ある出来事の決着と帰還
「さて、と……。僕はそこの領主様とお話があるので。あなたは、そちらのドアからデロル領までお帰りいただいてもいいですか?」
僕はトレーシーさんに言った。
トレーシーさんをダルア領に連れてきたことには『人には職業選択の自由があるべきで、意に沿わない就職先はてきとーに理由つけていつ辞めたっていい』という考えがあった。デロル領とダルア領を見比べて、改めて自分の居場所を選択してほしかった。だから、僕の用事を片づけるついでに来てもらった。
僕は、トレーシーさんにそこそこ好感を持っている。まあ、スパイやってたのも事実だから開示させてもらったわけだけど、僕個人として、彼女を貶めたいと思ったことはない。勤務態度も真面目だし。
……というか、洗濯係を再雇用するにあたり、もっとずっとろくでもない人が来るんじゃないかなという漠然とした不安があるので仲良くしたいのです……。
とはいえまあ、正直、トレーシーさんの立場は僕だったら絶対嫌だ。だけど、個人の価値観は人による。自分から荒野に飛び込もうとする人間について僕はまず理解できないなって思うし自殺行為ですよーって諭しはするけど、信念レベルの意志決定を覆すつもりはない。そういう人間はまあ、一定数、世の中にいる。
で、僕がお金というものをキラキラした鉄片と捉える一方、別の誰かからすると罪を犯してでも手中に収めたいものとなる──まあ貨幣って交換するための道具だから手放すんだけどね? なんで執着するのやら──給金は、まあこの痩せた土地にいた頃とは比べものにならない額になるだろうし、それが職業選択の決め手になる人もいるだろう。トレーシーさんがどうだかは知らないけど。
どうだかは知らないけど……一般的に《ステータス》とかいう数字がおしなべて低い人間に開かれている職業はダルア領には──どころか、この国にはない。溝さらいとか冒険者とか、せいぜい上手くやってもわらじ編みとかそういうごくごく原始的な日用品加工業くらいにしか就けない。
はい。
というわけで、これからもウチのお屋敷で働くことを望むのなら、部屋から出てってくださいね。
「嫌です」
あ、そうですか。嫌なんですね。はーい。
なるほど……。職場の人間関係はストレスになる。恐らくは上司だ。具体的には──事務的で愛想がないシア様のせいで働きづらいんだと思った。
ま、いいや。ご退職おめでとうございます新たな道行きをお祈りしておりますー。僕は定型句を唱えた。
「ついでに。ちょっと部屋から出てくださいな。僕はこれから『両方』をやろうかなーって思っているので──」
「嫌です!」
「おっと?」
「領主様をいじめるつもりでしょう!」
「いじめ……、いじめ? ん? ああ。正当な権利を行使したまでですけど?」
やだなぁ。僕ってば、なんかよくわからないけどすぐ悪者にされるんだ。自分でも飽きるくらいいい人って言ってるんだけどなぁ。
100万回は言ったと思うし、そろそろ効果が出てきてもおかしくないと思うんだけど……。
「その男は、庇われるに足る存在ですか?」
僕はいい人なので、直球で尋ねるのだ。
「領主様はなぜ偉いのか? そのように生まれたから偉いのです。大多数の偉くない人たちはなぜ偉くないのか。そのように生まれたからです。偉くない人たちの中で、そのごく一部、何も持たない人たちは。なぜ、何も持っていないのか」
──そう生まれたから?
そんな理由で、希望を希望と、絶望を絶望と知らないまま、餓えと過労で死んでいく。
そんな理不尽なことがあるか?
僕は、あなたのような人を見るたび、メリーがもし隣にいなければと思い、……そんな、どうしようもないことに苛まされる。
「頭を抱えているそこの男は、あなたの名前さえ知らないんですよ?」
そこの男はまず『知るか』と言った。
『四等市民に価値はない』と言った。
そんな相手を尊敬する必要があるか?
……ほら。
ちょっと、あの女性の名前を言ってみろよ?
自分のゴミみたいな命を救ってくれた恩人の名前をさ。
「ひっ……!」
どうした? 言えないのか?
それじゃあ、その口はいらないな。僕は中身が酸っぱい瓶を取り出し──おっとと。
「ほらね? 僕は嘘つきではありません」
領主が答えられなかった姿を、こうしてトレーシーさんに見せた。
「…………それでも、領主様が、私を毎日の暗闇から救ってくれたのです……。領主様がいなければ、私はきっと、今だって……!」
……その暗闇を払わずそのままにしているのが、そこの領主だろう。
あなたは暗闇から救われたんじゃない。デロル領への嫌がらせを思いついた領主が、自分の領地には別にいなくてもいい命を見繕って、隣領へと排斥しただけだ。
………………とは、流石に言えない。潮時だろう。
「…………はあー。まだまだ遊び足りなかったんですけどね?」
敵意には敵意を以て。
悪意には悪意を以て。
右の頬を殴られたら左の頬を殴り返すのが僕の流儀なわけだけど。
「ご領主さま……、よかった……」
善良と無垢を以て、僕の方から殴らせようとする手合いは、……本当に、苦手だ。
「ああそうそう。でも最後に、釘だけは刺しておこう」
僕は錆だらけの釘を取り出して、領主を椅子から引き倒してマウントの体勢を取った。
そしてそのまま、ご領主様に見せつけるように、錆びた釘を眼前に掲げる。
「あ、ああ……、ああああ……!!」
そして、口に強引に腕突っ込んで、カラカラに乾いてる舌を根っこから引きずり出して、十尺棒でカンと──おっと、手が滑った。
釘は喉元、頸動脈に掠るように床に突き刺さった。
「さて……。じゃあ、僕はお暇しますよ。そこの女性の──トレーシーさんの優しさに免じて、僕は今日のところは帰ります。トレーシーさんの顔を見るために、また足を運ぶかもしれません。その時は、どうぞよろしくお願いします」
ああ、それと。そこの釘は抜かないように。
見る度に思い出せ。自分の怯懦と敗北を。
・・・
・・
・
「──というわけで。お休みを貰うときに報告しましたとおり、ダルア領主にはウチに手を出すなよーって釘を刺し、やっぱり洗濯係のひとは解任となりました」
かくして。
僕はそのまま宿屋に戻り、次の日の出勤後に報告した。
「あなた、『釘を刺す』って物理的な意味だったのね?」
「ダメでした?」
「ううん。──よくやったわ! ふふ、昔っから気に喰わなかったのよね!」
ステラ様は喜色満面だった。
シア様はどこか不満げな顔をしている。
「……聞いていません。おまえは唐突に『お休みください。ちょっとお隣さんのところ行ってきます』と言い出しただけです」
「『合図するので、したらこの建物燃やしてください』とは言われてたわよ。結局、そっちの合図はしなかったみたいだけれど」
「……それも聞いていません、姉さま。……さながら、謎めいた犯行予告ではないですか。姉さまも共犯者にされかけていたのですよ?」
「キフィナスさんのやったことは、私のやったことよ。ふふん。あなたには、これが一番釘になるのでしょう?」
「配下のことをよくご理解いただいてるようでー。僕は別に気にしませんし、不評悪評がついて回ることになるから切った方がいいと思いますよ」
「もう。……すぐそうやって逃げるんだから」
──ダルアの領主が言うように、僕は自作自演の用意も当然整えていた。
今回使った魔道具《風の石笛》は、吹き方を工夫すると鋭利な風の刃が作れる。
指先を擦って起こした程度の空気の流れでも、絹のカーテンを引き裂くのに十分な威力を出すことができる代物だ。
《音喰い蟲》という道具があり(一応、虫じゃない。名付けた人間のセンスが悪い)、それは一度聞いた音が鳴ると、もぞもぞと蠕動する。
かなり遠くからでも聞こえるので、住民の誰も動かなかった場合には、石笛を石笛として使ってステラ様に燃やしてもらおうと考えていた。
「……しかし、領地間での戦争とは……。大きく出ましたね、キフィ、ナス」
相変わらず、シア様はなんか僕の名前を突っかえて呼ぶ。ひょっとしたら僕の名前を覚えていないのでは?という疑問がある。ナス家長男のキフィみたいに覚えられてはいないだろうか。
「いいえ? しませんよ、そんなの」
そんな小骨のような疑問をおくびに出さずに、僕はシア様の言を否定した。
「『ロールレア領の運営』という要素を踏まえた上での、今回の僕の勝利条件は、『最小限の労力で相手の動きを止めること』ですよ」
できることとやることは違う。
デロル領はやろうと思えばダルア領を100回は殺せる。
だけど、ぶっ殺すために都市の行政パワーを集中させるとかは、ゴキブリ相手に大剣を持ち出すようなものだ。
それに、小目的も果たした。
トレーシーさんが五体満足で帰り、その後の生活も保障されるためには、何らかの成果が必要だ。
僕は、あの男に恐怖と痛みの根を張って、暴力行為のどこかのタイミングでトレーシーさんに見つけさせれば、彼女はただの四等市民でなく『命の恩人にしてデロル領と直接公的に話ができる人物』という成果が作れる。
……僕は彼女に借りがある。成り行き上、家中のヘイトを集める存在が必要になったので、盾になってもらったことだ。
使用人の長として、自分の立場を守るためにも、それ以外の牽制のためにもあの手が有効だからやった。でも、僕は私人として彼女を貶めようと思ったことはない。
だって、弱い人間には、そもそも選択の権利がないんだから。
……だから、これから門出を迎える彼女に僕から贈る、退職金代わりの餞別だ。
「ま、ダルア領地での人権なんて、屑鉄貨のひとかけらほどの価値もないんですけどね」
彼女がこれからどうするのかは知らない。ここからは彼女自身の選択で、自分自身の人生をいかようにも変えていけるだろう。
僕がやるべきことは──、
「……事情はわかりました。しかし、洗濯係は速やかに用意しなければなりません。貴族位に手ずから家事をさせることは、家人にとって最大の恥と言われています」
どうやら、新しい(まともな)洗濯係を選任することみたいだ。
「ええまあ、そこはそうですね。とりあえず配置転換しつつかな……。臨時で僕がやってもいいですけど──」
「絶対に認めません」
シア様?
「許しません。そうですね……、レディ・バードを配置しなさい。今日中に」
「そうね。シアってば、いつの間にか黒なんて履──」
「姉さま。わたくし、それ以上口にされれば舌を噛みます」
黒?
黒って何の話だろう。
「おまえには関係ありません。その話題を出すことを禁止します。速やかに業務に移るように。以上」
シア様は一息にそう言った。
「──殺さない」
カナンは痛みに掠れた声で、しかしはっきりと宣言した。
「ほう? ……童蒙な決意よな。痛みを前に、なお選択を曲げることはないか。それとも、我はただ痛めつけるだけで、おまえの首は落とさないとでも思ったか?」
「ちがう。師匠は、多分マジで殺そうって思ったらオレのことぜったい躊躇いなく殺すと思う」
「その通りだ。そして今、そうなりつつあるな?」
血と脂が染み着き、膿んだ薔薇のように変色した棒きれを、セツナは愛おしげに撫でる。
カナンは知っている。自分の師匠は、この体勢からでも即座に撃剣を抜き打つことができて腕が振られたらそのまま死ぬ。
「し、死ぬ前に! 理由だけ師匠に伝えたい!!」
「そうか。つまらなければ殺すぞ?」
「ああ」
──カナンにとって、それ以上にない理由だ。
たとえこれで殺されても、自分に悔いはない。
「だってさ。アニキなら、絶対そんなことしないと……、思ったんだ」
人型の死を前にしているというのに、カナンは頬が熱く、むずがゆさを覚えた。
セツナは目をつぶり、もごもごと二、三度ほど口を動かしたのち──、
「おまえにあやつのなにがわかる。俄の分際で」
カナンのもう片方の耳も飛んだ。
そして、セツナはふん、と背中を向ける。
(許されたんだな)
と、カナンは思った。
(頭おかしいな)
とも思った。
「そら、往くぞ。そいつは既に殺している」
セツナが一歩踏み出した途端、倒れていた男の首はころりと地に落ち、切断面から倒れた水筒のように遠慮がちにとくとくと血が流れた。
(やっぱ頭おかしいな)
と、カナンは思った。




