第六話 正体
「――また神楽月國か」
状況を十返舎から聞き、主人――迅が柳眉を寄せる。今は白い官服ではなく、本来の、美しい青で、光沢のある官服を身に纏っている。場所も、天上門から雲門の間を示す雲間ではなく、天上門より北、天上にある彼の仕事場だ。
十返舎はええ、と皺がれた声で答える。
「調査の結果、月國の弁当にだけ毒が仕込まれていたようですな。先週の事件でも彼は関係しておりましたが、ただの偶然とは思えません」
「……ふむ。しかし、前回は容疑者としての立場、今回は危うく殺されそうになったという立場では、何とも不可解だな」
「口封じでしょうかね」
そう言葉を挟むと、迅はすぐに頷いた。
「そうかもしれん。月國が犯人側として前回の事件に関わっている可能性はないわけではないからな――で? 十返舎。なぜお前がわざわざ私のところへ来た?」
迅はその鋭い目を十返舎に向ける。睨まれた老爺はふぅと息を吐き、言った。
「皇子、再度確認しておきますが、あなたと月國は何か関係があるわけではないのですね?」
「前にも答えたと思うが、弓勝負があったのは事実であって、私が彼を庇うために捏造したわけではない。それに、殺された四品は、私が才能に気付き、天上人へ召し上げることを決めたような男だぞ。何故わざわざ殺さねばならん」
迅はさらりと答え、それからさらに眼光を鋭くする。
「それでも私と月國に関係がある、つまり、私があの殺人事件に関与してると疑うなら勝手に疑えば良い」
「いや」十返舎が軽く手を挙げて否定の意を示した。「何らかの形で関与してなさるなら、深く追及しないほうがあなたの為だと思っただけですよ。あなたが関係していないのならばそれで問題ありません」
はっきりとそう述べてから、もうかなり長い付き合いになる老爺は、親しげな色を瞳に滲ませ、両肩を少し竦めた。
「誰にでも攻撃的になるのはあまりお勧めできませんよ、皇子」
迅はふん、と鼻を鳴らし、十返舎から視線を逸らした。
十返舎は口元を少しだけ緩め、それから俺を見た。
「玉緒殿、玉葉殿の警備は、あなた方、化野の一家に一任されていたと思うが」
「怪しい者がいた、などという報告は受けていませんよ」
「意外に、月國の美しさにやられた女官の仕業かもしれんな。恋心は何を思い立たせるかわからないと言うから」
迅が投げやりな冗談を言う。それに合わせて十返舎が答えた。
「でしたら、その月國を守ったのは別の女官の愛という訳ですか。そんな話にも信憑性を感じるほど、彼は美しいので何とも言えませんがね。明星殿もすっきりとした見目であられたが、ご子息はそれを越える美しさですな」
「頭の方も越えていたら、とんだ化け物だな」迅がそう言い、それから俺を見る。「玉緒。しばらく私は天上から離れん。落ち着くまで月國を見張っておけ」
「本当に離れませんか?」
俺と十返舎の声が重なった。
迅は不満そうな顔をして両者を睨む。
「私が信用できないのか」
「信用できるわけがないでしょ」
答えながら思わず溜息が漏れる。迅は皇子という貴い身分なのにも関わらず、官位を偽っては、しょっちゅう、雲間や市井に出向くのだった。
二人に疑いの目を向けられ、迅は声を荒げた。
「護衛なしで出歩くようなことはせん」
「そもそも護衛がいたとしても、顔すら隠さずに出歩くような真似はお控えください」
すかさず十返舎が釘を刺し、流石の迅もそれきり静かになった。
*
武が死んだ。にわかには信じがたかった。
寝台に寝転がっていると、武が向かいの梯子をそろそろと降りてきそうな、いつもの減らず口を浴びせてきそうな、そんな不思議な感覚がする。
武が亡くなってから、玉葉殿は大混乱に陥り、試験どころではなくなった。私を含めた初品はみな自室に戻され、待機が命じられた。あの後で上位の人間がこの部屋を訪れてきて、その時の状況を詳しく訪ねてきた。特に私に向けられる目には不快なものがあった。
途中で確認に出た結月曰く、私たちにおむすびをくれた樹杏にも尋問の手が伸びていたようだった。私たちと共謀し、武を死なせた可能性を考えたらしい。しかし、彼女の場合は、周りの官女たちが素行の良さを口々に訴え、かえって疑いの目を向けた官人が非難を浴びる羽目になったらしく、大事にならずに済んだという。結月からそれを聞いて、良かった、と心底安心すると共に、樹杏にまで心配が及ばなかった自分の浅ましさに気付いた。私はただ、寝台に横たわって、信じられない、信じられないとうわ言のように呟き続けているだけだった。
自らの右手を持ち上げる。この手首を武が掴んだ。痕はもう消えたが、あの感覚は一生忘れない。
私の弁当を食べて、彼は死んでしまった。
なぜ。どうして。疑問と悲しみが渦を巻く。誰かが私を殺そうとした? 一体誰が?
「月國、結月、そろそろ眠ろう。明かり、消すよ」
春孝が優しい声で言い、寝台から足を降ろす。呼びかける名前に武がない、という当たり前のことに、涙腺が熱くなる。
眠れる気がしなかった。
目を閉じるたび、死に際の武の顔と、あの手の感触が蘇る。
それは私の胸を苦しいほど締め付け、叫びたいほど切なくさせるのだった。
「……先に眠ってて。夜風に当たってくる」
私はそう言い、寝台を飛び降りた。そのまま部屋を飛び出そうとすると、結月も春孝も制止の声を上げた。けれど、私は気にしなかった。振り返らずに、部屋を飛び出した。
酷く混乱している。
東殿の廊下を駆け抜け、庭先に飛び出した。砂利が足の裏で音を立てる。今日は曇っていて月が見えない。涙が溢れぬように上を向こうとしても、どこを見ればよいのかわからない。桜の木の間を抜け、当てもなく歩き回る。桜の蕾が冷たい風に揺れている。
――どれだけバラバラになっても、一カ月に一度くらいは、無礼講で集まって一晩中語り合おうよ。
そう約束したのに。
涙が溢れてくる。流れないように拭っても、次から次へと滲み出てくる。
情けない。
そうやって両目を拭い続けていた、その時だった。
――ひゅん、という聞き慣れた風切り音がする。と、同時に肩口に鋭い痛みが走った。その衝撃でうつ伏せに倒れ込んでしまう。砂利が肌を刺して痛い。しかし肩口の痛みが強まり、砂利など気にならなくなった。鉄の匂いがする。ちらと見れば肩に矢が突き刺さっていた。それほど深くはない。けれど血が出ている。
「え……」
「伏せていろ!」
急に叫び声がした。そして誰かが背中に覆いかぶさってくる。起き上がろうとしたところを地面に押し付けられ、顎を砂利で打ち付けた。誰かの吐息が耳裏にかかって、生理的な恐怖が湧き上がる。しかし、その人物はすぐに私の上から退き、私の二の腕を掴んで力強く引き上げた。
「走れ!」
「――玉緒!?」
そこにいたのは玉緒だった。黒髪の隙間から見える目は、今は死んではおらず、緊迫している様子だ。彼は私の腕を掴んだまま、砂利道を駆け抜けた。私も腕を引かれるまま駆け出す。その力は強く、必死で走らないと腕が抜けてしまいそうだった。
私たちが駆けていくのを追いかけるように、何本も矢が飛来してくる。それはたまに肌をすれすれに飛んでいき、官服の裾が引き裂かれたりした。一度だけ、それは脇腹の辺りを掠めた。痛みはあまり感じなかった。しかし、肩に刺さったままの矢が走る振動で肉を抉り、絶え間ない痛みを与えてくる。
しばらく天上門の方に向けて走っていると、彼は天上門に続く塀に設けられた、女官等が通る狭い扉に飛びついた。その向こう側は天上だ。彼は躊躇いなく扉を開け、私を天上へと連れて行こうとする。
「ちょ……この先は、天上人のみが立ち入れる場所だ!」
「そんなことを言っている場合か! 死にたくないなら来い!」
間髪入れずに怒鳴り返され、ほとんど無理矢理に天上へ引きずり込まれる。扉を通り抜けた先も砂利道が広がっていたが、生えている木々の美しさが雲間とは比べ物にならなかった。目に飛び込んでくる建物の装飾も驚くほど豪勢になっている。思わず息を呑んでいると、玉緒は「こっちだ」と鋭く言い、私を引っ張っていった。
玉緒は長く続く建物の裏に回ると、ある一室まで私を導いた。その一室には裏戸があり、玉緒はそこを開けると、私を招き入れた。その部屋は両方の壁を高い棚で覆われており、そこにはたくさんの壺や巻物が並んでいる。下の方には布も詰め込まれていた。部屋に入った途端、ある特有の匂いがする。ここは医務室だ――とピンときた。
玉緒は私を室内に入れると、もう一度裏戸から顔を出し、辺りを見た。
「流石にここまでは追ってこないようだな」
彼は安堵したようにそう言うと、裏戸を閉め、手近にあった箒を使って、向こうから開けられないようにした。そして、改めてこちらを見た。その視線は私の肩口に向けられている。そこには矢が刺さったままだ。彼はふ、と軽く息を吐いたのち、距離を詰めてくる。
「ひとまずそれを抜こう」
我慢しろ、と彼は囁くように言い、矢に手をかけた。そして、私が気持ちを固めている暇もなく、それを勢いよく引き抜いてしまう。引き抜く際にまた肉が裂け、血があふれ出す。緑色の官服が赤黒く染まっていく。
「う……」
「毒物などは塗ってなさそうだな」
彼は矢と傷口を見比べて言い、矢を床に放り出す。
「ひとまず血を止めよう。服を脱げ」
「え?」
玉緒は当たり前のように言ったが、私はひっくり返ったような声を上げてしまった。彼は眉を寄せ、不可解そうな顔をしながらも、「処置の邪魔だから、脱いでくれ」ともう一度言った。
――どうしよう。
私が肩口を抑えたまま硬直していると、玉緒はさらに不思議そうな顔になった。
「どうした?」
「あ……いや……処置は自分でやるから大丈夫で……」
「自分でやりたいなら自分ですればいいが、何にせよ脱がないと無理だろう」
彼は呆れかえったような顔で言い、私の傍まで寄ってきた。そして、私が、あぁ、だの、その、だのまごついているのを無視して、官服を乱暴に掴むと、勢いよく引き上げ、上の服を奪い取ってしまった。
官服の下には肌着として薄い布地の服を着ていたが、脇腹の辺りにも血が滲んでいた。まさか目の前の人間が女だとは思いもしていない玉緒は、ふむ、と深刻そうな顔をしながら、そのまま肌着も剥いでしまう。
――さらしを巻いて胸から腹までを隠してはいるものの、若干の胸のふくらみや腰のラインを見れば、あとは瞭然だ。
玉緒は肌着を床に投げ、棚から別の布を取り出そうとしたが、その直前に私を見てぴたりと動きを止めた。
そして、彼はぽかんと呆気にとられたような顔をしたが、みるみるうちに目を細め、次の瞬間には後ろに飛びのいて私と距離を取ると、その腰に吊るしていた刀の柄に手をやった。
「女か」
そう冷たく吐き捨てるように言った目は、一週間前に私を見捨てた時と同じ色をしていた。