エピローグ・日向の名残雪
わたしの人生は、祝いと共にありました。
優しい人たちに囲まれて、淡い雪ともてはやされて。
わたしの人生は、呪いの後に終えました。
優しい人たちは皆斃れて、淡い雪と呼ぶ声も絶えて。
わたくしの第二の生は、泥まみれの残雪のようでした。
あの日と同じ街並みなのに、わたくしには、それが墓標にしか見えません。
大好きな景色を眺めるたび、そこに住んでいたひと、ひとりひとりの顔が浮かびます。
眠るような表情のまま、腐り落ちて骸になるまでの顔が浮かぶのです。
朝も夜もない空。眠れない躯。呼吸もまばたきも、人間のまねごと。
いつも、胸のうちにそれがありました。
そんな日々がどれだけ続いていたのか、自分にもわかりません。長かったような気もしますし、短かったような気もします。
思うことは、ただひとつ。
この身が雪だというのなら。どうして、わたしは溶けずに残ってしまったのでしょうか?
わたしは知りませんでした。
彼から貰った妙薬が、祝福の薬と称したそれが、猛毒であったことを。
でも、なんとなく、わたしは知っていました。
わたしの周りにいる人たちは、みんな、いつかおかしくなってしまうからです。
わたしのためにと努力して、努力して努力して、努力して努力して努力して、努力して努力して努力して努力して努力して──いつか、おかしくなってしまうのです。
徳には禄を、罪には罰を。わたしの周りにいた、徳を重ねてきたひとは、最期には罰を受けるべき罪人になりました。
だから、眠るように穏やかな顔で、民がひとりまたひとりと斃れていく姿を見ても、わたしは驚きを感じませんでした。
ああ、やっぱりなと。そう思いました。
そうして、誰もいなくなってから、わたしも毒杯を呷りました。
おしりが痛くなりそうな座り心地の玉座に腰かけながら、ひといきに。
痛みも苦しみもなかったのでよかったな、と思いました。
わたしはそういう人間でした。
人のきもちが分かりません。真面目であればよいと思っていました。善性があれば、きっとすべて上手くゆくと思ってました。
わたくしも、そういう魔人なのでしょう。
人のきもちは、わかりません。真面目だけではいけませんでした。善性などという言葉も、本当のところはわかりません。
わかっていることは、自分が、狂わせてしまったということだけ。
それなのに。わかっているのに。
わたくしは、わたしは、尋ねてきた彼らに『お友達になってほしい』などと口にしてしまったのです。
あいまいな心で、ぼんやりと。
狂わせてしまうとわかっているのに。
赦されないのは、わかっているのに。
「……私たちの住まう、タイレル王国の領主には、それぞれ独立した権限があります。領地内の立法権、裁判権、行政権、徴税権……、これらは、領主に与えられた権利なのです」
「そう。つまり──私たちが、あなたを裁いたのだわ! 無罪っ!」
「……もっとも、それはこの領地内での話であり、犯罪者の取り扱いは王都での決定が優越する部分もありますが……」
「んもう。そんな細かい補足はいいでしょ、シア」
……ステラたちは、なにを言っているのでしょう?
わたしの罪は──絶対に、赦されてはいけないのに。
それに、罪状を調べることもなく、無罪なんておかしいです。
わたしのせいで、もうおかしくなってしまったのでしょうか。
「誰のせいって言うなら……たぶん、どこかの、事あるごとに前科をほのめかす誰かのせいね。まったくミステリアスなのだわ」
「……ミステリアスではなく。経歴不詳の不審人物と呼ぶのです」
「そうね、それホントにその通りね。でも、私もシアも彼のことは信頼してる。
大事なのは『昔何をしたか』より、『今何をしているか』だって、私は思うの」
……でも、ステラはわたしが何をしたのかを知らないから、そんなことが言えるのです。
最初からわかっていました。
わたしは、お友達など望んではいけなかったのです。
こんな罪人とは、人間から離れてしまった魔人とは、釣り合いが取れないのです。
「釣り合いなんて、そんなことない。誰かとお友達になるときに、相手を値踏みするようなこと考えないわ。
私にだって、朝起きられないー、とか。お掃除できないー、とか。欠点は沢山あるのだもの。そゆとこで減点つけていくなら、私はたぶんダメダメになるわよ?」
「……理解しているのであれば、改善してください、姉さま」
「『理解してること』と『治すために頑張ろうとすること』の間には大きな壁があるの。お姉ちゃんはシアって頼れる妹がいるので任せたいと思います。
というワケで。釣り合ってなきゃいけない──なんてコトはないと思うわ。私よりシアの方がずっと立派な、どこに出しても恥ずかしくない自慢の妹だけど、私は隣に立っている。そこに後ろめたさなんてないのだわ。
それに、釣り合いがとれなきゃダメって言うなら。頼ってもいいなって思えるような、自分よりもすごい相手と肩を並べるなんてコト、いつまで経ってもできないじゃない。そんなの、嫌だわ」
「……姉さまも、欠点以上に立派な方です。釣り合いというのなら、私の方が取れていません。
ですが、姉さまから離れようなど、一度として考えたことはありません。支えたいという想いは、今もなお変わりません」
ステラも、シアも、わたしを慰めるような言葉をかけてくれます。
ですが、そのたびに、わたしの中で、わたしを否定する声は大きくなるのです。
「でも、わたしは……」
「……いいですか、カティア。私は、あなたに友人になりたいと言われて、嬉しいと思ったのです。
これまで、私には友人と呼べる者はいなかったのです。迷宮伯の惣領娘の予備。それが私でした。それでよい、と思っていました。
……ですが、私は、私として、ひとりのシアとして生きたいと思えるようになりました。
あなたは、そんな私にお友達と言ってくれた、はじめての人です」
おともだち。
わたし■■■■■は──わたくしスノーホワイトとして、降りてきた彼女たちにそんな言葉を掛けました。
「シアには後で話があるけど……こうやって、対等な立場でお話できる相手って、あまりいなかったのは私も同じよ。ルーナも、ムマも、ヘイルも……大好きだったあの人たちも、身分の差を弁えた上での親しさをくれていた。自分は使用人の子って立場を崩しはしなかったし、そこに打算があるのは感じてたわ。……アネットお姉だって、憲兵になってからは、憲兵隊のアネットって立場を崩そうとしないし。
それを寂しいと思うこと自体、傲慢だってわかってるけど……やっぱり、寂しいのよね。
カティアも、そうじゃなかった?」
ですが、思えば。
わたしの生涯に。
お友達と呼べるひとは、いませんでした。
ステラの言うとおり、わたしを見る目には、魔力の無い者に対する蔑視と、公国の姫という立場に対する畏敬が混ざっていました。
町に出て、誰ととお話をしても。その目は、いつも、いつでも、影のようにくっついていたのです。
影から逃げるように、この街を隅々まで見て回って、みんなとお話をして。
誰からも愛される姫さまと呼ばれて、お父さまやお母さまからも褒められて。
それでも、影を振り払うことはできませんでした。
──ああ、思い出しました。
わたしは、世界でひとりきりだと思っていたのです。
……そして、わたしは気づきました。
「なんて、なんて賎しいのでしょう。……わたしは、わたくしは、打算で声を掛けました。あなたたちを値踏みしました。
ごめんなさい、ステラ。ごめんなさい、シア。ごめんなさい、キフィナス。そして、その隣の、こわい女の子。
……わたしは、ただあなたたちが、不吉なる灰の髪を連れているのに、厭な顔を見せていなかったから、わたしでもいいんじゃないかと、わたしの胸のうちに燻り続ける悔いを、一緒に背負ってくれるんじゃないかなどと──」
──ステラが、わたしをぎゅっと抱きしめました。
「言わなくても、いいわ。……カティアは、私よりもずっと、傷ついてきたのね」
温かな鼓動が、凍てついたわたしに熱を与える。
溶けてしまったら、腐り落ちた、骸にもなれないわたしが出てきてしまう。
……ああ、だめだ。たえられない。
「……お話、します。わたしの罪を」
自分の一番醜い部分をさらけ出そうと、口がひとりでに動いた。
「……話したくないことなのでしょう。表情を見れば理解できます。私たちは、あえて罪を暴き立てるつもりはありません」
「どんなことしてたとしても。許す、ってもう言っちゃったものね? 今更聞かされても困るのだわ。だって許すって言っちゃったのだし」
「……姉さま。内容には同意しますが、その物言いはキフィを彷彿とさせますよ」
「え。やだ。それは嫌だわ。どうしましょう……」
ステラとシアは、わざとおどけているようでした。
わたしが、自分の言葉を撤回できるように。
「……それでも、どうか話させてください。
今を生きるあなたたちに。
偽りなく、虚飾なく。
そしてどうか。……わたしのように、ならないために」
喉がふるえています。
軽蔑されるべきなのに、軽蔑されたくないという気持ちがあって、それがほんの少しでも自分を良く見せようとしたがっているのです。
「わ、わたっ、わたしは……、ドゥ・モーチュアリ家の次女にっ、生まれ、ました……」
羞恥心と自尊心が閉ざそうとする口を開けて、わたしはぽつぽつと、わたしの生涯を語り始めた。
・・・
・・
・
「……以上です。
この身が魔人と成るより前から、わたしには魔がありました。
どうか……、わたしを軽蔑してくださいませ」
喉を震わせて、嗚咽が漏れ出て、それでも、どうにか罪を語り終えることができました。
今の自分はきっと、ひどい顔をしています。
「──しないわ! 迷宮都市の長として、あなたのお友達として、私は、あなたの罪を許します。
その宣言は変わりはしません。むしろ、懺悔をしてくれたその勇気を、私は讃えたいと思うわ」
「ですが、わたしは重い罪を犯しました。……罪には、罰が必要なはずなのです。『徳には報いがあるべきであるが、罪は罰されなければならない。たとえ、徳を重ねた相手であっても』。この玉座で、お父さまは何度も、何度も何度もこの言葉を口にしました。
……わたしが、この言葉を口癖にさせてしまったのです。ステラ、シア……」
「……ええ、存じております。評価すべき相手を評価しないこと、罪人を裁かないこと──『公平でないことは、権力を損なう統治者の悪癖である』。これは、現在まで語り継がれる帝王学の基礎です。
しかしながら。あなたを真の意味で裁けるのは、きっと、同じ時代を生きた人々だけです。……ですが、彼らはもういません」
「そう。そうなの。だから、だからわたしは、裁かれることもなくこうして──!」
「……いいえ。あなたの胸にある、あなたを苛み続ける痛み。その悔恨こそが、あなたへの罰なのでしょう。
法の原則として──ひとつの罪に対して、二重に罰を与えることは禁止されております」
シアはそう言って、静かに笑みを見せました。
「……キフィの言うとおり。あなたの苦しみは、あなたにしか理解できないものです。あなたの生涯を聞いて、改めて、そう感じました。
私たちには、その輪郭をなぞることはできても、傷に寄り添うことはできても、あなたを救ってあげることはできない。
──だから、どうか。あなた自身が、あなたを許してあげてください。あなたを救えるのは、あなた以外におりません」
その言葉で、わたしは決壊した。
「あっ……、あ……、あああ……!」
嗚咽が抑えられない。
せき止めていた想いが、ふたたび、こぼれる。
濁流のような想いが、魔人という役割を与えられた身にぶつかり、瞳から流れていく。
「後悔があるのよね。なら、明日から、少しずつ変えていけばいい。私は、私たちはそうする。そのために毎日頑張ってる。そうやって、沢山のひとの力を借りて、私の街をもっと素敵にするの! 色んなひとがいて、色んな暮らしがあって、みんなが笑っている──馬車の轍が通った道を、どこまでも広げたいのだもの!」
「……はい。幼き日に見た景色を現実にするために。私たちは努力を続けます。……笑顔の人々の中には、あなたもいてほしい。私は、そう思います。
……ですから、地底で、苦しみを抱え続けたあなた」
「「私のお友達として、
同じ時を過ごしませんか?」」
──胸のうちにある熱が、ぱちんとはじけた。
「ほんとうに。……ほんとうに、嬉しいことば……!」
「──カティア!? あなた、身体が……!?」
指先から、自分という存在がほどけていく。
この身は魔。胸のうちに抱えた熱が支える身。
ずっと己を焦がしていた熱は、いつの間にか、あたたかいものへと変わっていました。
「けれど、ごめんなさい。わたしは、あなたたちと一緒にはいけないのです」
──それは、身を支えていたものを無くしたことと同じ。
「……待って、待ってください……!」
ああ、わたしは消える。
わたしの存在が、どんどんほどけて、融けてゆく。
遠き時代の異邦人に看取られて。
魔が抜けて、生前と同じ、無力なただのひととなって。
罪人には不相応すぎる幸せを抱えて、わたしは、逝くのです。
──だから、どうか、そんな顔をしないで。
「……最後に。どうか、わたしのことを忘れてください。
最期の最期に、幸せな記憶に包まれて、人として溶け消えていくこの身を、どうか忘れてください。
こうなるべくして、なった身なのです。
ごめんなさい。……あなたたちを傷つけたくはなかった。それは、あなたたちを閉じこめようとしたときも、今も、同じです。
そして──どうか、どうかお幸せに!
あなたたちの最期の時が、約束された世界の法則が、残酷な別れが、どうかあなたたちの魂を傷つけないように──!」
……ありがとう、ございました!
かくして。
主を失ったダンジョンのコアを壊して、僕らは地上まで帰ってきた。
銀時計を覗くと、短針の目盛りが進まない程度しか時間が経っていないようだった。
ダンジョンで流れる時間は、それぞれ異なる。
領主としては、時間を取らない方がずっといい。
だけど、それはまるで、僕らの冒険が、彼女の存在が夢幻であると主張しているようだった。
優しく吹く風が、遠くの喧噪と、人のにおいを運んでくる。
「……これで、よかったのでしょうか……?」
「さあ? わかりかねますね。僕は、明日は今日よりいい日になると、生きてさえいれば、いつかはそうなるって信じてます。
生命の終わりと幸せとはどうしたって結びつかない。怖いなって思いますし、死にたくないなって気持ちは常にある」
「……そうよね、やっぱり──」
「だけど、彼女の──カティアさんの救われたって言葉に、嘘はないと思いますよ。
彼女はたぶん、僕らが来るずっと前から……、終わりを、望んでいたんだと思います」
彼女は、胸のうちの未練をほどいて、溶けるように消えていった。
やっぱり、骸なんて残さずに。
もしもの話をすると。途中で割り込んで未練を一撫でして、新しい約束で上書きして──彼女を縛りつけていれば、あるいは別の未来もあったんだろうと思う。
言葉というのはタイミングだ。彼女が自らの罪を語り終えた、その横合いから『あなたは許されることはない』という言葉を投げるだけで、恐らくそうなった。
……彼女自身が一番よくわかっていたことを突きつけるだけで、あたたかな夢想から冷ますことができた。
──だけど、それをやってしまえば、きっと彼女は二度と救われない。
ただ生きていること。そこに痛みを感じていた彼女を生きながらえさせることは、僕のエゴだ。
だけど、僕は正しいと信じている。生きていれば、いつか好転すると信じている。救いの形はきっとひとつじゃない。罪を抱えて、それでも大事な人と笑いあえるならいいんじゃないか。僕はそう思う。
だから、どうしてあの時そうしなかったのかと言えば、最終的には『そこまで親しくなかったから』という理由に落ち着くんだろう。仮に相手がステラ様やシア様だったり、インちゃんとかアネットさんだったりしたら、僕は一生恨まれてでもそうした。
恨まれるのには慣れているから。それでも生きていてほしいから。……魔人であり、出会ったばかりの彼女は、別にそうじゃない。
罪を一緒に背負ってくれる誰かがほしかった彼女は。
罪を背負わせたくないと思い至って、消えていった。
……忘れてほしいという彼女の望み。
それだけは、僕は尊重したいと思う。
「そうね。……そうなのかも。
でもね。わたしは、忘れてなんてあげないの」
「……はい。咄嗟の口約束は、領主の行動を縛るに値しません」
目尻いっぱいに涙を溜めて、それでも、二人とも笑顔を作っている。
喪った痛みを抱えて。
それでも、人はこうして笑える。
「何も残らないなんてこと、あるわけがない」
雪のように溶けて消えて、それでおしまい……、なんてことはない。
いつだって別離には痛みがある。
重なれば少しは慣れる。共感できない他人事だ。ほんの僅かな時間の触れあいだった。僕は薄情な人間だ。
そんな風に思いこんでも、それでも……、やっぱり、痛みはある。
「……っっ!」
──ふいに風が吹いて、目にごみが入った。
こすった目からはバカみたいな量の涙が出てきた。
……ただの生理現象だ。
「きふぃ。……。いたい?」
「………………いいや。よくあることだよ」
心の片隅に痛みを残して、それでも人は生きていく。
もちろん、残すものは痛みだけじゃない。喜びだってあるはずだ。だから人は生きられる。
そうやって何度も何度も、出逢いと別れを繰り返して、痛みを重ねて。
それでも、明日はいい日であればいいと願いながら。
僕たちは生きていく。
第3章『世界の色彩』/了




