ニノ六
「——っ!?」
その声にユキは身体を硬直させた。
背中を伝う嫌な汗。今まさに彼が感じているものは、浮気現場を妻に見られた男のそれだ。
ゆっくりと、恐る恐る振り返るユキ。そうする事によって彼の視界に入るのは、無表情で首を傾けるシオンの姿だった。
「ねえ、ユキ……その人誰?」
「え、えーと」
別にやましい事は何一つしていないのだが、シオンの迫力に言葉を濁らせてしまうユキ。
そんな彼の様子にシオンは瞳から輝きを消した。
「……ゆかり様?」
「え?」
彼の背後からボソリと放たれた言葉に、ユキは硬直していた。
「い、いえ……そんなわけ……でもそのお顔は……」
困惑、動揺、戸惑い、驚愕。様々な感情が生まれては混ざり合い、否定し、溶け合う。
双花の胸に残った感情は全てを含んだ一つの心。
「……どういう……事ですか、お義兄様……」
ユキに対する疑問だった。
「それは……」
「ねえユキ。おにい様ってどういう事?」
他にも気になる言葉が聞こえた気がするものの、それよりも双花の口から出たユキに対する呼び名に、シオンは眉を動かすとそれについて問い詰めていた。
「えーと……」
「ユキ!」
「お義兄様!」
二人の美少女に詰め寄られ、ピンチを迎える男の図がそこにあった。
☆ ★
「……さて、どうするか」
あの場はどうにか誤魔化した。
……いや、正確には問題の先送りをしただけだ。
どうやったかというと、立ったまま話すような事じゃないから、今日の放課後に改めて説明する。と苦し紛れに言っただけだ。
「えーと、大丈夫?」
昼休みになったにも関わらず、一人で何やらぶつぶつと考え込んでいるユキを見つけた桜は、そうやって恐る恐る声を掛けていた。
「桜……なんの事だって言いたいところだけど、残念ながら大丈夫そうにないな……」
「……えーと、修羅場かな?」
チラリと視線をシオンへと向ける桜。
朝での一件は保留したが、ユキとシオンは同じクラス。つまりずっと同じ空間にいるのだ。
同じ教室に居てシオンから注がれる視線に気が付かない奴はいない。
今まで見たことがないシオンの態度と、今日中にあった事を噛み合わせ、ユキの現状を推測する桜。
「ある意味そんな感じだな」
「えーと、ユキリンって双花様と知り合いだったんだね」
「ああ。佐倉院については話しただろ?」
「うん。ユキたちが暮らしてた施設だよね」
そう言いながら悲しそうな顔を覗かせる桜に、ユキは軽くデコピンをした。
「痛っ!」
「いちいちそんな顔すんなって事だ」
「うー、まあユキリンがそう言うならそうするけどさー」
両手でおでこを抑えつつ、涙目でそんな事を言う桜は正直言って可愛いのだが、残念ながら今のユキはそんな事を考える事は出来ても、楽しむ気分にはなれないでいた。
「……ジィー」
主にずっと突き刺さる視線が原因で。
「……はぁー。それで話を戻すけど、佐倉院には融資してくれていた人がいるんだよ」
「あ、そっか。そうじゃないと生活出来ないもんね」
「そういう事。んで、その融資者の一人が賢一さん、つまりここのマスターなんだよ」
「わー。なるほどそういう事か。それで娘である双花様と交流があったって事なんだ」
「まあそんな感じ。佐倉院は大体似たような年齢の子ばかりだったから、双花の遊び相手みたいな事もしてたな」
双花はユキたちよりも一つ年下だ。
つまり学年的には現在高等部一年生、後輩にあたる。
「その結果俺とゆかりが懐かれてな。双花と後もう一人の四人で良く遊んだもんだ」
「そっかー、なるほどねー。それでおにい様なんだ」
「……それはやめろって言ったんだけどな。一つしか違わないし」
「それでも仲の良い年上の人はやっぱりお兄ちゃんって呼びたくなるものだよー」
「へえー。てことは桜にもそんな相手がいるのか?」
「……うん。いたよ」
なんだか寂しそうな顔をして、わざわざ、いたよ、と過去形にしているその言い回しに、ユキは口を閉じた。
「ままっ。あたしの話はいいじゃん! それよりも……そろそろツッコンだ方が良いのかなーって」
苦笑いを浮かべながら頬を指先で掻いている桜。
彼女が言っている事については、地味にユキも気になっていた事だ。
「ジジジィー」
……そう、いつの間にか自席からではなく、すぐ後ろから視線を注いできているシオンについて。
「……シオン、説明なら放課後にするって言っただろ」
「それはわかったけど……さっきの子どこ行ったの?」
「ジトメの所だと思うぞ。会長から聞いた話だと、あいつ未だに委員長室登校らしいからな」
ユキが勝手に作った造語、委員長室登校とは保健室登校の委員長室版だ。
つまり、登校しても教室には行かず委員長室だけで完結しているのだ。
「ジトメとも知り合いって事なの?」
「そういう事。というか、今の話を聞いてたなら放課後に改めて説明する必要なくないか?」
「それはそれ、これはこれってやつで一っ」
「……へいへい」
即興のジェスチャーと共にそんな事を言うシオンに、ユキは呆れ顔で頷いた。
「ねえねえユキリン。今放課後って言ってたけど、今日って生十会会議あるよ?」
「あー、そういえばそうだな。まあ委員部からはジトメが出れば十分だろ。という事で俺たちは欠席って事で連絡よろ」
「……んー、まあどうせすぐ脱線して意味ない事になるだろうし、平気かな? おっけー、会長に伝えとくね」
「サンキュー」
「さんきゆーっ」
ユキの真似をして礼を言おうとしているのだろうが、ユキとは違って元気よくポーズを取り、さらには最後がきゅーではなく、きゆー、とゆが小さくなっていないシオンだった。
☆ ★
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