第五話 花立の試
雲門前に幾百人もの初品が並び、一斉に頭を垂れている。その最前で立っているのは我らが皇帝陛下だ。とはいえ、その顔は薄い白布で覆われ、隠されている。あの布なしで顔を拝めるのは、その目に留まった女か、天上人だけだ。
皇帝陛下の祝辞を聞きながら、私は入官式のことを思い出していた。あの日もこうして、初品たちが並び、その前に皇帝や天上人がいらっしゃった。あの日から全てが始まり、そして今日、私たちは新たな段階へと進んでいく。土の中で精力を蓄える時期は終わり、ついに開花する時が来た。
――今日こそが、希望と絶望とを孕んだ、花立の試の日である。
玉龍城で四品が殺害されてからおよそ一週間。城で人が殺されるという前代未聞の出来事に、城内は大騒ぎとなった。刑部の人間や武人たちが城内をくまなく見回ったり、聞き取り調査や、亡くなった四品の身の上調査を行ったらしいが、事件の真相に至るような証拠は見つからなかったという。上位も下位も一つになった騒動だったが、何故か、私のところに再度連絡がくることはなかった。事情聴取の為に呼び出されることくらいは予想していたのだが、それすらもなかった。意地の悪い初品の中には、私をまるで犯人のように扱ってくる者もいたが、花立の試が近づくにつれ、初品の関心は、前代未聞の殺人事件よりも、自分の将来がかかった試験に移って行った。私も、他の初品よりは殺人事件を気にしているとはいえ、その例には漏れなかった。
花立の試は二日に分けて行われる。一日目は学業分野、いわゆる筆記試験である。午前は歴史や数学、天文学などから詩学にわたるまでの基礎学問に関する試験を、午後は政策などに関する自らの考えを論述する試験を行う。二日目は実技分野で、弓術や剣術から、楽器の演奏等の試験が行われる。私たち文官にとって重要なのは今日の学業分野の方であった。
花立の試前の儀式が終わると、私たちはそのまま雲門をくぐり、晶珠殿、石英殿の脇を抜け、玉葉殿に向かう。そこで筆記試験が行われるのだ。
近くにいた同室の三人と連れ立って雲門を潜っていると、ふと、視界の端に見慣れた女官の姿を見つけた。彼女は並んで生えている馬酔木の木の後ろからこっそりとこちらを覗いている。ずらずらと歩いていく多くの初品の中から、すぐに私たちを見つけると、嬉しげに笑顔を浮かべ、白い手で手招きをした。試験会場には指定時刻までに到着していればよいことになっている。私は結月の袖を引き、彼女が呼んでいる事に気付かせると、二人で初品の列を外れた。
「どうしたの、樹杏」
手招きしていた樹杏の近くに寄り、声をかけた。樹杏は、桜色の手巾の包みを二つ持っていて、少しだけ頬を上気させていた。前に見かけたときより、白粉が薄くなっていて、いつものようにそばかすが見える。
「会えて良かった!」
彼女はそう言うと、その包みを私と結月に差し出してくる。差し出されるままに受け取ると、そこそこの重量がある。そして温かかった。
「これは……?」
「おむすびだよ。朝餉の余りで作らせてもらったの」
驚いて尋ねてみると、樹杏はいたずらが成功した子供のように楽しげに答えた。
「先輩から聞いたの。大事な試験の時におむすびを食べたら良いんだって」
「あぁ、それ、知ってる」結月が合点がいったように微笑んだ。「おむすびは『縁』を『むすぶ』から縁起が良いんだっけ? 試験の時に良い結果と自分を結び付けてくれる、とかって、誰かが話してるのを聞いたよ」
樹杏は大きく頷いてから、ハッとしたように顔を真っ赤にさせ、俯いてしまう。
「まぁ、ただの語呂合わせだし! 女官の中で流行ってる、おまじないみたいなものだから、あんまり気にしないでほしいんだけどね。でも、私にはこれくらいしかやれることがないっていうか、その、形だけでも、二人を応援してることを伝えたかったって言うか……ごめん! 大事な時に邪魔して! それじゃあ……」
何が彼女をそうさせるのかわからないが、樹杏はみるみるうちに小さくなると、そのまま踵を返して逃げようとする。私がその手首を掴むと、彼女は驚いた顔で振り返る。顔は真っ赤なままだ。
「嬉しいよ。ありがとう」
すると、元々真っ赤だった彼女の顔がさらに赤くなる。それを見て、結月が盛大に溜息を吐いた。
「あーあ。また月國が誑かしてる」
「ほんとに!」
樹杏は勢いよく同意し、私の手を振り払う。しかし、もう逃げるつもりはないようだ。
「月國はずるいよ。いつもそうだもん。どんな女の子にだってそうだし……」
「私は樹杏以外の女官とはそれほど仲良くないけど……」
「ねぇ、お願いだからそういうことにさせてほしいの、私の心の平穏の為に!」
「何でそんな必死なの」
「月國って本当に女心がわかってないというか」
結月が肩を竦める。
女心がわからない、なんて女の私が、男の結月に言われるってどういうことだ。
「……何か迷惑をかけてたら済まない、樹杏……」
思わずこわごわと謝ってしまうと、彼女は力なく笑った。
「いいよ。わかってるから……」
結月がもう一度肩を竦めた。
朝から張り詰めていた心がふっと穏やかになる。私は自然と微笑んだ。
「本当にありがとう、樹杏。頑張るよ」
「僕も頑張ってくるね。ありがとう」
結月も隣で微笑んでいる。
樹杏も照れながら笑顔を浮かべた。その唇からちらりと八重歯が覗く。八重歯さえも気にしている彼女は、笑い方に気を付けて、普段はそれが見えないように細心の注意を払っている。それだから、かえって、彼女の八重歯が見えた時、私と結月が思わず嬉しくなるのを彼女は知らない。
樹杏のくれたおむすびを抱えて、試験会場に向かおうとすると、列から外れたところで、春孝と武が待っていた。春孝はにこにこと柔和な笑みを浮かべているが、武の方は不機嫌そうである。
「けーっ、俺にも応援してくれるカワイイ女官が欲しいぜ」
「女官に話しかけられても一言二言しか返さないくせに、よく言うね」
春孝は特に何も考えずに言ったらしいが、その言葉は意外と武の胸に刺さったようだった。彼は自分の胸を抑え、苦しむような姿勢を取りながら、絞り出すように言う。
「女の子と話すとか無理……」
その「女の子」がすぐ目の前にいるのだけどな、と私は内心で笑う。
天上人になって、女が官人になれるような社会にした後、老いぼれて引退する時にでも、こっそりと真実を教えてやろう。きっと死ぬほど驚くだろう。驚いた勢いで、武の心臓が止まらなければいいが。そんなことを考えると、内心どころではなく、可笑しさが顔にも出てしまう。それを武は勘違いしたらしく、私の肩を軽く殴ってきた。
「くそ、バカにして笑いやがって」
「そんなんじゃないよ……」
私は首を横に振りながらも、やっぱり、笑いを抑えることは出来なかった。
*
――午前の試験は難なく終わった。もとより、私のような、上位を目指すような人間にとっては、午前の試験は肩慣らしに過ぎない。午後から行われる論述試験でどこまで良い成績を残せるかが鍵なのだ。
しかし、それは誰にも当てはまることではなく、すでに泣きそうな顔をしている者もいるし、昼休みに入るや否や、会場を飛び出してしまった者もいた。
結月は午前の試験はこなすだろうし、春孝は試験だからといって普段の調子を乱すような性格ではない。唯一心配なのは、力みすぎてしまう武だった。昼休みに入った時、その遠い背中を覗いてみれば、ふるふると細やかに震えていた。不安な気持ちが込みあがってくる。しばらくして、彼は勢いよく立ち上がると、振り返ってはっきりとこちらを見、ずんずんと足音を立てて近づいてきた。
「武……」
「月國、聞いてくれ」
やたらと真剣な顔だ。私は胸が痛むのを感じたが、次の瞬間、彼はにやりと笑ってみせた。
「これ、俺、意外といけるかもしれねぇぜ!」
「本当か!?」
「おう。大体わかったし、しかも、今朝勉強したところも出たんだよ」
「よかったじゃん、武!」
いつのまにやら傍に来ていた結月がわぁっと歓声を上げる。興奮で頬を赤くした武が、抑えきれない笑みを浮かべながら何度も頷いている。
「すげぇ嬉しい。思ったより、ちょっといいところにいけるかも。せめて春孝と並べると良いな」
「きっと大丈夫さ!」私も笑う。「武は何だかんだ言って努力してきたんだもの」
「そうだよ!」
結月が武の肩を叩く。武は珍しく、素直に嬉しそうな身振りをして、にこにこと笑っていた。こんなに嬉しそうな武は久々に見た。
そうしていると、春孝も近くにやってきた。両手に、四人分のお弁当を抱えている。
花立の試の際、初品たちにはそれぞれ昼餉として弁当が用意されているのだ。滞りなく行き届くよう、弁当の蓋にはそれぞれの試験番号が記載されている。春孝はそれを全員分きっちり覚えていたらしい。食事となると目ざといのが彼だ。
「さぁ、腹ごしらえをして、午後の試験に挑もう」
彼はそう言い、長机の上に弁当を置く。
しかし、武がふんっ、と今度はすっかりいつもの調子で、鼻息を荒くした。
「こいつらには愛情たっぷりの特製おむすびがあるから弁当なんて要らないだろ」
「はは。まぁそうだけど」
笑っていいながら桜柄の手巾の包みを取り出すと、武はキィーッと高く悔しそうな声を上げる。私たちは笑い合いながら、それぞれおむすびや弁当を食べ始めた。
樹杏のおむすびは美味しかった。塩がいい具合で効いていて、しかも、中に卵焼きや焼肉の切れ端など、ちょっとした具材が詰め込まれている。これも朝餉の余りだろう。結月とおむすびの中身を見せ合いながら、美味しい、美味しいと呟きつつ食べていると、武がまた鼻息を荒くした。
「くっそぉ、この幸せ者め。仕方ねぇから、お前の弁当、俺が貰ってやるよ」
「おい、夜食にするんだからやめてくれよ」
「ははーん、そんなこと知るかよ。この弁当の焼き魚めちゃくちゃ美味いぜ」
制止したが、武は聞く耳を持たず、私の弁当箱を勝手に開ける。そして、美味しいという焼き魚に箸を伸ばし、それを半分に割って自らの口に運んだ。
「あぁ、もう……!」
私は笑いながらそう言い、残った半分に手を伸ばした。放っておくと、全部食べられかねないと思ったからだ。
――すると、突然、武が私の弁当箱を払い除けた。
横から強く叩かれた弁当箱は、床にひっくり返り、その中身を散乱させる。見るも無残な光景に、私も、残りの二人も、あぁと叫んだ。
「ちょっと! 流石にそれはひどくないか、武――」
私がそう責めようとした時だった。
武がぐらりと揺れた。そのまま勢いよく床に倒れ込む。重いものが抵抗なく床に激突した、鈍く大きな音が響き渡り、試験会場の初品はみな一斉に静まり返ってこちらを見た。床に倒れ込んだ武は、自らの喉を両手で掴み、あ、ぁ、と声にならない声を上げている。その目はあり得ないほど見開かれ、みるみるうちに充血していく。
「武!? 武!」
私は呼びかけながら武に飛びつき、その肩を揺すった。しかし、武はただ喉を抑えて苦しんでいる。その身体がぶるぶると震えはじめ、顔が青白くなり、唇から泡があふれ出す。
「武、武――」
私たち三人の呼びかけも虚しく、武は苦しみ続けている。
そして、武はいきなり私の手首を掴んだ。痛みを感じるほど力強かった。彼の充血した目が私を見る。何かを訴えようとしていた。その意図が分かる前に、ふっ、と武から全ての力が抜けた。私を掴んだその手が、ぱたりと床に落ちる。見開かれたままの目が宙に向けられている。
いくら声をかけ、揺さぶっても、武は何も答えなかった。
何度も何度も名前を呼び、その身体を揺すっていると、春孝が私の肩に手を置いた。
「……もう駄目だ」
――武は事切れていた。
私の手首には、彼が掴んだ赤い痕がありありと残っていた。それは時間が経つにつれ、何もなかったように消えてしまった。その手首の痕が消え去る頃、私は訳がわからないままに、武の胸に額を押し付け、咽び泣いていた。