月に吠える 3
――眩しさを感じて、目が覚めた。
ぱっ、と開けた視界に、僅かに日の光が差している。朝だ。
そう気が付いた途端、ぞぞぞ、と全身の血の気が引いていった。
「まずい、草案が――」
「出来ましたよ」
あっさりとした返事が返ってきて、ぎょっとして隣を見れば、卓に片肘をつくようにしながら、犬山遼がしきりに目をこすっているところだった。その卓の上には草案の紙が置かれており、慌てて手を伸ばして改めてみれば、ちゃんと形になっていた。最後の方だけ、遼の字に変わっている。
「ええと……私……」
「途中で倒れたんですよ。最近、寝不足だったんじゃないですか? ばたりと倒れたかと思ったら、眠り始めたので驚きました」
かなり疲れているのだろう、遼の両目の、いつもの鬱陶しいほどの輝きが褪せていた。しょぼしょぼした目をこすり、彼は欠伸をする。
「続きをやってくれたのか……ありがとう」
「ほとんど先輩がやってましたから」
彼は乾いた声でそう言い、それから、いきなり自分の両頬を叩くと、私に向き直った。さっ、と膝を揃え、床に両指をつく。
「あの、」
「何だ……」
「――今まで、済みませんでした。僕、あなたのことを、色々と誤解していました」
遼は色素の薄い目で草案を見つめながら、悔しげな顔をして言う。
「あなたが裏工作をして昇格したものだとばかり、思ってました。けど、あなたは、本当に、実力だけで、正六品におなりになったんですね。今までの無礼、お許しください」
「わかってくれたならいいんだよ……あぁ、あぁ、頭上げてってば」
遼は額を床に擦り付けるようにして謝っている。私が繰り返し「頭を上げて」とお願いしても、なかなか上げようとしなかった。
それにしても、今回の事件でどうなることかと思ったが、結果として、良い方に転んだらしい。草案は完成したし、遼の誤解も解けたようだし、一件落着だ。あとは、朝の見廻りの人間が書庫を開けてくれるのを待てばいい。
そう思って気楽な溜息を吐いた時、やっと遼が顔を上げた。
その瞳が、何か言いたげに揺れていた。
「あの、月國、先輩……」
「ん――」
聞き返そうとした時、何やら人の話し声が聞こえてきた。扉が開けられる音がする。
「あっ、遼! 書庫が開いたみたいだぞ、草案を提出しに行こう!」
「え、あ……はい!」
私は草案を引っ掴み、官人たちにギョッとした目で見られながら、書庫から飛びだした。
結局、その日は天上に草案を押し上げたり、昨日やれなかった仕事の処理をしたりで大忙しで、遼が何か言おうとしていた、ということを思い出したのは、夜、部屋に戻ってからだった。
*
ぺらり、と玉緒から貰った本の頁をめくった時、控えめに戸を叩く音がした。
――玉緒?
僅かな期待に心臓が跳ね、何だかそれがやたらと恥ずかしい。
どうぞ、と声をかけると、しかし、入ってきたのは遼だった。
「遼か。どうしたんだ?」
「……あの、少し、お話があって」
遼は暗い顔をして、後ろ手で扉を閉める。
そういえば、朝、書庫の中でも何か言いかけていたな、とやっと思い出した。本を卓の上に置くと、私は膝を遼の方に向ける。遼は「失礼」と言いながら、私の前に慎重に腰を下ろした。
「あの……その、」
「何、どうした? 謝罪ならもういいよ、わかってくれたならそれでいいから」
「そうではなくて」
早口だが、はっきりとした否定だった。
「じゃあ、何なんだ?」
呆れて笑いながら尋ねれば、遼は膝の上で拳を握り、とても真剣な表情をして、私を見た。
「――月國先輩は、女性であられるのでしょう」
――息が詰まった。
まずい、と感じた時には遅く、「いや、」と声を上げた時には、もう遼の表情には確信が浮かんでいた。
「やっぱり。倒れたあなたを抱えた時に気付きました。確か、神楽家には双子の男女がいたはずです。もう一人のふりをして、出仕しているのでしょう」
「……」
言葉が出ない。流石は今年の『玉輝』なだけはある。遼は馬鹿ではないのだ。馬鹿ではない、それどころか、今年一の天才なのだ。だからこそ『玉輝』なのだから。適当な言い訳では誤魔化せない――まずい、まずすぎる、どうする?
ぐるぐると思考が渦巻く。しかし、言葉は勝手に飛びだした。
「誰にも言わないでくれ」
強い口調でそう言えば、遼は僅かに怯んだように見えた。ややあって、彼は声を絞り出す。
「どうして、女性なのに、官人になっているのですか……?」
「なりたいからだよ。城で生きて、天上人になる。私の夢だ。いつか父を超えるほどの天上人になるんだ」
「……夢、」遼は目を伏せる。「けど、女性が一人でなんて……大変でしょう」
「大変なのは、男も女も変わらないだろう。お前は大変じゃないのか?」
「大変です、けど」
「ほら」
微笑んでやれば、遼は言葉を濁らせる。
それで? ――と私は姿勢を正した。
「私を脅しに来たのか?」
「違います」
「違うのか」
「はい。そうじゃなくて……その……あの、急にこんなことを言って、手の平を返すようで、とても恥ずかしい思いなのですが――あなたを支えたいんです」
――予想外のことを言われ、頭が真っ白になった。
「支え……?」
「はい。僕は、城にいる人間は、特に順調に出世を重ねている人間は、みんな薄汚れているものだと思ってました。世渡りばかり上手で、中身がないんだって。でも、あなたは違う。あなたみたいな人に、ずっと会いたかった。草花を蹴散らしていく獣に、堂々と立ち向かえる人に」
遼の目にはやけに熱がこもっている。
きっと、私こそが、草花を蹴散らしていく獣だと、ずっと思っていたのだろう。だからこそ、今まであんなに噛みついてきたのだろう、とすぐに察しがいった。
「そんな風に褒めて貰えるのはありがたいけど……」
「あなたには折れて欲しくない」遼は真剣な声で言った。「この汚い世界じゃ、あなたほど真っ直ぐすぎる人が進んでいくのは大変だろうけど……だからこそ僕はあなたの支えになりたいんです。これからは、僕も、頼ってくれませんか。僕だって『玉輝』です。あなたの力になる。あなたの支えになる」
「遼――」
「あなたみたいな人にずっと会いたかったんです」
遼は少しだけ泣きそうだった。感極まっているのだろう。急に、そういえば、この子は私よりも年下だったなぁ、とそういう感慨が生まれた。反射的に腕が伸び、その柔らかな癖毛を撫ででしまっていた。
私の支えになりたい、と言っているけど、実際のところ、支えて欲しいのは遼なのだろう。きっと今まで、ひとりぼっちで、自分の信じる正義を握りしめてきたのだろうから。彼の隣には、月矢も、結月も、春孝も、武も、樹杏も、迅も、吉祥も、そして、玉緒も、誰も、いなかったのだから。
「遼、」
「月國先輩」
「――悪いけど、支えは要らない」
――あっさりとそう答えれば、遼は拍子抜けしたように両目を悪くした。
「もう、いるんだ。甘えてもいいよ、って言ってくれる存在が。彼が私にとっての支えだ。他にも、私の信条を理解してくれる友はたくさんいる。だから、私は大丈夫だよ」
あえて口に出すと、少しだけ恥ずかしい。そう思いながらはにかめば、遼は気まずそうに口ごもり、俯いた。
「す、済みません、出過ぎたことを言いました……」
「うん。――だから、支えになるとか言ってないで、遼も自分がやりたいように生きなさい」
「……え?」
「さっき、私のことを、草花を蹴散らしていく獣に、堂々と立ち向かえる人だって、言ってくれただろう? じゃあ、そういう人を支えるんじゃなくて、お前がそういう人になればいいじゃないか」
遼はハッとして顔を上げ、私を見る。その目に、さっきまでとは違う光が宿っている気がした。
「お前の未熟なところは、私が先輩として叩き直してやる!」
えっへん、と笑いながら腕を叩けば、遼は僅かに頬を引き攣らせた。しかし、ややあって、彼はいきなり吹き出すと、くすくすと楽しげに笑いだした。
「そうですね――そう言われれば、その通りです。なんていうか……僕は本当に馬鹿でした」
「何だ、藪から棒に」
「あなたも巻き込まれていた、化野家の事件、あれで、初品が一人亡くなったのを知っていますか? ひっそりと亡くなってしまった彼の事が可哀そうで……僕、せめて、あなたの裏工作を暴こうと思ってたんです。それが彼への手向けになるかなと思って。でも……全然、違いましたね」
「初品? それ、恵比寿武のことか?」
「え、ご存知なんですか?」
「ご存知も何も、武は私の友達だ。同室だったんだよ」
そう答えれば、遼は心底驚いたように両目を丸くした。
「お前、武のことを想って、私の裏を暴こうとしたのか」
「……と、とんだ見当違いでしたね」
「いや、でも……嬉しいよ、あいつのことを、そう想ってくれる人がいて」
じわ、と胸が熱くなるのを感じた。
武、私の部下は、熱すぎて、猪突猛進過ぎるけれど、でも、とってもいい子だ。
知りもしないお前のことを、こんなに思ってくれてたぞ。
心の中で武に囁きながら、私は微笑んだ。
「武とも誓ったんだ――私は天上人になる。だからお前も、私の支えだなんて言ってないで、自分の信じる道を行け」
「――はい」
遼は大きく頷いた。
肩の荷がおりたような、そんなすっきりした顔をしていた。これから大きく羽ばたいてくれればいい。私も、負けないようにしないと。
遼が部屋を立ち去り、わずかな時間が経って、ふと、気配がした。
振り向けば、玉緒が戸を閉めているところだった。驚きで息が止まり、しかしすぐに言葉が飛びだす。
「挨拶くらいして入れ」
「悪い悪い」
「いつからそこに?」
「さっき、お前の部下がこの部屋に入った時から、廊下に」
「――ずっといたのか」
呆れ笑いを零した瞬間、ふと気づく。
甘えさせてくれる存在がいるから、大丈夫。そう、遼に言ったのだった。遼が部屋に入ってきた時から廊下にいたのなら、その会話も聞かれているはずだ。恥ずかしくなってきて、急に頬が熱くなった。
「あー、あー? あー、その、玉緒、」
「さっきの部下、ちょっと月國に似てるよな」
「え? どこが」
「こう、目標しか見えてなさそうなところが」
「なぁ、いつも思うんだけど、いつも馬鹿にしてないか?」
「馬鹿にはしてないよ。客観的な分析だ」
「本当に?」
「もちろん。何だ? 支えだって言ってくれるわりに、信じてはくれないわけか?」
「……」
やっぱり聞かれていた。
玉緒は私をからかって、くくく、と低く笑い声を上げている。
なんなんだ、人が書庫に閉じ込められてるような時は助けに来なくて、こんな間の悪い時にやってくるなんて。全く。
「ま、でも油断ならない奴だな」
玉緒は笑いながら、私の隣に腰をおろす。
卓の上に置いた蝋燭の火で、彼の顔がぼんやりと照らされている。遼の時は何も思わなかったのに、やけに、近い、と感じた。駄目だ、駄目だ、余計な事を考えると心臓がうるさくなる。
「遼が?」
「あぁ。お前の支えになる、とか言い出して。お前が頷いたらどうしようかと思った」
「どうして?」
「だって、それは」
玉緒は何か答えようとして、しかし、口ごもる。
臆病な奴だ。いつでも。肝心なことは口にしない。
ふ、とその顔を見れば、至近距離で目が合う。玉緒の黒い瞳の中で、蝋燭の火がちらちらと揺れていた。
僅かに心臓が跳ねる。一度鼓動が速くなると、止められなかった。
「玉緒、」
呼びかけに反応するように、玉緒が動いた。彼の指が私の頬を撫でる。心臓が暴れ出し、苦しくて、逃げ出したいくらいだった。でも、目が玉緒から離せない。縫い付けられたみたいにその場から動けない。
玉緒が少しだけ身を寄せてきた――しかし、彼は困ったように眉を寄せると、パッと手を離した。
「こういうのは苦手だ」
目を回したような表情をして、玉緒が言う。
――苦手って、何だよ。
私は思わず、カチンとくるのを覚えた。
「苦手? 何それ。私なんか、まだ李燕としかしたことないから、苦手かどうかすらよくわかんないわよ」
うわ、子供みたいな言い方になった。言いながら自覚して、一気に恥ずかしくなる。
「ごめん、忘れて――」
慌てて打ち消そうとした時、離れたはずの玉緒の手が、また伸ばされたのが視界に写った。え、と思った途端、柔らかな感触が唇を覆う。驚きで反射的に目を閉じると、その感触は一瞬で離れていく。しかし、再び戻ってきて、繰り返し、口づけが落とされた。一瞬だけ静止した心臓が、どんどんと高鳴り、激しくなってもうどうしようもない。息の仕方を忘れそうなほど長い間そうしていて、そしてややあって、玉緒のため息が聞こえてきた。
そ、と目を開ければ、玉緒が眉をわずかに寄せている。
「結婚もしていない男女がこういうことをするの、俺は好きじゃないんだ」
「じ、自分からしたくせに」
「仕方ない」
訳が分からない。眉を跳ね上げれば、対照的に玉緒は肩を竦め、そして私の頭を優しく撫でた。ありえないほど優しい手つきで、また逃げ出したくなる。
「ね、玉緒、」
呼びかけたら、ん? と優しい声が返ってくる。
好きだよ、と言いたかったけど、まだ、言う勇気がなかった。
私たちはまだ恋人でも、婚約者でも、何でもない。
そういう生真面目な約束をするのは、恥ずかし過ぎて、駄目なのだ。
「……なんでもない」
「どうした」
「いや、別に大したことじゃないからさ」
「そうか。ところで、月國、」
「ん?」
玉緒は両目を細め、あっさりと言った。
「好きだよ」
「…………えっ」
「何をびっくりしてるんだよ」
「いや、え、何か、いや、まさか、そうくるとは思わなくて」
はは、と玉緒は笑っている。
「玉緒って、ほんと、いつも、予想外だ」
「……それは、お前自体が予想外の塊のようなものだから、俺の普通の行動が予想外に見えるだけだと思うぞ。ほら、変人が一般人を見たら変人だと思うのと同じ原理だ」
「ねぇ、やっぱり馬鹿にしてるよね?」
「してないってば」
「……」
「睨むな」
まだ玉緒は笑っている。
ぽんぽん、と頭を叩かれて、むむむと湧き出ていた気持ちがすぅっと抜けていった。
次はちゃんと言おう。そんなことを心に決めて、私は微笑み返した。
更新遅くなって済みません。
番外編/月に吠える 完結です。本編が微糖なので、ちょっと甘さを増やしてみました。最後の最後だけですが笑
また気が向いたら、違う番外編を書こうかな?とか思ってます。
樹杏が今回出せなかったので、彼女に注目するのも面白そうですね。
ここまで読んでくださりありがとうございました!
よかったら、感想・コメント等お待ちしております。