、世界を構成する断片が瓦礫となっただけの、なにもない空間だった。


 ここはもう、徹底的にタイレル王国ではない。

 魔人ライムライトを構成する前提は崩れた。



* * *

* *

*



 死の否定。

 曇り硝子の内には、死が握り潰された世界が在る。

 どうやら千年積もった想念とやらも、つまらなさそうに体育座りをしているメリーの吐息ひとつで吹き消されるほどの重さしかなかったらしい。


 僕は知っている。

 痛みも恐怖も本物だが──ここでなら、何をしたって死ぬことはできないことを。


 だから、さっさと起きよう。


 両手で落ちている首をぐっとくっつけて、そこに薬草を塗りたくった。……感触的なものはなくても、相変わらず不快な感覚がする。塗っても食べても同じ効果なんて適当極まる治療法は、僕の中で培われた常識には一切そぐわなくて、使う度に何とも気持ちが悪いのだ。理不尽性が高い。

 何が理不尽性が高いって、これだけで首がくっついちゃうんだからさ。



「ああ、ほんっとだ。なんだってこう、僕には生傷が絶えないんだろう。冒険者ってのはこれだから──」


「ふふ……、そうだな、やはり、生きていたか。キフィナス……」


 何だよ。僕が生きてたら都合でも悪いのか?


「…………いや。下がれ。私が……、やる。すぐに、瓶の中身を……っ、戻すように、メリスに命じろ」


「あ?下がらないけど。メリーに命令? やだよ。これを撒いたのは僕だ。メリーじゃない。

 どうせここじゃ死ねないんだからさぁ、魔力枯渇で死ぬなら外に出てからやってくれない?」


「理解できないか? その力を、使うなと言うんだ……! メリスに、喰らった業を吐かせるな! それは、この世界に在ってはならなッ」



「黙れよ」



 グレプヴァインは血に沈んだ。

 魔力とかいう謎エネルギーの欠乏か、ぶちまけた瓶の中の概念の内のどれかに引っかかったか。……残念ながら、ここじゃ死なないが。


 ま、どうでもいいや。何なら、僕はこいつが同行することだって嫌なんだ。

 せいぜいそこで死んでろよ。この世界にあっていいかどうかなんてのは、あんたの決めることじゃない。


「さて、と。やーすみませんね、なんかごたごたしてて」


 先ほど僕の首を落としてくれやがった魔人を見つめる。


 長い黄緑の髪に、目障りなほど眩しく輝く鎧を着込んだ隻腕の女だった。背丈は僕より少し高い。

 まあ、僕が投げ散らかした瓶によって、現在高さとかいう概念はもう何もかも曖昧になっているので、僕と同じくらいの身長だと言い切っていいだろう。何なら僕の方が高い、と計上してもいいかもしれない。身長という数字は唯一僕がメリー相手に明確に勝っている部分なのでそこは拘っていきたい。そんなに背高くないけど、だ。そこのやる気ないちびっ子より僕の方が上なのである。


 後はまあ、なんだか顔立ちとか雰囲気とかが知り合いに似ているような気がしたが、全く気のせいだなと思い直した。



「概念世界の上書き……すごいね。まさか、こんなことができるなんて。よく考えてみれば、ただの灰髪をスタインベックさんが連れてくるはずもなかったか」


「はあ。なにやら賢ぶられても、あんたの分析は全っ然的外れですけれどもね」


 僕はあんたの言うところの、ただの灰髪だ。

 そこの火傷女だって僕のことを評価なんてしちゃいない。

 技術がない才能がない力がない、そんな無様で不出来な存在だって見ているだろうさ。

 そいつはきっと、特等席で嗤いたいから付いてきたんだよ。


「そうなの? わたし、ヒトを見る目はあんまりないんだ。まあ、君がそう言うならそうなんだろうね」


 何より、こんなものは僕の力ではない。

 どれもこれも何もかも僕の力じゃない。

 全部が全部借り物の、僕の力なんてもの何ひとつとして介在しいない。


 だから、この世界にあってはならない、なんてコトもない。



「水平線の向こうまで、なんにも見えないや。足下のぐちゃぐちゃになった概念の、その欠片しか見つからない。

 一応聞くけど、出口ってどこなのかな?」


「さあ?」


「そっか。じゃあ、殺すね」


 ただ一言「さぁ?」と、心を込めて丁寧かつ簡潔に答えた僕に対して、まるで挨拶のような穏やかな調子でそんな物騒なことを言った。

 この女は、何かを殺すことに慣れている。尋常でない気配が雄弁にそれを伝えてある。


 でもさあ、そんなこと僕に聞かれても困るじゃん?

 だってそんなの僕にもわからないんだからさぁ。


 地平線の向こうなんて何も見えやしない。そして、理性よりも先に順応した肉体は先が見えないことを疑問に思わない。理性だけが違和感を訴えるが、次第にそれもなくなっていく。

 勿論、景色以外もそうだ。世界の有り様はご覧の有様だが、当事者はそこに違和感を覚えない。最初からそういうものだったって認識するし、その法則が心身に牙剥くものであっても決して死ぬことはない。

 全身を潰す水圧を感じている。器官を侵す病毒を感じている。神経をかき毟る痛みを恐怖を感じている。だけど死ぬことはない。そもそも、それが恐怖だと感じるのは、僕がぶちまけた瓶の中身を知っているからだ。


 きっと目の前の魔人も、実際に何が起きているのか、どんな風に混ざっているのか理解できちゃいないだろう。

 理解できるモノ、理解してしまったモノによって見方が変わる。

 それが、瓶の中から噴き出した、新しい世界の法則だ。



「はーぁ……やだなぁ、やだやだ」


 僕は戦闘なんて野蛮なことを可能な限りしたくはないし、武器とか持ってる奴危険人物だなって思うし基本的に嫌なことから逃げられるならどんどん逃げたいし代わってもらえるなら喜んで代わってもらうけれど、案外逃げられないことは多くて、そうなると嫌でも向き合うしかないのである。

 人が嫌がることを進んでしよう! 戦闘とは、要はそういう性格のねじくれ曲がったやり取りだ。心優しいと地元の皆からも評判の僕は何とも心が痛んでしまうが、しかしそういうものだからしょうがない。


 そして相手の選択肢を奪うことは、あらゆる敵対行動の基本だ。選択肢の数を減らして、選ばざるを得ない選択肢に飛びつかせたら、そこに悪辣な罠を張って待ち構える。



 ──そこにあるもの全部なくなったら、選択肢はより単純なものを選ばざるを得ないだろう?

 だから、世界ごと全部、剥ぎ取らせてもらっただけだ。


「ふー……!」


 息を絞りながら集中力を高める。

 ──相手の平静を奪い、こちらの調子に持ち込め。それが非力な者の戦い方だ。

 魔人との距離は五歩。要はいつでも僕を斬れる距離だ。

 だけど幸いどこかの危険人物のお陰で、剣で斬られるのには慣れている。いや幸いではないな。ダル絡み感覚で相手のこと斬り殺そうとする輩への対応に慣れるのは、一言で人生の悲哀である。



「斬れない剣は。飾られていればいい」



 ──石畳を踏み込む音。


 剣の切っ先に集中して技の起こりを観る。頭を狙った袈裟斬りだ。

 そうなれば後出しじゃんけんと同じ。どこを狙ってどう振られるか分かっていれば、そこに辿りつくように回避すればいいってだけだ。

 僕はこれで、鉄火場とかそこそこ慣れている。特に人間相手はね。長物を避けるのとかめちゃくちゃ慣れているのである。


 ──来る! 視えた!


 僕は振り下ろされる剣を避けようとして、あっさり額を砕かれた。





 頭の中心に抜けるような鋭い痛みが一瞬疾り、直後明かりを消したように視界が暗くなった。頭に重たさを感じるも痛みはすぐに曖昧になった。

 なるほど、脳が少し零れ落ちたのかもしれない。むやみやたらに理屈を並べ立てては何かにケチをつけてみせる賢しらぶった頭の中身が少し軽くなったとすれば、悪いことでもないだろう。



 ──だって、どんなにやっても死なないんだからね。

 僕はいつものように、なんにも面白くもないのにけらけら笑った。


「……なんでかな? 初対面なのに。きみを見ていると、少しイライラするんだ」


「そうです? いやー、よく言われますねー」


 目の前の騎士女は長剣を器用に使うけど、僕の眼にはどう動くか全部見えている。

 右斜めからの袈裟斬りから勢いを活かして身を翻し胴抜き。何とも素直な剣だ。剣の合理というか、一番気持ちよく振れるように振っている、みたいな感じ。

 要は、僕を見てないってコトだ。敵として認めていない。


 油断をしてくれているようで、僕としては大変に助かる。

 そういう相手の足元を何度も掬って転ばせてきたからね。


「死ねッ……!!」


 ……ま、避けられるわけではないけれど。

 肩口からばっさりいった。ここじゃなきゃ痛みと出血多量でそのままショック死だ。クソまずい薬草を食べる。繋がった。

 胴を横薙ぎにズバッとやられた。はらわたがはみ出そうになるが、臭くて汚いのでそこはなんとか手で抑える。薬草で治った。

 足を二本そのまま斬られた。大腿へ流れる血が噴き出すのは僕の意識を奪ってその場に倒れてしまう前に薬草もぐもぐ。

 心臓への刺突。こういう時どこかが致命傷とかって結構あるあるだけど、僕にとっては別に?壊れたら死ぬ器官のひとつでしかない。そして、ここでは壊れても死なないので薬草をかじるだけで回復するのだった。

 痛みに次ぐ痛み。斬られる度に全身を走る鋭く重い痛みに、余りに痛すぎて叫ぶこともできない。

 痛みを麻痺させる叫びは、しかし薬草が全身の感覚を取り戻すので全く意味がないのであり、僕は言葉を重ねることにするのだった。


 どれだけ頭をかち割られようと、首胴腕足を斬られようと、今この空間には死というものが存在しない。

 痛みはある。肉体に紐付いた感覚は消えない。

 だけどそれだけだ。


 痛みも恐怖も大嫌いだが。

 きっと僕は、世界で一番それに触れてきている。



「ってワケで。僕を細切れにしたところで無駄ですよー。僕の身体は燃費がいいんだ。薬草たった一切れを口に含むだけで、傷口だって全部塞がりますからね。


 んーまあ? 言ってしまえば、あんたと同じさ」



「一緒にするなよ、灰髪」



 綺麗なフルスイングで僕の首は血霞に変わった。

 変わった端から何事もなく再生した。









 舌がよく回る。

 何度も何度も、何度も何度も何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。

 僕の全身はズタズタになっているが、痛みの中でも僕は絶好調だった。



「さて──あんたの勝利条件は、一秒でも速くここを脱出することだ。あんたは誰かさんの元に行って、ロクでもないことをしようとしてる。それが、それだけがあんたの目標で、あんたの全身はそのために動いている。

 だけど? しかし? こうしている間にもどんどん可能性が閉じていく。あんたのご執心の誰かさんはクッッソ雑魚なんだろ?あーあーそれじゃあ第一層の花をうっかり踏んで頭が破裂するかもしれないしグロい死体どもに貪り喰われているかもですねえ? あーそれとも?探索だっていうのにアホみたいな靴履いてきてスッ転んで死んでるかもしれないなあ! アホ貴族どもには危機感ってのがないから困るよなぁ?いやーーーー可哀想に!このままじゃ間に合わない!あんたが遅いせいで間に合わないなんて! く、クク、きき、きひ、ひひヒはは!あんたは魔人で、圧倒的な力を持ってて。だけど、なーーーーーーんにも救えやしないのさ。助けたい人を救えない。自分自身の未練妄執を深めるだけ。何のための力だ? あんたの力とやらは、ここにいる僕ひとり何ともできないんだよ。笑えるよなぁ?笑っちまうよなあ! ほらどうした?笑えよ。

 さあ、さあ、さあさあさあさあ! さあどうしましょうどうします?死なない術者を何とか殺すかそれとも出口を探すか。選択肢はありますよぉー? どちらを選んだっていい。ま、僕は死なないしここは閉じきった世界だけど。ははっ、数億年くらいで見つかるかもなぁ?」



「……いい加減、そこ、どいてくれないかな?」


「やでーーーーーーーーーーーっす。

 人の嫌がることを進んでしろってね?」


 僕はけらけら笑った。

 ぴし、と。何かに亀裂が入る音が聞こえた気がした。


「あのさぁ? アーニャちゃんがさあ。可哀想だよねえ? かわいそうな子なんだよ。わたしはね、早く救ってあげなきゃいけないんだ。……わたしが死んで10年、きっとあの子は今だってバカみたいに剣を今を振ってる。だって、誰も何も言いやしないから。使えもしない剣を、才能のないブザマな剣を、何度も何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も……!!!!!

 それもこれも何もかも!誰もとどめを刺さないから!! そんなことだから、そんなことだからさぁ!! 無駄な努力だって、諦めろって諭すことができなかったから!! 

 だけどそんなアーニャちゃんが来てくれたんだ。せっかくここに来てくれたんだ。私の前に来てくれたんだ! あの子が!! ここに!!! お出迎えをしなきゃいけないんだ。わたしの希望なんだ! わたしには何も残せなかった! 嵐の王だって結局あいつに行った。名前だって、もうない。……わたしには何もないんだよ!!


 ──だからさああああっ!! 退けって言ってるだろおおおおおお!!」



「やる?」


「僕がやる」


 ぶった斬られながら。唐突に掛けられるメリーの酷くどうでもよさそうな声に、僕もまたどうでもよさそうに答えた。

 ()()()()程度でメリーを頼っていられない。上手いこと感情を煽り散らかして、ここまで全て僕の思惑通りなんだ。

 ここで思い違いがあるとしたら、思ったより全然攻撃が避けれないってことくらいだよ。


 目の前にいる魔人サマの未練や妄執なんてのは、僕としちゃ本当に心からどうでもいい。

 本当に全くどうでもいいことなんだが、なんだか少し腹が立った。


「イライラする……っ!!!」


 なるほど奇遇である。

 あんたが僕にイライラするのと同じくらい、僕だってイライラしているのだ。



「そろそろ終わりにしよう。僕の勝利条件は整った」


 余裕たっぷりに、僕はけらけら笑いながら語りかける。


「舐めるなよ、灰髪ィッ……!!」


 そんな僕を、僕より圧倒的強者の魔人様は仇のような目で睨みつけてくる。

 おー、こわいこわい。斬られてたの僕なんだけどなぁ?



「──ひとつ。あんたの剣に、僕の本命を斬らせないこと」


 小瓶をめちゃくちゃにぶちまけた理由は、ヤケになったとかずーーーーーーっと僕の頭上でやり合ってたのがムカついたとか、そういう短絡的なことではない。

 すべては《死の否定》という概念を斬られないためだ。

 この世界には根底にそれがあり、地層のように積み重なり折り重なって概念が存在する。


「僕はね、刀ひとつで概念すら斬ってくるような人を知っているんですよ。その鋭く迅い剣を知っている。

 ──どれだけやっても世界の法則を斬れないあんたより、ずっとおっかない」



 要するに、概念殺しの手札が切られるのを僕は待っていたのである。最初に首を斬らせたのだってそうだ。万が一にも、死の否定という概念は斬らせてはならない。

 ここまで煽って揺さぶって、それでも出さないってことは最初から存在しないんだろう。

 ……正直、能力を高く見積もりすぎたかな? 瓶、もっと出し惜しむべきだったかも。とはいえ、ミルクがそうであるように、零れた瓶の中身は今更戻せないんだけど。



「わたしより優れた剣なんて……、あるわけが──!?」


 言葉の途中で、魔人様はがくっと倒れる。

 驚愕の表情を浮かべている。そのツラが見たかったんだよ。


「ふたつ。──ああ、ようやく効果が出てきたようですね?」


 痛いのと怖いのが誰より何より嫌いな僕が、なんだって何度も何度も身体のアチコチぶった斬られるようなこと良しとしたのか。

 もちろん答えは時間稼ぎだ。

 瓶を開け放ったこの空間は、多くが曖昧だ。大気はない。温度もない。可視光は拡張されて紫外線やら電波やら宇宙からの色やら混ざる。どれだけ混ざっても脳は理解できないが負荷は掛かり続ける。今この瞬間も脳をがりがりとかき毟っている。

 要するに、ここは人間が生きられる領域じゃない。その上で何をやっても死ぬことはないという第一法則が絶対遵守される。


 だけど──いくら遵守されるからって、肉体にダメージがないわけじゃない。

 何が起きているか。理解できるかどうかなんて関係なく、容赦なく世界が襲いかかってくる。

 まあ、普通の人よりはよっぽど頑丈なようだけど。


「毒……か……!? わたっ、……しは、魔人だぞ……!」


「それが? 偉かったりします?」


 ここでやってることって、要は番犬だろ?

 だったら、偉くもなんともないじゃんね。



「概念は斬れないし、身体は行動不能になった。防御手段も回避手段も、今のあんたには存在しない。……これで準備が整った」


 僕の手の内には、蓋のない小瓶がある。

 万一にも中身が零れないように、僕の手で砕かない限りは詰まったモノは出ていかない。


 名前は《灰燼》。

 三年前に王都タイレリアの一区画を焼き尽くした、二度と開けないと思ってた瓶だ。





「──ここは、きみのための場所じゃない」




 三年前と同じ祈りを込めて、僕は右手の小瓶を握り潰した。



そうして世界の全てが灰へと変わる。


ガラスはキフィナスの掌に突き刺さり、ガラスごと手が灰に変わった。

目蓋も眼球も視神経もまた灰へと変わり果て、その光景を目にすることもない。



概念瓶・灰燼。その効果は単純だ。

キフィナスが燃やしたいと思ったモノを、その場で直ちに灰に変える。

死の否定以外の概念は全て灰になった。王都の遺構群も全て灰になった。敵対する魔人もまた灰になった。


炸裂の直前にキフィナスの奥歯が潰した薬草が、

 僕の身体を急速に組み治していく。

 周囲には灰色の大平原が広がっている。

 瓶の中の概念を焼いて、瓦礫のように積み重なった世界の破片ごと全て焼いて、今、悉くは灰と化した。



「王都を焼くのはこれで二度目だっけ。

 だけど、思ったよりなんてことないな」


 灰まみれになりながら僕は笑った。

 肺も喉も舌も唇も灰に塗れてるから、ひょっとしたら僕が思うよりずっと無様な笑いだったかもしれないけれど。

 そんな灰被りの僕は地面に積もった灰を掴んで、瓶の中へとぶち込んだ。


 無限に命がある相手をどうすればいいか?

 答えは簡単だ。動けなくするだけでいい。



「天才のあんたは知らないんだろうけど。……的外れな憐憫ほど、苛つくものはないんだよ」



 瓶に詰めて封をした灰の一山に向かって、僕はそんな言葉を吐き捨ててやった。

 僕は以前、アネットさんに徹底的にボコボコにされているのである。

 あのひとには、なんだか勝てる気がしないのだ。

 その辺の魔人なんかと違ってね。






 数ヶ月を予定している旧王都侵攻作戦開始からわずか半日で、10万人の参加者のうち2万人が死傷者として計上され、増え続けている。


 竜の燃える血によって焼き尽くされた灰の花畑を踏み越えて、どこか元の面影を残した遺骸が向かってくる。

 そして愛すべき彼らだったものからの抱擁を受け、圧搾される。


 遺骸は皆、自分たちが楽園、千年王都グラン・タイレルの中にいると信じて疑わない。

 彼らは歓待しているのだ。

 栄誉ある世界の中心、黄金の王都を訪ねた稀人たちを。


「来るなッ……! く、来るなっ!?」

「あ、あああ、あああああッッ!!」

「私を、私を帰せ! わ、私の家は伯爵だぞ!? このような、悍ましい化け物が、愚物が、私がああああ!」


 攻略は遅々として進んでいない。

 第一層を拠点とするという計画は、遺骸たちの物量によって阻まれていた。



「面倒なことをしてくれるな……!」


 最前線のレスターは、大きく舌打ちをした。

 作戦の進行速度の遅滞ではない。

 倒れ伏した者たちが、首や臓腑を裂かれてもなお生きていることに、苛立ちを覚えていた。



 どれだけ傷ついても、壊れても、死亡という現象が発生しない。《死の否定》の効力──メリスの小さな掌の内にある。


 ──勿論、絶命に至る痛みや恐怖はその魂に刻まれ、決して消えることはない。

 彼らは自分を死したものと認識し、意識を逸している。


 だが、レスターからすれば、こいつらの大半は死んでくれないと困る。

 生きているとコストが掛かるのだ。


 王国の食料自給率は決して高くはない。そのくせ高貴な血の豪奢な生活環境を少しでも損なえば王家への心が離れる。レスターには政治学はわからないが、人間の習性はよく知っていた。

 更に言えば、囀るだけの宮廷雀どもの現実と希望的観測をはき違えた計画が大成功の内に終わることも害毒に過ぎる。

 雀どもの囀りを真に受けて遠征に来た連中を残しておくくらいなら殺して頭をすげ替えた方が賢明だろう。


(困った奴だ。食料問題・移民問題はお前の迷宮都市でも発生することだろうに)


 あの気難しい友人の斥候としての腕は信頼しているつもりだが、メリスの力をここまで大規模に使うことは想定していなかった。



 そう。S級冒険者のレスターは想定していなかったのである。


「あ、ああ、あああっ!? 今、何が! 何がっ!!」

「見えるっ、見える見える見える見える! は、はは、はははははははは!!」

「寒い……寒くない……寒い……寒くない……」

「立て……、ない……? あ、ああ、あああああ、あし、あしし、あし」



 瓶の余波の災厄が、こちらに降り懸かってくることを。







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