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月に吠える 2


 ――玉緒が本をくれてから一週間。

 結局、私は毎晩毎晩、その本に夢中になり、すっかり寝不足になったのであった。


「月國、」


 睡魔と戦いつつも書類に判を押し続けていると、もうお世話になるのも二年目の先輩――灰原蓮見はいばらのはすみが、やけに青い顔をして現れた。


「どうしました?」

「あれどうなった?」

「あれ?」


 問い返せば、彼はこくこくと頷き、困ったように眉を寄せて言った。


「白虎国の天上人を招待することに関する草案だよ。各省から上がってきてたから、相互関係を確認して齟齬を改めて、天上に上げておけと言っただろ?」


 ――は?


 一瞬、言葉が出なかった。思わず口を噤めば、彼はぎょっと両目を丸くする。


「おい、まさか、お前、忘れてたのか!?」

「ち、違います……――そんな案件、初耳ですよ……!」

「初耳? そんなわけないだろう、一週間も前に下したはずだぞ」


 眠気で緩んでいた頭がいきなり冴え渡る。ぐるぐると記憶を巡らせてみるが、全くもって、そんなことを命じられた記憶はなかった。


 白虎国の天上人――彼の国では『天上人』という言い方はしないが、便宜上、私たちはそう呼んでいる――をこちらへ招待し、国内を見てもらう、という、言い変えれば留学を受け入れるという話は、私も知っていた。玉龍国に比べ、白虎国は王の権力が強く、未だに官僚制度は整い切っていない。玄天国のような絶対王政へと舵を切るのか、それとも玉龍国の官制に寄せるのか、と様子を窺っていたわけだが、後者を選んでくれたらしい。それはつまり、白虎国と玉龍国の結びつきがさらに強くなるということでもあり、迅が『平和で、望ましい未来』として考えている条件の一つでもあった。

 だからこそ、白虎国からの客人は丁寧に迎え入れなければならないのに――


「忘れるわけありませんよ、私はそんな命令聞いてません。誰か別の人が担当してるんじゃ……」

言いましたよ(・・・・・・)


 いきなり、とぼけたような声がした。

 振り返れば、犬山遼が立っていて、そして私の卓の上にどさりと書類の束を置いた。


「これですよ。一週間前に、ちゃんと、言ったじゃないですか。月國先輩」


 全身の血液が凍り付いた気がした。慌てて書類にかじりつけば、それは確かに件のものだった。しかし、私はそれを初めて見た。それがどういうことか? 考えなくても分かる。


 はめられたのだ、犬山遼に。

 彼はあの書類を私に渡すよう命じられておきながら、こっそり隠蔽していたのだ。


「遼……お前……」

「え、僕のせいにするんですか?」遼は素っ頓狂な声を放つ。「あなたが忘れてたんでしょう。そりゃあ、再度確認しなかった僕も悪かったかもしれませんが、まさか、月國先輩ともあろう人が、こんな失敗をするなんて思わなくって……」


 だって、昨年の『玉輝』の方ですよ? と遼はぱちぱち瞬きしながら言う。

 

「遼! いい加減に――」

「おい、責任の押し付け合いは後にしてくれよ」


 蓮見は慌てたように両手を広げ、私たちの間に立った。彼は私より十近く年上の正五品だ。いつでも公正で親切な人物であり、だからこそ、こんな企みに力を貸したとは思えない。どう考えても、遼の独断だ。


「わけがわからん、月國の失敗か、遼の伝達が悪かったのか知らんが、とにかく、この草案は明日までに天上に上げにゃいかんのだ。そうしないと、大変な責任問題になる。他の省にも迷惑がかかるんだ。別の仕事は他の奴に回して、これにかかってくれ」

「一日で間に合うわけないじゃないですか」


 いきなり、遼が強い口調で言った。


「それより、天上人の方にお願いして、猶予を頂いた方がいいんじゃないですかね」

「お前なぁ」蓮見がぼりぼりと頭を掻いた。「簡単に言うが、どうやってお願いするんだよ。私は天上に親族も知り合いもいないぜ」

「えぇ、僕もそこまで気安い仲の相手はいませんが――月國先輩は違うんじゃないですか?」


 遼はそう言って、冷ややかな目で私を見た。


「私、見たんですよ。月國先輩、天上にお友達(・・・)がいらっしゃるんでしょう?」

「何を――」

「夜中、あなたの部屋で楽しそうに話してらっしゃいましたよね?」


 玉緒が部屋に来たのを、見られていたのか。

 そう思った瞬間、ぱっ、と思考が繋がった。玉緒が部屋に来たのも一週間前、遼が書類を蓮見から受け取ったのも一週間前。つまり、玉緒を見て、私が天上に友達・・を持っていると確信した遼は、重大書類を隠すことによって、その友達・・を引っ張り出そうとしたのだ。私がここで玉緒や迅に猶予をお願いすれば、その友達・・のおかげで、私は『玉輝』になれたのだ――と、遼だけでなく、他の人間も考えることだろう。

 

 ――腹立たしい。

 苛立ちで腸が煮えくり返りそうだ。たかだか、そんなくだらないことのために、国を巻き込む重大な書類を隠したのか。


「――確かに、私には天上に知人がいる」


 私は立ち上がり、背筋を伸ばして、はっきりとそう言ってやった。

 その瞬間、部屋の中がざわりと波打つように騒がしくなり、同僚たちの視線が私へと向けられる。

 犬山遼がにやりと笑った、そんな気がした。

 だから私は鼻で笑い返してやった。


「だが、それがどうした?」


 ――その挑戦状、受けてやる。


「……え」

「蓮見先輩、済みませんが、私の他の仕事、適当な人員に割り振って下さい。私はこちらの仕事に当たりますので」

「え、あ? あぁ」蓮見が弾かれたように頷く。「でも、お前、天上に知人がいるというのは、その」

「知人はおりますよ。昔、殺人事件で捕まりそうになりましたので、嫌が応にも顔見知りは増えました」


 微笑めば、蓮見は安堵したように溜息を洩らした。

 嘘ではない。玉緒と出会えたのも、迅と出会えたのも、殺人事件が原因だった。そして、私がその犯人として有力視されていたことは、今や常識であり、蓮見も、同僚たちも当たり前に知っている。


「それは知人とは言わんだろう」


 蓮見は呆れたように肩を竦める。

 私は笑い返しながら、書類を抱え、部屋を出ようとした。


「月國、待て、どこに行く? 書類改めなら、ここで確認してから、各省に連絡を取る方が……」

「一日しかないのに、悠長に連絡している暇はありません。伝達には順序が必要で、煩わしいですから。それくらいなら、自分で書庫に行って、自分で資料や記録を確認しながら齟齬を改めます」

「そんなこと出来るのか」

「やります」


 ぽかん、と口を開けたままの蓮見を置いて、私は部屋を飛び出す。

 

 どうせ、各省にこれは正しいのか、ここの過去の記録はどうなっているのか、と確認したとしても、彼らの下っ端が書庫へ走り、記録を探して確認し、上司へ伝え、私へ伝わる、というだけなのである。それならば、私が書庫で確認した方が早い。幸い、書庫にある文書は、他省の記録でも、自由に見て良いことになっている。


 書庫へと小走りで急いでいると、後ろから追いかけてくる足音がした。


「月國先輩!」


 振り返れば、諸悪の根源、犬山遼が、青い顔をして走ってきているところだった。


「どうして、あの天上人に猶予を頼まないんですか。一日で終わるわけ、ないじゃないですか。今更、裏工作を隠そうとしたって、意味ないんですよ。あの人に頼んで、正六品まで上げてもらったんでしょう? だったら……」

「あの男にそんな権限はない」


 話しているのが馬鹿馬鹿しくなって、私はまた書庫へと歩き出す。遼は慌てて追いかけてきながら、言葉を続けた。


「だったら、一体、誰に頼んだんですか。どうしてその人にお願いしないんですか? 意地を張ってる場合じゃありませんよ、この書類が間に合わなかったら、あなたも、僕も、処罰を食らうんですよ!?」

「この――愚か者!」


 苛立ちが爆発して、思わず足を止め、私は怒鳴った。振り返れば、彼はぎょっと両目を丸くし、怯えたように私を見ている。


「お前は一体何がしたいんだ。私が『玉輝』に選ばれたことを疑うのはいいさ、好きに疑えばいい。お前の気が済むまで相手をしてやる。だが、こんな風な工作は別だ。この書類の提出が遅れれば、困るのは私やお前だけか? 違うだろう、受け入れの準備が遅れてしまえば、白虎国にも迷惑がかかるんだぞ。せっかく新たな繋がりが生まれるというこの時期に、こんな愚かな国恥を晒してどうする! ――お前、何の為にここにいるんだ!」


 遼は視線を泳がせる――わかっているはずなのだ。彼だって今年の『玉輝』だ。馬鹿ではない。この案件がどれほど重大かを理解しているが故に、私を釣り上げる餌として使ったのだ。


「……でしたら、でしたら、尚更、お願いします、遅れたら大変なことになります、謝りますから、誰にも言いませんから、……天上の方にお願いして頂けませんか」

「断る」


 あっさりと言い放てば、遼は心底驚いたような顔をした。


「どうして……」

「私は自分の名に恥じぬように生きている」

「そんな意地を張ってる場合ですか」

「いい加減、馬鹿にするのは止めてくれ」


 ふん、と鼻を鳴らし、私は今度こそ歩き出した。


「一日あれば十分だ」



                   *



 ――この世は汚い、と昔から思っていた。

 実力よりも、繋がりや金がものを言う。いかに振り回せる権力が大きいかで、全部決まってしまう。


 子供の頃から、世の中はそんなものだ。いかに正論を叫ぼうとも、力の強いガキ大将が一人現れるだけで、返り討ちにされ、唇を閉ざすしかない。大人になれば、腕力が権力に変わっただけだ。

 結局は全部、汚い力で動く。


 去年の春、問題になった、皇族に仕える化野家の事件。

 化野宗家が、分家に権力を奪われるのを恐れ、自分たちの力を守る為に、あろうことか、第二皇子を殺害しようとした事件だ。皇子は命を取り留めたが、数名の官人が事件に巻き込まれて亡くなったという。その中には、花立の試を受けようとしていた初品もいたらしい。詳細は伏せられていてわからないが、無力な草花ばかりが獣に蹴散らされてゆくのだと思った。


 事件に巻き込まれて死んだ初品は、一体、どんな人だったのだろう。

 これからの未来に胸を膨らませていたのだろうか。

 よりにもよって、未来の希望の権化ともいえる、花立の試の最中に亡くなったのだ。

 顔も名前も知らない彼の事を思うたび、踏みにじられるような辛い気持ちになるのだった。


 その思いがさらに膨れ上がったのが、その年の『玉輝』を知った時だった。

 彼は、その化野家の事件の深く関わっており、一時期、犯人候補として城を追い出されもしていたらしい。そんな人間が、『玉輝』になるどころか、前代未聞の昇格をしたのだ。

 ――鋭く、それなのに鈍い刃物で胸を抉られた気分だった。

 ぴんと背筋を伸ばす草花ばかりが踏みにじられ、獣にすり寄るものばかりが進んでいく。

 その『玉輝』はその汚さの筆頭のように思えた。

 

 そして、自らが『玉輝』として昇格をした今年、その男の下で働くことになった。


 噂通り、刃のように美しく、怜悧で、冷たい眼をした男だった。

 やけに尊厳ばかりが高く、少しでも舐められると鼻息を荒くして言い返しに行く。自らの矜持が云々とえらそうに語るのが、いつも馬鹿馬鹿しかった。


 お前が汚い手を使っている間に、一人の初品が死んでるんだよ。

 

 許せないという気持ちが強かった。

 せめて、あの男――神楽月國の異例の昇格は、があるのだと知らしめたかった。

 それが、一人虚しく亡くなった初品への手向けになるような、そんな不思議な心地すら覚えていた。



 ――それが、どうしてこうなった?



「遼、次はそっちの右から三番目の本を取れ」

「は、はい」


 せっかく付いてきたなら手伝え、と言われ、何故か月國の手伝いをすることになっていた。


 書庫に入ったふりをして、こっそり天上と連絡を取るのかと思えば、彼はいたって真剣に書類の確認を始める。しかも、その手つきはやけに早い。


「次は向こう。あれあれ、四番目」

「はい」


 黒い瞳で書類を舐めるように見渡しながら、すぐに本棚を指差し、本を指定してくる。どういう内容の書籍がどれで、どこにあるのか、すっかり頭に入っているらしい。

 噂に聞いたことはある。書庫にある書物や記録書の量は膨大だが、毎日のように通い詰めていれば、自然と本の並びを覚えていくようになる、と。そうなれば格好いいなぁと思って書庫に足を運んでみたが、あまりの本の多さに閉口したのだった。――まさか、月國は本の並びを覚えているのか? 


「あの、せんぱ……」

「そうだ」月國は膝で手を打つ。「私の部屋に、白虎国の本があるんだ。寝台の上に置いたかな。あれを取ってきて欲しい。近くに走り書きをした紙もあるから、ついでに持ってきてくれ。役に立ちそうだ」

「え? あ、わかりました……」


 言われるままに書庫を飛びだし、部屋へ向けて廊下を駆け抜けながら、まずい、と思った。

 反射的に命令に従ってしまったが、もしかしたら、この隙に天上と連絡を取るのかもしれない。引き返したかったが、飛びだしてきてしまったものは仕方がない。急いで部屋へと向かい、戻ることにしよう。


 月國の部屋は自分の部屋からそう遠くはない。いつも憎く思って睨んでいるせいで、部屋の場所もしっかり覚えてしまった。建付けが少し悪い扉を押し開け、――そういえば、部屋の中を見たことはないな、と今更ながらに気が付いた。


 そして、心底驚いた。


 月國の部屋には、乱雑に本や紙が広がっていた。

 驚いたのは、その汚さにではない。

 卓の上に積んである本はどれも難しく、もっと勉強を重ねてから読もう、と常々睨んでいた本たちばかりだった。他国語で書かれているものも少なくはなく、そしてどれも読みすぎの為に、手垢で汚れていた。

 ふと寝台の上を見れば、確かに、白虎国の言葉で書かれた本が置かれていた。横には辞書と、くしゃりと軽く潰れた紙が二、三枚並んでいる。本の内容を書きとりながら読んでいるらしいが、あまりにも単語ばかりで、紙を見るだけでは、未読の自分には内容はわからない。ただ、貿易や国交、教育文化など多岐にわたる書物なのだと見当がついた。持ってこいと言われた本もこれだろう。


 寝台から書物を取り、くしゃくしゃの紙も拾い上げる。

 ――まさか、という気持ちでいっぱいだった。


 まさか、まさか、神楽月國は、本当に、実力だけで、正六品にまで昇ったのか?



                   *


 気が付けば日が沈み、空が濃紺に染まり始めていた。


「遼、後は一人でやるからいいよ」


 燭台を持ってきてくれた遼にそう言えば、しかし、彼は固い顔をして首を横に振った。


 私の部屋に書物を取りに行かせてから、遼の様子がおかしい。唇を強く結び、余計なことは言わず、黙って手伝ってくれているのである。手のひらを返したような態度の変化が、かえって気になった。何かまた企んでいるのだろうか。とはいえ、そんなことをあれこれ考えている暇はない。


「わかった、じゃあ、先にご飯でも食べてこい。深夜までかかりそうだ」


 遼は何か言いたげに口を開いたが、私がちらりと見やれば、黙って立ちあがった。随分と大人しくなったものだ。

 失礼します、と弱々しい声を上げて頭を下げる遼に片手を挙げ、私は蝋燭に火を灯し、また書類に向かう。ぱたぱたぱたと遼が立ち去って行き――そしてどたどたどたと慌ただしく戻ってきた。


「つ、月國先輩!」

「なんだ、どうした?」

「扉に鍵が掛けられてます!」

「――は?」

「多分、誰もいないと思われたんだと思います、ここ、入り口から見えないんで、うわ、どうしよう、朝まで出られませんよ」

「はぁ? 何を……」


 遼は冗談を言っている様子ではない。私は立ち上がり、扉の方まで行こうとして――踏み出した足に違和感を覚えた。地面がやけに柔らかい、という奇妙な感覚がして、目の前がじわりと真っ暗になる。


 立ち眩みかな、と思った。

 じわじわと視界が黒一色に染まる。立ち眩みなら、いつか視界も開けるだろう、とそこまで気にしていなかったのだが、視界が昏いまま、膝から力が抜けた。


 あれ? 倒れてる?

 がんっ、と額を冷たく固いもので打ち付ける。これは床板か? 視界は昏い。何も見えない。どどど、と心臓が跳ねるような音がして、頭の中をかき乱されるような、とてつもなく気味の悪い感覚がした。


 そして、私は意識を失った。



更新遅くて済みません。

次回はGW後半頃になると思います。


『コネ』という単語を使えないので、説明がちょっとごちゃごちゃして済みません(笑)

犬山遼は、月國が天上に強力なコネを持っていて、それを汚く利用していると思い込んでいます。月國は確かにコネは持ってるっちゃ持ってますが、それを利用するつもりはさらさらない、とそういうことですね。


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