日常は滞りなく
あれから二日が過ぎた。
ロールレア家の日常は、滞りなく継続している。
「……次ですね。こちらは……ルクロウ領から。到着が遅れる、との報が届いているようです。こちらに」
「印章に込められた魔力の量ひっどいわねー、これ。私たち、ずいぶん舐められてるみたい。紙の質も低いし。これでも迷宮伯よ? バロメッツ皮とは言わないまでも、せめてもう少しちゃんとした紙があるでしょう」
「……倹約を旨とする運営方針なのかもしれませんが」
「倹約が必要な家じゃないわよ。歴史の浅い男爵領って言ったら、そこらの貴族よりよほど裕福なのだわ。じゃなきゃ、陛下から爵位を賜れないもの」
「……ええ、そうですね。貴族の礼節を弁えない、度を超えた倹約は、吝嗇でしかありません」
お二人は、いつものように公務をしている。今日も今日とて忙しい。
今日の僕は休日を返上して出勤しているけど、ここ二日間、様子はいつもと変わりがないように見える。
……どんな悲しみを抱えても、無関係に日常は続く。日常の忙しさに呑まれ、悲しみに足を止めている時間はない。
人間社会がなぜ忙しいのかといえば、悲しみや苦しみを正面から受け止める暇を作らないためなのだろうと、僕は思う。
「……では、次。当家で管理する土地の用途について。遊ばせておくより、貸し与えた方がよいかと存じます」
「ダンジョンが生成された場合の権利をどうするかよね──」
僕はお二人の会議を聞き流しつつ、今し方話題に上がってたナメた文書送ってきやがった男爵様宛のお返事を書いている。こういった手紙について、家臣に代筆させることはそう珍しいことじゃない。
ただし、署名は僕の名前にする──すなわち『あんたの領地に対応するのは領主ではなく一家臣レベルでーす』と表現するのは忘れない。
地獄に堕ちろ……っと。よしよし。できたできた。
「……キフィ。その対応は過剰です。書き直してください」
あらら。
シア様からリテイクが出た。
「舐められたからにはこちらも相応の態度を取ってもよいのでは?」
「そのあたり冒険者思考よね、あなた」
「違いますよ。僕は単に──あー、いえ。何でもないです」
これだけ頑張ってる二人をバカにされて腹立った、とか。……真顔で言うにはちょっと恥ずかしい。
まあそれに、相手方にムキになってるって取られるのも癪だな。あまり冷静とは言えなかった。僕は自分の名前に訂正線を引いて、ステラ様の長ったらしい名前を書いて──おっといけない。紙をぐしゃぐしゃに丸めて新しい紙に書き直した。
ついいつもの調子でやってしまったけど、訂正線が書かれてるものを送るわけにもいかない。というか、そういった不備がないように代筆をさせているわけで。
からかうにしても、相手と時と場合くらいは選ばないといけない。
「ところで。ばりばり働いてくれてるけど、今日はお休みよね。キフィナスさん」
「そうでしたっけ? いやぁ、覚えてないですね」
「……薄氷よりも薄い嘘ですね、キフィ。労働条件にいくつも注文を付けていたおまえが、自分の休みを忘れますか? ……いえ忘れそうですね」
「そうなんですよ。うっかり忘れちゃって」
「じゃあ、今から休んでもらってもいいわよ? そりゃあ、私もシアもあなたがいると助かるけど……、普段のあなたに戻ってくれた方がいいわ。なんだか、その、……ちょっときもちわるいし」
ステラ様は遠慮がちに言った。
僕は真面目だときもちがわるいらしい。ひどくない? ねえ、メリー。
「ん。きふぃは。いつも。いかなるときも。かこいい。かわいい」
うーん、賞賛の言葉が欲しかったわけじゃないんだけどね。抱きついてくるメリーの、その小さな鼻先を、抗議の意味を込めて僕は人差し指でくるっとくすぐった。
「ほーら。帰る支度していいわよ。大好きな妹さんと存分にいちゃつけばいいのだわ。
……私たちは大丈夫だから。ね?」
「……はい。おまえに心配されずとも、私たちは大丈夫です」
……そこで『大丈夫』とか言うから、気になって仕方ないんだけどな。
ただまあ──やせ我慢をする人の気持ちは、僕にも、ある程度は理解できないこともない。
見て見ぬフリをして、限界のぎりぎり手前で、何も言わずに肩を貸そう。
そう決意しながら、僕は執務室を出た。
「あっ愛の人っ! おはようご愛ます!」
「ふざけた挨拶やめてくれませんか」
「なんじ三日愛わざれば刮目して見るべしっ! まさか、雇い主様たちの愛があれほど高まるとは思いませんでした!」
「アイリーンさんは何を見てるんですかね」
「むろん──愛です! わたくしは、人の愛を見ています! そして、わたくしのことはどうかアイリと! 親しみと愛を込めてお呼びくださいませ♪」
洗濯物と格闘しているアイリーンさんに絡まれた。
相変わらず元気な人だ。また洗濯物破いてるし。
雇い主様……愛が高まった、か。
そうかな。僕は、付き合わせてしまったことを後悔している。
僕がご機嫌取りのために連れてくなんて浅はかな考えをしなければ、別れるためだけの出逢いを経験することもなかった。ただ傷つくことなんてなかった。
「いいえ。『ただ傷つく』だけ、なんてことはありません。愛が、あります。傷を癒した人は、誰かにやさしくなれます。愛です!」
「そんな人ばかりじゃないと思いますよ」
「そんなひとばかりではないからこそ、なのです。傷だらけで、それでも誰かにやさしくできる人は愛が深いのです。……でなければ、なぜ人は傷つくというのでしょう?
きっと、そこには生を豊かにする意味があるのです。そうあってほしいと、わたくしは願います」
「……そうですか。そうですね」
救貧院で、棄民の子たち──傷を抱えた子どもたちと暮らすアイリーンさんの言葉には、深い慈しみがあった。
「……もしも。あなたが一緒だったら、何か変わっていたのかな」
「?」
「いえ。何でもありません」
思わず、そんな言葉を呟いていた。
……僕には、出逢ったばかりの他人に──それもダンジョン内部の魔人に──分け与える優しさは持ち合わせていなかった。
彼女の救いに、僕はいっさい協力していない。
自分が決めた選択と、その結果。
選択の責任は自分に帰すものだ。
もしもを考えてもしょうがない。
わかっているつもりだけど、どうしようもなく、もしもが気になった。
「わたくしには、あなたさまが何をおっしゃりたいのかは分かりかねます。けれど……きっと、そこに愛はありましたよ。
だって──みなさま、愛に溢れていらっしゃいますから♪」
アイリーンさんはそう言って、見とれそうなほど綺麗な笑顔をした。
──僕は休むけど、彼女がいれば大丈夫かなと。
破れて地面に落ちてるシャツを見て見ぬフリをしながら、僕はそんな無根拠なことを思った。
・・・
・・
・
さて。
僕はきゅうきゅう抱きついてくるメリーを連れて、街をアテもなく歩いていた。
メリーはいつの間にか機嫌を直してた。具体的な違いはといえば、僕がふわふわの髪を撫でようとしてもイヤイヤをしない。あと、目を逸らさないでじーっと見つめてくる。
機嫌が悪くても抱きついてはくるし、最終的には撫でさせてくれるけど、幼なじみが機嫌がいいに越したことはない。いつも笑顔……は難しいけど、ご機嫌でいてほしいとは思っている。その方が周囲も安全だしね。
僕が髪を撫でると、メリーは目をほんの少し細めた。
「休みとはいえ……、まあ、色々見ておいた方がいいよね。どうせやることもないんだし。銀時計の手入れの時間は多めに取れるけど……」
迷宮都市は人の出入りが激しい。ダンジョンで一攫千金を求める者や、そいつらを相手に商売する者、それから研究拠点の前線としてやってくる者。トラブルは絶えない。
そういった事情から、迷宮都市デロルの憲兵隊は優秀だ。
ただし、彼らにも解決できないことはある。たとえば、問題が起きた後にそれを収めることはできても、事前に問題の芽を摘むことはできない。人々の生活の自由を尊重するとはそういうことで、この方針はステラ様が領主になって以降も続くだろう。
憲兵の目が届かないところはいくらでもある。個人の自由は最大限に尊重されるべきだと僕は思うけど、一方で悲劇を未然に防げるなら防ぐべきだとも思う。
だから、礼服を脱いで革鎧を着て、冒険者って立場に縋るしかないただの灰髪の男として街を見回っている。
たとえば、通りの露天商。危険な禁制品を取り扱ってたりすることもある。というか王都では割と見かけた。なにせ、すぐに行方を眩ますことができるわけだからね。無許可営業も、多すぎるのとそれしかできない人の存在で実質取り締まりはないと言っていい。
シア様は露店の営業許可を取りやすくしようと考えているみたいだけど、こういった悪意とどう向き合うのかは考えなくちゃいけないよなぁ……。
あ、なんかインちゃんが喜びそうな花のポプリがある。買っとこ。……うん。内容に怪しいものはないな。
──道行く人の視線をするっと抜けつつ、僕は街中を回る。
僕の姿格好と、ロールレア家の新家令とが結びついている人はそう多くない。表立って演説とかしてるわけじゃないしね。そして、それは僕にとって都合がいい。
僕はメリーをなだめるように撫でつつ──裏通りに、マントを頭から被った、不審な人影を見つけた。
「──っ!」
人影は僕を一瞥すると、裏通りの奥へと駆け出した。
──何者かはわからない。けど、事情を聞く必要はあるだろう。
……幸い、人影は速度を出していない。僕でも追いつける程度の、何やら周囲に気を遣ってる感じの走りだ。
「メリー。ちょっと、走る」
「べつに。はしらなくて。よい」
「そういうわけにはいかないよ。僕はこれで、この街に愛着がないこともないんだ。ずっとここで暮らしてもいいかな、って考える程度にね」
僕は手をもごもごさせるメリーを降ろし、人影に向かって走る。
「なッ──なんで追ってくるんだよぅ……!」
……ん?
なんかこの声聞き覚えあるな。高い声の、多分……女の子?
いやでも、暫定不審者だ。僕が聞き覚えあるということがそのまま善人であることを意味しない。
僕は走る。相手は逃げる。
走る。逃げる。走る。走る。逃げる。……ええと、魔道具魔道具……、あーダメだ、走りながらじゃ取れない。
走る。走る。疲れたけど走る。というか……そろそろ息が上がる! 灰髪が身体能力で他人に勝てるわけがない。……ああもう、らしくないな、僕! いつもならこんなまっすぐ、何も考えずに追いかけたりしないのに!
「早く諦めてくれないかなキフィな──ひゃっ!?」
──ばさばさ、と大きな音を立てて、人影が荷物をばらまいた。あれは……本?
まあいいや。何にせよ今がチャンスだ。
僕は一気に距離を詰め──。
「わ、わ、わ゛ーっ! こ、来ないでキフィナスくんっ!!」
「ですから、そういうわけに……ん?」
あれ? アネットさん?
なんでそんないかにも不審者な格好を。
落とした荷物は──。
「あっだめキフィナスくんそれ見ないで見ちゃダメだからぁっ──!」
「……えーと『見習い騎士の禁じられた恋っ! ~あまあまらぶらぶ騎士訓練 わたし、悪者なんかに負けません~』……?」
……えーと?
なにこれ。
時刻は少し遡る。
「……メリス。ひとつ、伝えたいことが。
…………いつまでも拗ねたふりを続けていると、仲直りが大変かと」
シアは、キフィナスに聞こえないよう、注意深くメリスの耳元で囁いた。
「……。ん。しあ。いつか。おれいする」
「……いえ。私の経験からの忠告ですので、お気になさらず」




