契約書
「さて。取引といこう、キフィナス君。キミはこの思いつきを忘れ、敵対する領地に決して行使しない。代わりにボクは、ロールレア家に資金を貸し与えることを約束する。契約書は用意させてもらっている。確認してくれたまえ」
「あ、はい」
互いの魔力を用いることで、禁止事項を定め遵守させる《契約書》だ。
ええと、なになに……?
『クロイシャ・ヴェネス甲はキフィナス乙と以下の事項に関して合意する』……んー眠いからちょっと飛ばして……、
『甲は当該契約を撤回することはできない』はいはい。
『契約条項に違反した場合、乙は甲に肉を一片たりとも切ることなく、目方を違えることもなく血液453gを提供する』おわり。
……最後の一文、いったい何が目的だ? 血は生水に混ぜものがあって少し重たいくらいの物質だから、だいたい400ml前後だ。その程度なら別に命に別状とかもない。なんか流行ってる瀉血法の変化球かな?
僕はさらさらっとサインした。
「……待ちなさい。おまえ、途中を読まずにサインをしていたのではありませんか」
「はい? はい」
「これ当家への融資に関わってくる話よね?」
「そうですけど?」
「……商人クロイシャ・ヴェネス。私たちも利害関係者です。契約書を確認させなさい。場合によっては無効とします。領主には、その地における契約を凍結させる権限があります」
「ええ。喜んでお渡ししますよ、レディ。契約とは、互いに誤解がないよう努めるべきもの。彼はその努力を放棄しているけれど──公正であることが望ましい。契約とは、どうあっても持ちかけた側の優位が揺らがぬものです」
そうして、クロイシャさんはまったく同じ契約書を二通、ステラ様とシア様に差し出した。
「まだやっていないことを止めるのだし、利子なしで貸してくれるって話だし、落とし穴があるようには読めないけれど……。ごめんなさい。よくわからないわ。シアはどう?」
「……少なくとも、私たちに不利な条項は読み取れませんね。最後の一文は『施薬院に通って瀉血治療で少し心をまっすぐにした方がよい』という皮肉かと」
嫌ですよ。あんなの逆に病気になる要素しかない。
やたら血を抜くの好きな貴族様とか時々いますけど……ひょっとしてステラ様やってます? なんかああいうの好きそう。
「やってません。あなた、私のことどう見てるのかしら。……あの針、ちょっと怖いのだもの」
ステラ様は健康マニアのオカルト狂いではなかった。
「本当にどういう目で見てるの?」
ははは。不敬になりそうなので。
「……それが既に不敬なのですが。……いえ、今更ですが」
「……今の財政状況から、融資の必要は感じます。タイレル7世金貨で500枚ならば、一年から二年は潤沢な予算で経営できるでしょう」
「バーソロミュー陛下のお顔は人気あるものね」
「商人のボクとしましては。4世陛下から始まる記念貨幣の乱造は、今日の経済活動において小さくない障壁となっていることを指摘せざるを得ないのですがね」
「あ、記念貨幣って手もあるわね。ウチも在任記念で作ってもいいんじゃないかしら?」
「……姉さま、当家では領内通貨導入の前例などありませんが……」
まあ、確かにそれは考えた。
ステラ様とシア様の顔はまあ整ってる。通貨に載せれば一般庶民に領主の顔を認知させて代替わりをアピールすることもできる。
「悪くない案ではありますよねー」
「ほんとっ? これ、あなたの長文句の前に『悪くない』を聞けるほどの良案だったのかしら?」
ええ、まあ。いや僕が文句つけないのが良案なのかは知らないですけどね?
ただ、自分で通貨を造るという案はいいと思う。何がいいって、自分で勝手に作れるところがいい。
「……おっと。なにやら嫌な予感がしたよ、キフィナス君」
デザインも流通量も──金とか銀とか銅とか、どの程度含有するかだって自由だ。
あの世界のように、別に紙にしたっていい。
ちょっとお得なレートで──それでいて製造までに掛かった費用含めてまるっと回収できる程度には質が悪い新貨で、王国の良貨を駆逐しよう!
貨幣制度の本質は、すなわち信頼──その文化圏の人間全員が、それに価値を認める幻想を共有することにある。
デロル領の信頼性なら、紙までいけるんじゃないかなって思う。
「……キフィナス君。キミは不換紙幣の存在も知っていたのかい?」
「え? あー……経済のこととかよくわからないですー。どうやって造ろうかなって方で頭がいっぱいですー」
「ん。つくるとき。きふぃのかおつくる。たくさんつくる。いいものつくる」
突然なんだいメリー。
「ようぼう。はやいほうがよい」
「唐突だね。却下。メリーの話にならない思いつきは執務室じゃなくて宿屋で聞かせてねー」
メリーは人の話を聞かない。正確には、聞いた上で自分の関心をごり押してくる。だから、僕の顔なんかで貨幣造るとかやらない。やらないけど、絶対やらないけど……、もし作るにしても採用するのは君の顔だ。
最強の冒険者との繋がりを欲しがった王都の腐れ貴族どものように、君の顔はそれだけで看板になる。
……でも、絶対やらないから。貨幣としては絶対作らない。
けどまあ……、一枚か二枚程度、お守り代わりに持っててもいいかもしれない。あ、これいいな。いい案だと思った。作るにせよ作らないにせよ、鋳造士に目をつけておかないと……。
「……それでも、新貨鋳造に至るまでに費用を捻出せねばなりません。当家は、貨幣を鋳造できる設備・人材から用意しなければならないのですから」
「どんどん課題が増えるのだわ」
「あ、僕には課題を増やさないでほしいなーって気持ちはありませんって前置きしておいて、重要なことをひとつお伝えしますねー。冒険者ギルドは、一律で領内通貨を取り扱ってません。ウチで導入するのはそこ考えないとです」
同業者組合の中で、とりわけ力を持っているのが冒険者ギルドだ。
各領地がそれぞれで領内貨幣を易々とは造らない理由に、国中に存在するこの組織の社会的影響力が拭えないことはある。
議論はわいわい続く。
メリーはぼうっとして、時々愚にもつかない茶々を入れてくる。やる気がない。
いや別に良いけど。君は使用人ではないし。
「なるほど。新体制のデロル領は、変化に溢れた都市になりそうだ。心の炉がまさに今燃え盛っている。
しかしながら、そろそろ本題に戻っていただいてもよろしいかな? ボクも夕餉を用意しなくてはなりませんので──契約の話をしましょう」
楽しげなクロイシャさんの言葉に対し「……確認すべきは」とシア様。
「……当家の使用人、キフィナスの提案とは、そんなにも危険なものなのですか?」
「うん──ようやく聞いてくれたね」
クロイシャさんは、くす、と笑みを浮かべた。
「たとえば、会員1人当たり5人ずつ新規会員を加盟させ、傘下に加えたとしましょうか」
まあ、僕はそれくらいに声かけて始めるつもりだ。
「最初の5人がそれぞれに伝えて25人になり、次いで125人になり、その次には625人になる」
「600っ……!?」
「はい。たった3世代先で、625人が商販売行為に巻き込まれることになるのです。もちろん、そこで収まるという保証もありません。ダルア領の現在の人口は3023人。人口の20%以上が本件に関係することになります。そして、仮に625人が下に子会員を作ったとき、その数は3125人。総人口でも足りなくなってしまうのですよ」
「……具体的な数字で示されると、凄まじい数ですね……」
なお、現在のデロル領の人口は冒険者と戸籍のない人を含めないで2万人前後。彼らを含めると3万人そこらだと言われている。
クロイシャさんの計算の続きは……ええっと指折り指折り……つぎで15625人。
「もちろん、説明のためにモデルを簡略化しました。蔓延するにつれ、1人当たりの会員獲得数は減少、そのペースも鈍化するでしょうし、商品を購入しない、あるいはできない者もいるでしょう。しかしながら、既存の商行為と比較して、その規模が大きく違う、という点はお分かりいただけたかと存じます」
「こうして聞くと、とんでもないわね……」
「その通りです。レディ。隣領との関係が悪いことは、もちろんボクも存じております。ですが──領主の罪は領地領民のすべてに及ぶとお考えですか?」
「いいえ。それは違うわ」
ステラ様が言い切った。
「領主の罪は領主の罪、領民の罪は領民の罪。これらは混同されるべきではありません」
「……ですが、先のスパイ行為および冒険者への攻撃に対し、当家には報復の権利があると考えます」
ステラ様に、シア様が加勢する。
「……商行為は大きく麻痺することになるかもしれませんが、市民の生活に影響を与えることを懸念する必要はないのではないですか。……商人の数は、それよりも少ないでしょう」
「ええ。そこが、最も厄介なところなのですよ。レディ。階層が上の相手から購入した商品をそのまま下に流す体制には、目利きはいらない。そして、情に訴えられるとヒトは弱く、話術も必要ではない。ですので──素質のない商人を短期間で大量に作り上げ、効率的に経済活動を混乱させ、人間関係を破壊することができる」
「…………キフィナス?」
シア様は二、三度目をぱちくりと瞬きした後、僕に問うた。
ええ、はい。僕は眠かった。今も眠いんです。
あとはまあ何というか、冒険者はろくでなしな職業だけど、片手の指で足りる程度の範囲とはいえ顔が見れなくなったら寂しいなって人もいたりする。
だから、まあ……いっかなって思った。
「まあいっかな!?」
あ、いや、口が滑っ……いえ。ステラ様。なんでもないです。でも、それでもですね? 手綱を握れるようにはしてましたよ。
確かにクロイシャさんの懸念はもっともで、そこに付け加えると隣の領だと物理的に距離が近いという問題があります。領地同士の仲が悪くても、領民はそんなの知りませんからね。ダルア経由でウチまで戻ってくる危険性だってある。
だから珍妙な商品にして、その数を限るんですよ。
そうすれば、必然的に会員の数は限られる。だから──。
「──いや。商人は学ぶよ。そして、この悪意を北へ南へと輸出するだろう。その時、ロールレア領は彼らを退けることはできるかい?」
え? ……あ。
えーーっと……。
「もちろん、世界のありようを定めるのは今を生きる人々だ。己が身の内に猛る焔があるのならば、世界を灼くほどの情熱があるのならば。文明を塗って変えることを押しとどめはしないとも。けれど──キフィナス君は違うだろう?」
「は、反論、反論はないのっ?」
…………やばいな。そこまで考えてなかった。
宝くじとか、そういう実体のない金融商品でやられたら普通にこっちが壊れるな……。
いや、眠かったんですよ。眠かった。反論おわり。
「……クロイシャ・ヴェネス。この契約に全面的に賛同します」
「シアに同じく」
そういうことになった。
そうして。
クロイシャさんは、「今日はお節介だったね」という一言を残して帰っていった。
「それにしても、なんであんな雑にサインとかしてたの?」
「ああ、僕ってば契約書で行動を縛られないタイプの人なんですよ」
「それは比喩の話?」
「いえ、物理的な話です。僕には魔力がありませんので」
だから、お金借りてから適当なところで破棄しようかなってつもりでした。
「あなたね……」
だから、僕と契約しようと意味はない。
まあ、結果的に今回は素直に従うことになりますけど。
座っているだけでこんな大金が舞い込んでくるなら、クロイシャさんを呼ぶためのアイデアを思いついた方が効率がいいなぁ、と僕は思った。
「……貸借ということを忘れてはいませんか、おまえ」
「利子なし期限10年とか貰ったようなものですよ」
「そういうとこじゃないかしら」
楽しいひとときだった。
クロイシャは思う。彼らには勇気と、聡明さと、道を踏み外しそうな危うさがある。
がむしゃらな人の熱に触れることは、クロイシャの躯をことさらに温めてくれる。クロイシャは、そういう人間が好きだった。
「彼は『契約を破る』権利を行使しようとしていたのだろうね。契約には当然ながら、破る権利も存在する。契約が破綻した際の条項をなぜ設けるかといえば、履行されないことを前提としているためだ。ボクの最後の一文は、そもそも履行不可能な条項だった」
肉を傷つけることなしに、血を外に出すことはできない。
それは、そもそも当該契約を遵守されることはないだろう、というクロイシャの皮肉である。
「いやしかし。なかなかどうして、有効な関係を築けているようじゃないか」
クロイシャの知っている彼は、目的の為ならば手段を選ばず、自分の行動の影響力も考慮しない、社会にいつでも害を為せる引き絞られた弓のような──あるいは、油蔵を走り回る鼠花火のような青年だった。
そんな彼が、効力のない契約書で縛られるかもしれないというのは、存外に愉快なことだ。
「ふふふ……」
ヒトというものは、本当に面白く、いとおしい。
彼らの変化を見るだけで──ああ、次はどのように変わりゆくのかと、明日が待ち遠しくなる!
「世界の崩壊が近いというのは、誰よりボクが一番わかっているのにね」
10年を期日とする債権は、きっと回収できはしないだろう。
それでも、クロイシャはヒトの営みを楽しむ。その熱に触れることを楽しむ。
夜と朝の端境、明日を迎えんとする暁の空を見上げながら、千年の時を生きる魔人は幽かに笑った。




