表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
55/55

月に吠える 3


 ――眩しさを感じて、目が覚めた。


 ぱっ、と開けた視界に、僅かに日の光が差している。朝だ。

 そう気が付いた途端、ぞぞぞ、と全身の血の気が引いていった。


「まずい、草案が――」

「出来ましたよ」


 あっさりとした返事が返ってきて、ぎょっとして隣を見れば、卓に片肘をつくようにしながら、犬山遼がしきりに目をこすっているところだった。その卓の上には草案の紙が置かれており、慌てて手を伸ばして改めてみれば、ちゃんと形になっていた。最後の方だけ、遼の字に変わっている。


「ええと……私……」

「途中で倒れたんですよ。最近、寝不足だったんじゃないですか? ばたりと倒れたかと思ったら、眠り始めたので驚きました」


 かなり疲れているのだろう、遼の両目の、いつもの鬱陶しいほどの輝きが褪せていた。しょぼしょぼした目をこすり、彼は欠伸をする。


「続きをやってくれたのか……ありがとう」

「ほとんど先輩がやってましたから」


 彼は乾いた声でそう言い、それから、いきなり自分の両頬を叩くと、私に向き直った。さっ、と膝を揃え、床に両指をつく。


「あの、」

「何だ……」

「――今まで、済みませんでした。僕、あなたのことを、色々と誤解していました」


 遼は色素の薄い目で草案を見つめながら、悔しげな顔をして言う。


「あなたが裏工作をして昇格したものだとばかり、思ってました。けど、あなたは、本当に、実力だけで、正六品におなりになったんですね。今までの無礼、お許しください」

「わかってくれたならいいんだよ……あぁ、あぁ、頭上げてってば」


 遼は額を床に擦り付けるようにして謝っている。私が繰り返し「頭を上げて」とお願いしても、なかなか上げようとしなかった。


 それにしても、今回の事件でどうなることかと思ったが、結果として、良い方に転んだらしい。草案は完成したし、遼の誤解も解けたようだし、一件落着だ。あとは、朝の見廻りの人間が書庫を開けてくれるのを待てばいい。


 そう思って気楽な溜息を吐いた時、やっと遼が顔を上げた。

 その瞳が、何か言いたげに揺れていた。


「あの、月國、先輩……」

「ん――」


 聞き返そうとした時、何やら人の話し声が聞こえてきた。扉が開けられる音がする。


「あっ、遼! 書庫が開いたみたいだぞ、草案を提出しに行こう!」

「え、あ……はい!」


 私は草案を引っ掴み、官人たちにギョッとした目で見られながら、書庫から飛びだした。


 結局、その日は天上に草案を押し上げたり、昨日やれなかった仕事の処理をしたりで大忙しで、遼が何か言おうとしていた、ということを思い出したのは、夜、部屋に戻ってからだった。



                 *


 ぺらり、と玉緒から貰った本の頁をめくった時、控えめに戸を叩く音がした。


 ――玉緒?


 僅かな期待に心臓が跳ね、何だかそれがやたらと恥ずかしい。

 どうぞ、と声をかけると、しかし、入ってきたのは遼だった。


「遼か。どうしたんだ?」

「……あの、少し、お話があって」


 遼は暗い顔をして、後ろ手で扉を閉める。

 そういえば、朝、書庫の中でも何か言いかけていたな、とやっと思い出した。本を卓の上に置くと、私は膝を遼の方に向ける。遼は「失礼」と言いながら、私の前に慎重に腰を下ろした。


「あの……その、」

「何、どうした? 謝罪ならもういいよ、わかってくれたならそれでいいから」

「そうではなくて」


 早口だが、はっきりとした否定だった。


「じゃあ、何なんだ?」


 呆れて笑いながら尋ねれば、遼は膝の上で拳を握り、とても真剣な表情をして、私を見た。


「――月國先輩は、女性であられるのでしょう」


 ――息が詰まった。

 まずい、と感じた時には遅く、「いや、」と声を上げた時には、もう遼の表情には確信が浮かんでいた。


「やっぱり。倒れたあなたを抱えた時に気付きました。確か、神楽家には双子の男女がいたはずです。もう一人のふりをして、出仕しているのでしょう」

「……」


 言葉が出ない。流石は今年の『玉輝』なだけはある。遼は馬鹿ではないのだ。馬鹿ではない、それどころか、今年一の天才なのだ。だからこそ『玉輝』なのだから。適当な言い訳では誤魔化せない――まずい、まずすぎる、どうする? 

 ぐるぐると思考が渦巻く。しかし、言葉は勝手に飛びだした。


「誰にも言わないでくれ」


 強い口調でそう言えば、遼は僅かに怯んだように見えた。ややあって、彼は声を絞り出す。


「どうして、女性なのに、官人になっているのですか……?」

「なりたいからだよ。城で生きて、天上人になる。私の夢だ。いつか父を超えるほどの天上人になるんだ」

「……夢、」遼は目を伏せる。「けど、女性が一人でなんて……大変でしょう」

「大変なのは、男も女も変わらないだろう。お前は大変じゃないのか?」

「大変です、けど」

「ほら」


 微笑んでやれば、遼は言葉を濁らせる。

 それで? ――と私は姿勢を正した。


「私を脅しに来たのか?」

「違います」

「違うのか」

「はい。そうじゃなくて……その……あの、急にこんなことを言って、手の平を返すようで、とても恥ずかしい思いなのですが――あなたを支えたいんです」


 ――予想外のことを言われ、頭が真っ白になった。


「支え……?」

「はい。僕は、城にいる人間は、特に順調に出世を重ねている人間は、みんな薄汚れているものだと思ってました。世渡りばかり上手で、中身がないんだって。でも、あなたは違う。あなたみたいな人に、ずっと会いたかった。草花を蹴散らしていく獣に、堂々と立ち向かえる人に」


 遼の目にはやけに熱がこもっている。

 きっと、私こそが、草花を蹴散らしていく獣だと、ずっと思っていたのだろう。だからこそ、今まであんなに噛みついてきたのだろう、とすぐに察しがいった。


「そんな風に褒めて貰えるのはありがたいけど……」

「あなたには折れて欲しくない」遼は真剣な声で言った。「この汚い世界じゃ、あなたほど真っ直ぐすぎる人が進んでいくのは大変だろうけど……だからこそ僕はあなたの支えになりたいんです。これからは、僕も、頼ってくれませんか。僕だって『玉輝』です。あなたの力になる。あなたの支えになる」

「遼――」

「あなたみたいな人にずっと会いたかったんです」


 遼は少しだけ泣きそうだった。感極まっているのだろう。急に、そういえば、この子は私よりも年下だったなぁ、とそういう感慨が生まれた。反射的に腕が伸び、その柔らかな癖毛を撫ででしまっていた。


 私の支えになりたい、と言っているけど、実際のところ、支えて欲しいのは遼なのだろう。きっと今まで、ひとりぼっちで、自分の信じる正義を握りしめてきたのだろうから。彼の隣には、月矢も、結月も、春孝も、武も、樹杏も、迅も、吉祥も、そして、玉緒も、誰も、いなかったのだから。


「遼、」

「月國先輩」

「――悪いけど、支えは要らない」


 ――あっさりとそう答えれば、遼は拍子抜けしたように両目を悪くした。


「もう、いるんだ。甘えてもいいよ、って言ってくれる存在が。彼が私にとっての支えだ。他にも、私の信条を理解してくれる友はたくさんいる。だから、私は大丈夫だよ」


 あえて口に出すと、少しだけ恥ずかしい。そう思いながらはにかめば、遼は気まずそうに口ごもり、俯いた。


「す、済みません、出過ぎたことを言いました……」

「うん。――だから、支えになるとか言ってないで、遼も自分がやりたいように生きなさい」

「……え?」

「さっき、私のことを、草花を蹴散らしていく獣に、堂々と立ち向かえる人だって、言ってくれただろう? じゃあ、そういう人を支えるんじゃなくて、お前がそういう人になればいいじゃないか」


 遼はハッとして顔を上げ、私を見る。その目に、さっきまでとは違う光が宿っている気がした。


「お前の未熟なところは、私が先輩として叩き直してやる!」


 えっへん、と笑いながら腕を叩けば、遼は僅かに頬を引き攣らせた。しかし、ややあって、彼はいきなり吹き出すと、くすくすと楽しげに笑いだした。


「そうですね――そう言われれば、その通りです。なんていうか……僕は本当に馬鹿でした」

「何だ、藪から棒に」

「あなたも巻き込まれていた、化野家の事件、あれで、初品が一人亡くなったのを知っていますか? ひっそりと亡くなってしまった彼の事が可哀そうで……僕、せめて、あなたの裏工作を暴こうと思ってたんです。それが彼への手向けになるかなと思って。でも……全然、違いましたね」

「初品? それ、恵比寿武のことか?」

「え、ご存知なんですか?」

「ご存知も何も、武は私の友達だ。同室だったんだよ」


 そう答えれば、遼は心底驚いたように両目を丸くした。


「お前、武のことを想って、私の裏を暴こうとしたのか」

「……と、とんだ見当違いでしたね」

「いや、でも……嬉しいよ、あいつのことを、そう想ってくれる人がいて」


 じわ、と胸が熱くなるのを感じた。


 武、私の部下は、熱すぎて、猪突猛進過ぎるけれど、でも、とってもいい子だ。

 知りもしないお前のことを、こんなに思ってくれてたぞ。


 心の中で武に囁きながら、私は微笑んだ。


「武とも誓ったんだ――私は天上人になる。だからお前も、私の支えだなんて言ってないで、自分の信じる道を行け」

「――はい」


 遼は大きく頷いた。

 肩の荷がおりたような、そんなすっきりした顔をしていた。これから大きく羽ばたいてくれればいい。私も、負けないようにしないと。




 遼が部屋を立ち去り、わずかな時間が経って、ふと、気配がした。

 振り向けば、玉緒が戸を閉めているところだった。驚きで息が止まり、しかしすぐに言葉が飛びだす。


「挨拶くらいして入れ」

「悪い悪い」

「いつからそこに?」

「さっき、お前の部下がこの部屋に入った時から、廊下に」

「――ずっといたのか」


 呆れ笑いを零した瞬間、ふと気づく。


 甘えさせてくれる存在がいるから、大丈夫。そう、遼に言ったのだった。遼が部屋に入ってきた時から廊下にいたのなら、その会話も聞かれているはずだ。恥ずかしくなってきて、急に頬が熱くなった。


「あー、あー? あー、その、玉緒、」

「さっきの部下、ちょっと月國に似てるよな」

「え? どこが」

「こう、目標しか見えてなさそうなところが」

「なぁ、いつも思うんだけど、いつも馬鹿にしてないか?」

「馬鹿にはしてないよ。客観的な分析だ」

「本当に?」

「もちろん。何だ? 支えだって言ってくれるわりに、信じてはくれないわけか?」

「……」


 やっぱり聞かれていた。

 玉緒は私をからかって、くくく、と低く笑い声を上げている。

 なんなんだ、人が書庫に閉じ込められてるような時は助けに来なくて、こんな間の悪い時にやってくるなんて。全く。


「ま、でも油断ならない奴だな」


 玉緒は笑いながら、私の隣に腰をおろす。

 卓の上に置いた蝋燭の火で、彼の顔がぼんやりと照らされている。遼の時は何も思わなかったのに、やけに、近い、と感じた。駄目だ、駄目だ、余計な事を考えると心臓がうるさくなる。


「遼が?」

「あぁ。お前の支えになる、とか言い出して。お前が頷いたらどうしようかと思った」

「どうして?」

「だって、それは」


 玉緒は何か答えようとして、しかし、口ごもる。

 臆病な奴だ。いつでも。肝心なことは口にしない。


 ふ、とその顔を見れば、至近距離で目が合う。玉緒の黒い瞳の中で、蝋燭の火がちらちらと揺れていた。

 僅かに心臓が跳ねる。一度鼓動が速くなると、止められなかった。


「玉緒、」


 呼びかけに反応するように、玉緒が動いた。彼の指が私の頬を撫でる。心臓が暴れ出し、苦しくて、逃げ出したいくらいだった。でも、目が玉緒から離せない。縫い付けられたみたいにその場から動けない。

 玉緒が少しだけ身を寄せてきた――しかし、彼は困ったように眉を寄せると、パッと手を離した。


「こういうのは苦手だ」


 目を回したような表情をして、玉緒が言う。


 ――苦手って、何だよ。

 私は思わず、カチンとくるのを覚えた。


「苦手? 何それ。私なんか、まだ李燕としかしたことないから、苦手かどうかすらよくわかんないわよ」


 うわ、子供みたいな言い方になった。言いながら自覚して、一気に恥ずかしくなる。


「ごめん、忘れて――」


 慌てて打ち消そうとした時、離れたはずの玉緒の手が、また伸ばされたのが視界に写った。え、と思った途端、柔らかな感触が唇を覆う。驚きで反射的に目を閉じると、その感触は一瞬で離れていく。しかし、再び戻ってきて、繰り返し、口づけが落とされた。一瞬だけ静止した心臓が、どんどんと高鳴り、激しくなってもうどうしようもない。息の仕方を忘れそうなほど長い間そうしていて、そしてややあって、玉緒のため息が聞こえてきた。

 そ、と目を開ければ、玉緒が眉をわずかに寄せている。


「結婚もしていない男女がこういうことをするの、俺は好きじゃないんだ」

「じ、自分からしたくせに」

「仕方ない」


 訳が分からない。眉を跳ね上げれば、対照的に玉緒は肩を竦め、そして私の頭を優しく撫でた。ありえないほど優しい手つきで、また逃げ出したくなる。



「ね、玉緒、」


 呼びかけたら、ん? と優しい声が返ってくる。


 好きだよ、と言いたかったけど、まだ、言う勇気がなかった。

 私たちはまだ恋人でも、婚約者でも、何でもない。

 そういう生真面目な約束をするのは、恥ずかし過ぎて、駄目なのだ。


「……なんでもない」

「どうした」

「いや、別に大したことじゃないからさ」

「そうか。ところで、月國、」

「ん?」


 玉緒は両目を細め、あっさりと言った。


「好きだよ」

「…………えっ」

「何をびっくりしてるんだよ」

「いや、え、何か、いや、まさか、そうくるとは思わなくて」


 はは、と玉緒は笑っている。


「玉緒って、ほんと、いつも、予想外だ」

「……それは、お前自体が予想外の塊のようなものだから、俺の普通の行動が予想外に見えるだけだと思うぞ。ほら、変人が一般人を見たら変人だと思うのと同じ原理だ」

「ねぇ、やっぱり馬鹿にしてるよね?」

「してないってば」

「……」

「睨むな」


 まだ玉緒は笑っている。

 ぽんぽん、と頭を叩かれて、むむむと湧き出ていた気持ちがすぅっと抜けていった。


 次はちゃんと言おう。そんなことを心に決めて、私は微笑み返した。

更新遅くなって済みません。

番外編/月に吠える 完結です。本編が微糖なので、ちょっと甘さを増やしてみました。最後の最後だけですが笑


また気が向いたら、違う番外編を書こうかな?とか思ってます。

樹杏が今回出せなかったので、彼女に注目するのも面白そうですね。


ここまで読んでくださりありがとうございました!

よかったら、感想・コメント等お待ちしております。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ