第四話 花立を前に
もう打つ手はなかった。
男たちが腕を引く。このまま城から追放されてしまう。
どうすればいい。どうしたらいい。わからなかった。
輝かしい未来が自分から遠ざかっていくのを感じた。
絶望が背後まで迫ってきた、その瞬間だった。
「――確かに弓勝負は行われたぞ」
誰かがそう言った。顔を上げると、そこには、あの白い官服の男がいた。長く艶のある黒髪を一つに束ね、肩から前へ流している。顔つきは二十代前半といった若さだが、目つきは細く、知的で大人びて、年齢をより上に見せた。見れば見るほど造形の美しさが際立って感じる。彼は細くも骨ばった指をこちらに向けると、もう一度、はっきりと述べた。
「神楽月國とこの玉緒は弓勝負を行った。間違いない」
そして、その黒曜石のような瞳を玉緒へ向けた。玉緒は呆れたように空を見上げている。
「何故くだらぬ嘘を吐くのだ、玉緒」
「嘘なんか吐いてませんよ」玉緒は悪びれなく言ってのけた。「そんな覚えはないと言っただけです。最近物忘れが激しくていけませんねえ」
「……と、いうわけだ、十返舎」
白い官服の男が、赤い官服の男にそう呼びかけた。十返舎と呼ばれた彼は目を丸くし、何か言いたげに口を開閉させてみせる。そして、頭を何度か横に振った後、私の方を向いた。
「……その青年を離してやりなさい」
十返舎の命令で、周りの男たちはぎょっとしながらも私を離してくれた。ぎょっとしているのは私も同じである。
「いいん……ですか?」
縄を解かれながら尋ねると、十返舎は心底から深い溜息を吐きながら小さく頷いた。そうすると、一人の疲れ果てた老人に見え、何故か労わりたい気持ちが沸いてきた。
「えぇ。ご迷惑をおかけした。後で詫びの品でも贈ろう」
「いや、結構ですが……あっ」
視界の端で、玉緒と白い官服の男が立ち去ろうとするのが見えた。私は十返舎に頭を下げると、彼ら二人を追いかける。今度はちゃんと追いついた。あの、と声をかけると、玉緒が鋭い眼光で振り返る。
「一つだけ、聞かせてもらってもいいですか」
「……構わないぞ」
白い官服の男がにこりともせずに答えた。私は軽く頭を下げ、尋ねた。
「――どうして矢を外したんですか?」
「……は?」
男がぽかんと口を開ける。ほぼ同時に玉緒が噴き出し、慌てたように口元を手で押さえた。その様子に私は思わずムッとしてしまう。
「何笑ってるんですか。答えてください。ずっと気になってたんです」
「いや……一つだけ聞いておきたいのが、よりにもよってそれかと思って」
玉緒は両肩を震わせて笑っている。そのうちに耐えられなくなったのか、横の男の背中に顔を隠すようにして笑い始めた。盾にされた男はぶすっとした不機嫌そうな顔をして玉緒を睨んでから、私を見る。そして何か言おうとしたが、それを言う前に、後ろで笑っていた玉緒が突然真剣な顔をして彼の腕に軽く触れた。
「まずいですよ」
「どうした」
不機嫌そうな顔をしていた男も、玉緒の声で顔つきを変える。玉緒は低い声で素早く囁いた。
「行きましょう」
男は一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに頷いた。そして玉緒に導かれるままに踏み出し、私を振り返って言った。
「機会があればまた会おう、月國」
「あっ……質問は……!?」
呼び止めようとしたのだが、彼らは黒い官服の男たちの間を擦り抜け、雲門の方へするすると逃げて行ってしまう。思わず追いかけたが、彼らに追いつく前に、誰かに肩を押されて戻された。
「天上人が通られる。道を開けろ」
「え……」
見れば、雲門から紫色の官服を着た男が歩み出てきていた。紫色と言えば二品であり、十返舎よりも位が一つ高い。彼も死体の身元を確認しに来たらしく、眉間に悲しげな皺を寄せ、横になっている男へと歩み寄っていく。私を押し戻したのは、彼の警護の人間だったらしい。五、六人の黒い服の人間がその周りに控えている。
――玉緒と、あの男は。
ハッとして見渡してみると、彼らは、その集団の影に隠れるようにして、こっそりと雲門の中へ戻っていた。急いで追いかけようとしたが、目の前の集団に押しやられ、なかなか通れず、何とか雲門前へ辿り着いた時には、もう姿が見えなくなっていた。
*
「あーっ、疲れたーっ!」
思わずそんな声を上げながら、寝台に倒れ込む。ふかふかの布団が私を優しく受け止めてくれた。どんな日もこの瞬間が一番幸せである。枕に顔を押し付けて、あーあーと幸せからくる呻き声を上げていると、二段寝台の、私の上の段で寝ていた、結月がひょっこり顔を覗かせた。
「今日、大変だったらしいね」
官人たちは、正六品になるまでは城で寮生活をすることが定められている。品ごとに複数名で同じ部屋を共有し、私たち初品は四人で一つの部屋を使っていた。狭い部屋で、両端に二段の寝台が置かれており、その間には小さな丸机があるだけだ。ほとんど寝る為だけに使う部屋だったが、共同生活で性別を隠すには、その方がかえって都合が良かった。
結月とは、初めて話した時には同室だとは知らず、お互いに緊張しながら部屋へ向かったら、目的地が同じだったという愉快なことを体験した。今でもその話をしては笑っている。他にも二人、同室がいるのだが――
「ねぇ! 月國! 凄いよー!」
がらりと戸を開け、もう一人の同室、紫野春孝が入ってきた。春孝は少しぽっちゃりした青年で、始終にこにこと微笑んでいる。今もにこにこと微笑みながら、小綺麗に包装された箱を持って入ってきた。その箱を私へ差し出してくる。薄緑色の上質な包装紙に、何やら達筆で書かれていた。菓子名らしいが、私には覚えがない。
「これ、王林堂のカステラなんだけど、とっても美味しいって有名で、とっても高価なお菓子なんだよ! 知らないの?」
「そうなのか。それ、どうしたの?」
春孝の嬉しそうな様子につられて、こちらも微笑みながら尋ねると、彼は興奮したように私に言った。
「神楽月國へ、って三品の方からの贈り物らしいよ! 月國、何したの?」
「三品……?」
年老いた十返舎の顔がパッと浮かんだ。詫びの品でも贈る、と言っていたが、まさかこんな可愛らしい贈り物をしてくれるとは。厳格そうな見た目からは想像出来なかった。
「ちょっといろいろあって。それ、せっかくだし、みんなで食べようか」
「いいの?」春孝は両目を輝かせた。「やったぁ!」
「まぁ、こんな調子で来られたら、そうするしかないよね」
結月が笑いながら言う。そうすると、もう一つの寝台の上段で横になっていた青年――恵比寿武が怪訝そうな声で言った。
「俺は食べねー」
「どうして? 凄く美味しいんだよ」
春孝が手慣れた様子で包装紙を解きながら尋ねる。武はケッと悪態を吐いた。
「寝る前に甘いもんなんざ食べたら身体にわりィだろ。花立の試前なんだからケンコウカンリっつーやつも大事にしねぇとな」
「そんなつまらないことを言うなよ」私は笑いながら答えた。「疲れた身体には糖分も必要じゃないか?」
「何だよ。俺のこと馬鹿だって言いたいのか?」
「そんなこと誰も言ってない」
「馬鹿って言う方が馬鹿なんだぞ、ばーか」
「墓穴を掘ってることに気付け」
私がそう言い返すと、彼はムッとして勢いよく上半身を起こし、天井で思い切り頭を打ち付けた。そのままバタンと寝台に倒れ込み、今度は慎重に起き上がってくる。そして、寝台の柵から軽く身を出しながら、私にべっと舌を出してきた。毎度のことながら頭にきて、私も寝台から身を起こした。
「せっかくみんなで菓子を食べようって言ってるのに、天邪鬼なふるまいはよせよ。本当に君は成長しないね」
「べっつにー。俺が食べたくないって言ってるだけなんだから、ほっといて食べればいいだろ」
「あぁ、いいさ。君みたいな協調性のない人間とは一緒に菓子を食べる気にもならない。明日の仕事の為にもとっとと寝てしまえば?」
「ふーん。いいの? 本当に俺寝るけどいいの?」
「いいよ、いいよ、勝手に寝てしまえ!」
「後で寂しくなってもしらないからな!? 俺起きないからな!?」
「それはこっちの台詞だ! もう寝たものとして扱うぞ!」
「どういう意味だ!」
「無視するって言ってるんだよ!」
「はいはい、二人とも今日はそのへんにしておこうねえ」
春孝が箱からカステラを取り出し、私の口にぽいと放り込んだ。そして、梯子を少し登り、手を伸ばして、武の口にも放り込む。
噛んでみると、ふんわりとした食感だった。後からじんわりとした上品な甘さが滲み出てくる。噛めば噛むほど、舌の上で甘さが蕩けていくような不思議な感覚がした。気が付けば口の中からカステラが消えていて、思わず涎が溢れる。
春孝が丸机の上にカステラの箱を広げてくれている。私は手を伸ばし、もう一片手に取ろうとした。すると、武の方も梯子で下へ降りてきて、手を伸ばしている。目が合った。彼は感心したように言った。
「めちゃくちゃ美味しいな、これ」
「わかる」
私たちは深く頷き合い、カステラを手に取る。
その間で、結月と春孝がケラケラと楽しそうに笑っていた。
夜。私はなかなか寝付けなかった。十数回目の寝返りを打ち、深く息を吐く。
――玉緒と、あの白い官服の男は、一体何者なのだろう。
三品である十返舎は、刑部の副大臣である司冠に違いない。刑部とは、司法全般を管轄し、裁判や監獄の管理を行い、刑罰を執行する省のことである。司冠ともあろう十返舎が、白い官服の男の一言ですぐに私を解放してくれた。それが何とも不思議だった。
確か、弓の勝負が終わった時、あの男は「そろそろ皇子と謁見する時間だ」と言っていた。周りの人々も「皇子によろしく」と媚を売っていたし、皇子直属の楽士か詩人だろうか。白服は芸能に特化した者と、後は天上人の客人であることを示すから、遠方に住んでいる高貴な方かもしれない。
名前を呼びかけた様子からして、彼は十返舎と顔見知りのようだった。楽士や詩人などが刑部の文官と知り合い、かつあんな態度で話しかけているのはあまり理解が出来ない。とすると高貴な客人なのだろうか。
ううん、と唸りながら、もう一度寝返りを打った。気になることは他にもある。
あの死体。どうやら今年の春から三品に昇格することが決まっていた、四品の男だったらしい。城の中での殺人などめったに起こるものではない。一体なぜ、殺されたのだろうか。
そのことは考えてもさっぱりわからなかった。ごろり、ごろりと何度も寝返る。
考えてもわからないことを、ずっと考え続けても仕方がない。諦めて目を閉じると、今度は瞼の裏に、玉緒の顔が浮かんでくる。さっきからこの繰り返しだ。考えに考え、疲れて目を閉じると、玉緒を思い出す。何故か、彼が非常に心に引っかかっているのだった。
矢を外したのは、きっと私の為だ。私の為に、わざと外してくれた。では、どうして、十返舎の前で嘘を吐いたりしたのだろう。私には彼が何を考えているのかわからなかった。保身の為に嘘を吐いたのならば、私の為に矢を外すようなこともしなかったはずだ。天上人ではないとはいえ、上位の人間や、自分の警護対象の前でそんな真似をするのは、彼にとって不利益にしかならない。そんなことをやってのけたのに、しかし、十返舎の前では嘘を吐いた。一体何を考えているのだろう。
――それと、あの、鋭い目。
どこかで見たことがあるのに、やっぱり思い出せない。
考えすぎて頭が痛くなり、溜息と共に額に手をやると、ふと、視界の端で誰かがもぞもぞと動くのが見えた。身体を起こしてみると、武が梯子を使って寝台から降りてきていた。
「厠か?」
声をかけると、武は私が起きているとは思わなかったらしく、驚いて梯子から落ちそうになった。バタバタと空中で暴れた後、何とか梯子に食らいつき、体勢を立て直した。それから、私を鬼のような形相で睨みつけてきた。
「ご、ごめん」
「……まだ寝てなかったのかよ」
寝ている二人に気を遣ってか、彼は小さな声で機嫌が悪そうにそう吐き捨てた。うん、と答えながら、私も寝台から足を下ろす。武は部屋の窓に近づくと、それを広げ、空に輝く月を睨んだ。隣に並んで窓の外を見る。夜の冷たい風が頬を撫でた。さっきまで考えに煮詰まっていた分、爽快感を感じて心地が良かった。
私の気持ちとは裏腹に、武はぶすっとした顔で外を眺めていた。
「……どうしたんだ?」
尋ねると、彼はしばらく月を睨んだ後、呟くように言った。
「来週、花立の試だろ」
「うん」
「お前らはさ、賢いし、出来がいいから、良い成績を出せると思う。だから、従七品とか、なんかそんな品位まで辿り着けると思うんだ」
彼はそう言い、そこで言葉を切った。私は何も言わずに、彼の横顔を見つめていた。月光に照らされた横顔には、不機嫌そうな色が消え、その内側にあった、不安が滲み出ていた。
「でも俺は、馬鹿だから。多分、そんなとこまでいけない。今年の春、初品が入ってくる頃には、俺たちの品位はバラバラになってる。少なくとも、俺だけは、お前らよりずっと下にいると思う」
その瞳がじわりと湿っていくのを見て、私は驚いた。これほどまでに感傷的な武は初めて見た。
「一年間、同室として楽しくやってきたけど。もう……もうそんなの無理なんだなと思うと……」
寂しい――と彼は枯れた声を上げながら、ぐいと乱暴に滲んでいた涙を拭った。鼻を啜りあげ、涙の雫が零れぬように、また上方の月を睨んでいる。
「そうだな……」
はっきりと言葉にされ、初めて切なさが胸を締め付けた。一年という短い間だったが、本当に楽しい時間を過ごせた。武とは口喧嘩が絶えなかったが、それすらも楽しかったのだ。改めて考え直すと、ありえないほど苦しい気持ちになった。武につられたのか、私の両目にも涙が滲んでしまう。泣いてしまうのはみっともないと思った。慌てて手の甲で涙を拭い、鼻を啜って月を睨んでから、武と全く同じことをしているのに気付いた。
ふと彼を見ると、彼もそれに気が付いたようで、泣きそうな、それでいて可笑しそうな顔をしてこちらを見てくる。私もまた涙腺が熱くなったが、無理やりに唇を歪め、笑ってみせた。
「どれだけバラバラになっても、一カ月に一度くらいは、無礼講で集まって一晩中語り合おうよ」
私がそう言うと、武は何度か瞬きし、それから下手くそに笑ってみせた。
「酒を持ち寄って?」
「私はあまり酒が好きじゃないのだけど……まぁいいよ」
「そうだな、他にも、有名で美味しいお菓子を毎度用意しよう」
「大賛成だ」
私たちは顔を見合わせて笑う。お互い、今度はもっと自然に笑えた。
「月國、お前、天上人になれよ」
武がそう言い、私の肩を軽く叩いた。
「俺の友達は天上人だぞーって自慢して回るからさ」
「人の自慢の種にされるのは好きじゃない……けど武なら悪い気はしないな。その代わり、君も頑張れよ」
私も武の肩を叩き返した。彼はニヤリと不敵に笑う。
「おうよ。行けるとこまで行ってやる。お互い踏ん張ろうぜ」
「うん。帰る場所があるのなら、何も怖くないね」
「その通りだ」
もう一度私たちは笑みを交わし合う。武の顔からはすっかり不安の色は消え失せていた。
――そう。駆け上がり、天上人になって、女の道を切り開く。
私には夢がある。こんなところで立ち止まってはいられない。
自分の両頬を軽く叩く。よし、と呟いた。
「明日も朝から勉強したいから、もう寝るよ。おやすみ」
「俺も寝るよ。おやすみ」
夜の挨拶を交わし、寝台に潜り込んだ。枕に頭を預け、目を閉じる。さっきよりもずっと穏やかな気持ちだった。緩やかに睡魔が訪れるのを感じながら、私は眠りに落ちていった。
課題が山積みなのについつい書いてしまう。
更新できる時にはたくさん更新して、忙しい時はのんびりと、一歩ずつ頑張っていこうと思います。
喧嘩友達っていいよね。