キー・イングリーディエント
地階の暗闇に小さな一本の明かりが灯る。
弱々しい炎は闇の陰翳を強調し、影をより黒く染めた。
「──ありがとう。面白かったよ。同等の文化を共有し、同程度の能力を持ち、同質の価値観を築き上げても、ヒトの人生、その語り口はそれぞれ個性的だ。キミの胸の火は燻っている。非人道的な所業に心を痛める良識を持ち合わせながら、真理のためにその感情に蓋をした。二つの天秤は知的好奇心という非人道に大きく傾きながら、まだ均衡を保とうと揺らめいている」
学士ラスティ・スコラウスの語りは、超越者と対面していることの緊張から小声かつ早口で時折言葉に詰まる極めて聞き苦しいものだった。だが、弁舌の巧拙はクロイシャの関心にはない。
あるいは、ラスティが血縁者にスキル《鑑定》を持つ裕福な家庭に育ち、鑑定士ギルドで高度な教育を受け、同じく裕福な家の子弟に一般教養を教える傍らダンジョン学という道楽に興じるようになった粗筋にも関心は薄い。
彼女の関心は、そこから推し量れる価値観にある。葛藤にある。感情にこそある。
「この世界の人間の多くには、世界から祝福されざる灰の髪への生理的嫌悪がある。それは社会的排斥へと繋がり、貴き血に生まれた者であれどもその出生を認められないほどだ。
しかしキミは、ただ多くを知るという一点によって、そのような属性を持つ相手を尊敬するに至った。彼が業を重ねる光景を目撃しても尚、その念が拭われることはなかった。それは、なかなか特異なパーソナリティと言えるだろう」
「……当方は、罪深いですか?」
「いいや。キミを批判する意図はないよ。ボクはただ、開示されたラスティ・スコラウスという人間の構成要素を並べてみただけだ。罪過を咎める権利は、その時代を生きる者のみが持って然るべきだからね。感情の余熱を利息として掠める魔人には、凡そ権利はないだろう。
それに、他者の生命を冒涜するという行いはそう特別なことではない。あらゆる生命は、熱量を保つために何かを害さずにはいられないのだからね」
クロイシャの言葉に、しかしラスティの表情は晴れない。
その姿を見て、クロイシャは笑みを深めた。
「ああ──だからこそ面白い。ボクら魔人は葛藤と矛盾を抱えない。目的以外のモノにはさして意識を向けないんだ。重要でないと、優先順位を付けられてしまう。
一方で、キミたちは多くを思い悩む。葛藤する。そして決断する。心に蕘を焼べ、それを燃料として進もうとする。その瞬間の熱量は、蕩けてしまいそうなほどに高いんだ」
だから、秘密を教えてあげよう。
キミの心の何かを焼べるために。
クロイシャは愉快そうに囁いた。
「まずはキミの関心から──この国で学術研究がなぜ立ち後れているか、かな? 自己弁護ではないけれど、それは何も、統治者による事前事後の検閲だけが原因ではない。公証文庫に一度記録された文書は、改竄も破棄も決して許されないよう10万と2504の魔術によって保護される。タイレルに生きる人々の知的活動の全てを記録することを目的としたかの機構から、学術研究という分野はあるいは恩恵を受けることもできた。自らの立場を危険に曝して後世に暗号を遺すことは十分に可能だった。実際のところは、この星の歴史から見ればかなり恵まれた環境に置かれていたんだよ。
だから、できなかったんじゃない。しなかったんだ」
永い時を生きた魔人は、暗闇の中で滔々と語る。
「実際のところは、ごく一部の外れた天才を除いて、知的活動が停滞していたというだけなんだよ。この国の教育制度は未整備だ。それは、生得のスキルや身分制度が定める個人毎の役割を全うさせるという為政者の計画性に因るところがある。しかし、科学とは発想から生まれるからね。計画段階に無いものは、どのような発見であろうと計画に利するものでなければ路傍の石のように扱われる。
そして、学術研究そのものに機能するスキルが存在しないこともまた、技術が停滞した大きな要因だろうね。《算術》や《言語理解》《机上事務》などのスキルは、使用者には途中式を介さず答えだけを寄越す。生まれつき便利なツールを肌身離さず持っているのに、そのツールに頼らない手順を開拓する必要はないだろう?
ヒトは、認知の網の目の中で生きている。
この世界……ラーグにおいては、スキルという生得的能力がキミたちの認知に大きな影響を与えているんだ。《鑑定》持ちの家系のキミには、よくわかるんじゃないかな。
鑑定スキルで得られる情報から、ヒトは知識の系統樹をダンジョン学という枝葉に伸ばし、しかしそれ以上を生み出さなかった。新しい素材とその利用法のページは歴史を通じて厚くなったけど、それは博物学の範囲を越えない程度だね」
いつの間にか虚空から浮き出ていた二組のティーセットから白い湯気が立ち上る。
注がれている深紅の液体からは、どこか鉄錆の臭いがする。
カップを口に含んだクロイシャの白い喉がこくりと鳴った。
「さて。そのような環境で、キミは意欲的に活動している。あのムーンストーン君の目を惹いた、哲学的で、意欲的な誤りを大きく含んだ論文──世界空洞説を唱えた。
言うなれば……、く、くくっ。ボクら魔人は地底人ということになるのかな?」
「い、いえ……、拙稿を書いた時分には、まだあなた方のような存在を当方は知らず……」
「いやいや。すまないね。これは、キミの発想を貶めるわけじゃないんだ。むしろ、なかなか的を射たものだと思うよ? ああそういえば。ラスティ君は、ムーンストーン君からどこまで聞いているのかな。キミたちがボクらという種をどのような語で表現するのか、単純に興味がある」
「こ……、この世界の、影の支配者と」
「……うん? そうか。それは否定させて貰いたいところだけど……そうなんだ。多くを知る立場の彼すら、ボクらをそのように見てたのか……」
クロイシャは苦笑し、指を鳴らした。
「では紹介しよう。ボクの旧い知り合いのロマーニカだ。彼女もまた、迷宮の最下部で発生した真性の魔人だよ」
「おい貴様。余を下郎の前に出すでないわ。そやつも貴様の低俗な趣味の客なのじゃろう?」
闇に溶ける黒紫のドレスを着た少女が、いつの間にか椅子の上で小さな体を横たえていた。
その胴体に四肢はなく、片目は眼帯で覆われている。
少女は、気だるげな表情でクロイシャたちを睨み上げた。
「さて──こいつのように矮小な存在でも、魔人という種族なのは確かだ。今のロマーニカの肉体は、戦闘経験のない一般人のラスティ君でも簡単に殺せる。やってみるかい?」
「い、いえ……」
「ッ戯けが! 今の余には殺す価値もないとッ!? 吐息で骨まで朽ちるが──」
「おっと。退場だロマーニカ」
クロイシャが指を鳴らすと、影に溶けていった。
「……まったく。これだから誰かに会わせられないんだ。自身の本質に対して正直すぎるね、それを羨ましく感じることもあるけれど。
さて──魔人の力も、その気質も、極めて個体差が激しい。ボクのように社会に溶け込める気質のモノもいれば、社会には迎合し得ないモノもいる。ロマーニカは後者だが、今は能力が伴っていない。せいぜい噛みつくくらいしかできないね。
あれは、現生人類に恩恵を与える存在という根本のルールをすぐ侵犯しようとするんだ。だから地下に押し込まれていた。《命名》の権能で、どうにか犠牲者を増やそうとしていたが……自らの居城を蟲の巣穴と称することには、形振り構っていないというか……もはや何かの倒錯性すら感じるところがあるね。
ともあれ、そんな彼女も魔人だ。排外主義という願望を抱き、それを充足させようとする。ロマーニカにとってあまねく知的生命体、そのすべてが部外者なんだよ。そして、ボクらは概ね彼女と同じ、部外者だ。
死者が坐す玉座は凍てつき、その霜は生者の熱を奪うことになるだろう」
だから、我々は決して支配者であってはならない。
クロイシャは静かに語る。
「知的生命体の想像力には、空想の世界を実在させる強度がある。そして、経済活動とはその最たるものだ。ボクは、その空想にしがみついているに過ぎないんだよ」
「空想、ですか?」
「そうとも。人々が貨幣に価値を認めるのは、畢竟、それに価値があるという認識を人々が共有している以上の理由はない。非常に強度が高いのさ。
そしてこの現生世界は、そんな強度が高いヒトの空想によって多くを補われている。
想念が物理法則に優越する。この世界の人々がそう思うのならば、物は空に落ち、水は100℃で凍る。そしてスキルというパッケージで、超常に再現性を成立させた。自己弁護ではなけれど、この法則に比べれば経済活動の想念は些事だ。
そう──灰の大地を、ヒトの想念が覆っているのさ。
それがこの世界にかけられた《キキの魔法》であり、ボクら魔人はその副産物だ。この身は世界に属するものであり、人工魔人計画とは即ち、ヒトが世界と接続する試みである。ヒトの自我が、世界に打ち勝つ儀礼である。だから──ボクは彼らがそれなりに好きなんだ。パトロンになってあげる程度にはね」
クロイシャはラスティの反応を眺めながら、言葉を続けた。
「魔人には、世界により色の名前を持たされる。ヒトの認知は、世界という大きなモノに対して、概念を用いて分解することで解像度を高めるものだからね。そのうち、色とは最も原始的なものだ。
例えば……そうだね、《葡萄酒色》の話をしよう。キミはこの言葉を聞いて、血のような……、黒みがかった赤色を思い浮かべるはずだ。
しかし異文化では、海の色として、この葡萄酒色という語は用いられた。2000年残るほど豊かな文化を確立していながら、青を示す単語がこの文化圏には存在しなかったんだ。だから、その文化圏においては、虹の帯も三つの色で表現された。
語彙が広がるたびに、ヒトは世界をより精緻に描くことができるようになる。ボクらに持たされている命名という権能。その目的は、世界を分類し、整理し、現生人類の生活環境を整えることにある」
「……具体的には?」
「薬草という名前によって。ただ繁殖力が高いだけの草に薬効を与えたり、かな。キミたちは『この草には体力を回復するという効能がある』と認識し、それが薬草の効果を支えている。
言ってしまえば《鑑定》とは、ボクらの自由帳を覗き見る行為に近しい」
まるで諧謔味というものがないから、薬草という名はあまり好きではないんだけどね。
己は影の支配者ではないと嘯きながら、クロイシャはそう言って笑った。
「質問はあるかな? キミの知りたいことも、知らないことも、知りたくもないことも、ボクの知る限りを答えよう。
お代は要らないよ。商人として、一見さんにはサービスをするべきだからね」
・・・
・・
・
「諦観は心の火を消す。差別と偏見を向けられる者は諦めることが上手くなり、その心にまで灰を降らし埋めてしまう。その中でムーンストーン君の狂熱は、なかなか味わい深いものだった。
結局、彼は何も為せなかったようだけれど──なに、多くの人生は未完結に唐突に終わるか、さもなければ小さな冒険と長い蛇足だ」
鬼灯のような灯火が宙に浮かび、ぱちと音を立てて消えた。
「ラスティ君が後継の座に収まるのなら、不良債権の回収を考えてもよさそうかな。ボクの話を聞いて、彼はいったい何を思ったのだろう? 懊悩を抱えた彼は、最期の日に一体どれだけの熱を齎してくれるのだろう」
クロイシャは、明日に期待する。
無責任に。無思慮に。無分別に。
「ああ──楽しみだなぁ」
彼女はヒトではなかった。
さて、ロールレア家への往路。
なんだかしばらくぶりに出勤するような感覚だけど、通勤時点でステラ様とシアさんが一緒なわけです。
なんで?
「……何か。問題がありますか?」
「は? シアさんわかってるでしょ問題だらけだって。何言ってんですか?先行くなり後から来るなりしてくださいよ。僕と一緒で問題ないことないわけないのわかりますよね頭いーんですから」
「……比較考量の結果、利が大きいものと判断しました」
何をどう比較したんですかねぇー? いやもう、正直屋敷帰ってくださいって気持ちがあるよ。何なら何度もそう言ったよ。朝食の時も言ったし。インちゃんも割と同意してくれたし。多分この後執務室でも言うし夕食でも言うし明日も明後日も言う。
まあ暗殺対策とか言われると(主にステラ様が勝手に封建制蹴っ飛ばす発言したせいで)確かにまあ、利が無くはないんだけどさ。
いやでも、よりにもよって朝イチで大通りから屋敷に参る必要はないと思うんですよ。いやもう、ステラ様は手ぇ引っ張ってくるしメリーは背中を押してきて痛い痛い痛いし。これ背骨バキバキになるんだけど?「ならない」なるよ?
僕らのことすごい見てるし……そりゃ目立つよなぁ……。髪の毛また染めようかな……。
「だめ」
「そうね。緑の髪墨よりも似合ってると思うわよ」
魔力持ってないからそりゃ似合わないでしょうけどね。
「そめなくてよい。なら、そめなくてよい」
その同語反復すごくアホっぽいからやめた方がいいよ。
ああもう、メリーが止めるならしょうがないな……。
僕はため息を吐いた。
「あの家令がステラ様を洗脳したんだ……」
「尊敬できる先輩方を追放したのは……」
「あの追放劇で一番得をしたのは……」
そりゃこうなるよ。
ぶっちゃけ否定できないとこあるしさ。
「ちょっと、あなたたち……!」
「あーステラ様。仕事溜まってますのでー。今から執務室にカンヅメですよー」
偽オーム様に調教を受けた新制家臣団の皆さんは忠誠心に溢れていて誰も彼もとても素晴らしい顔つきだった。もうぜんっぜん会話が通じない感じ? 見ただけであっ意志疎通は無理だなってなるようなの。もうそんな感じ。
僕を睨む人たちの視線をひらひらと躱しながら執務室まで急ぐ。
はーー針のむしろ。慣れてるけど。
あ、ビリーさんだ。ビリーさんはそういう顔をしてない。よかった。
ちょっといいですか?
「何か」
「部下の裁量権あげます。僕もう命令とか無理なんでビリーさんの判断でうまいことやってください。あと執務室に自由に立ち入っていいですよ」
「キフィナス氏……。突然そんなことを……よいのですか、お館様?」
「いいわ。あなたのことは既に聞いています。二心があることを咎めるほど狭量じゃな──」
「っっっ愛っっっっ! ぁ愛がっ!! 溢れておりますねっっ!!!」
横合いからうるっせえのが僕に向かって飛び込んできた。
僕は壁にぶつかりそうになって咄嗟に受け身を取った。
なお受け身を取ろうが痛いものは痛い。腕ガンってなったし。メリーほどじゃないけどアイリーンさんも大概馬鹿力の持ち主だ。
「愛のひと! あなたさまのっ!! お力なのですねえっっ!!!」
相変わらずパーソナルスペースって概念が存在しねえなこの人は……!
僕を抱きしめて僕の顔に鼻くっつけて叫ぶのやめてほしい。耳キーンってなるしほんと近すぎだから。はなれて。
「あの男っ、アイリまで手なずけてっ……!」
「くず……!!」
使用人たちの陰口が否応なしに聞こえてくる。
人間関係が拗れているのを感じてならない。
面白げなメリーの視線を見て抓ってやろうかと思ったが、残念ながら僕の両手は拘束されていた。
「世界の合言葉はっ! 愛っっ!!」
あーーもう。あーーーーもう。あーーーーーーー……。
一連の茶番劇を終えて、僕の使用人ライフは明らかにハードモードに突入している。




