番外編/月に吠える 1
――季節は、春。
花立の試が終わってから、およそ一年が過ぎ、新しい『玉輝』が選出された。
「どうだ、二人とも、新しい仕事には慣れたか?」
私は酒を杯に注ぎながら尋ねた。両脇に座るのは、今年の春の試験で従六品に昇格した照日結月と、正七品に昇格した紫野春孝である。もう一人、恵比寿武の分も、私は酒を注ぎ、空いた座布団の前に置いた。
「まぁ、ぼちぼちね」
春孝はにこにこ微笑みながら、彼自身が持参してくれた、高級そうなお菓子の包みを破いている。いつまで経っても食欲は健在らしい。去年と比べて、一回り程大きくなった気もするが、それが彼の優しそうな風貌を助長させていた。
「僕も、品位が上がっただけで、周りの面子とかは変わらなかったしさ」
結月がそう答え、杯を手にする。その指に、大きな筆だこが出来ていた。少し会わないうちに、顔つきもぐっと大人びた感じがした。
私たちはお互いの中心で杯を合わせ、声を揃えた後、ごくりとまずは一口飲んだ。熱い辛みが喉を通し、身体全体を温める。
「でも、あれだなぁ、下の子が入ってきたのは、新鮮な感じだね」
結月が目を細め、春孝が用意してくれた煎餅に手を伸ばしながら言った。
「だねぇ。月國はやっとやりやすくなったんじゃない?」
ばりばり、と煎餅に噛みつきながら、春孝が穏やかな笑顔を浮かべる。
「今まで、部下も年上でやりづらい、って言ってたもんね。ついに年下の部下が来たねぇ」
私が花立の試で授かった正六品という品位から、本格的に人の上へ立つ仕事が始まる。私も去年の春から、上から来た仕事を分配し、部下に指示し、自らも筆を執って、と目まぐるしく働いていたのだが、一番厄介なのが、指示するべき部下が年上であることだった。中には十も二十も離れた人間さえいる。彼らは段飛ばしで上に立った私をあまり好ましくは思っておらず、積極的な協力は望めなかった――とはいえ、「こうしてください」と指示を飛ばせば、逆らうこともなく、ちゃんとやってくれたのだが。
今年の春から、ようやく、一つ年下の子たちが、花立の試を終え、様々な品位を背負って、職場に混ざってきた。それで少しはやりやすくなるだろうと、私も思っていたのだが――
「それが、余計に厄介なことになったんだよ……」
私は酒杯に唇を当てながら答えた。今回の会合の開催場所は、私の家だ。いっそ酔いつぶれてしまおう、という気持ちで、私はごくごくと酒を胃に流し込む。
「変な子でも入ってきたの?」
心配そうに結月が柳眉をひそめた。
変な子、というか、何というか。私は言葉に詰まりつつ、首を傾げて答えた。
「良い子ではあるんだけど……疑ってくるんだよな」
「疑う?」
二人の声が重なった。結月と春孝は顔を見合わせ、それから「あぁ」と合点がいったように肩を竦めた。
「何で納得してるんだよ」
「だって、あれだろ、大物の弱みを握って利用してるんじゃないかとか、裏工作だとか、金だとか、そういうやつでしょ?」
「もう散々聞いたもん、そういう悪口」
結月と春孝はそう答え、ねぇ、と声を合わせて微笑み合っている。
「いや、そこ笑うところじゃないだろ! ……人が真剣に頑張ってるのに、何で裏工作だとか思われなくちゃいけないんだよ」
「まぁ、ある程度は仕方がないよ」
春孝が饅頭を差し出しながら言った。
「君はそう思われても仕方がないくらい、凄いんだから。えっと、今年の『玉輝』は、正七品だったっけ。その子、月國とは違って、皇帝の縁戚だから、本来なら正五品まで上がれるんだけど……まぁ、月國に並びもしなかったね」
「通常通りの花立に戻っただけだよ」
結月が横から手を伸ばし、饅頭を奪い取って言った。春孝はにこにこ笑ったまま、また別の饅頭を私に差し出してくる。私は今度こそ取られないようにそれを受け取り、ぱくり、と食べてみた。上品な小豆の味が口内に広がった。相当、名のあるお菓子なのだろう。春孝のくれるお菓子はどれも逸品らしく、菓子に疎い私が、他の場所で「昨日はアレを食べた」と口にすれば、周りの全員が慄いてみせるほどだ。天上で過ごす吉祥でさえ、「羨ましい」と零すことがあるが、春孝は一体どんな手段でそんなお菓子を手に入れているのだろう。素朴な疑問が沸いた。
それを尋ねようとした時、先に饅頭を呑み込み終えた結月が、何気なく尋ねてきた。
「月國は? 今年の『玉輝』、会った?」
『玉輝』、とは、花立の試で最も良い成績を修めたもののことを言う。去年の『玉輝』は私だった。そして、今年の『玉輝』は――
「会ったよ。会ったどころか、一緒に働いてる。その子に、私は困ってるんだよ」
そう答えれば、二人はそっと口を閉ざし、その代わりかのように、武の為に用意した杯の酒の水面が、嘲笑いでもするかのように、ふるふると揺れた。
*
「月國先輩ー!」
底抜けに明るい声が私を呼ぶ。書面から顔を上げれば、その視界が、大量の資料でいっぱいになった。
「資料の確認、お願いできますか?」
犬歯が光る。資料を私の机に積み重ねるようにして置いたのは、犬山遼である。色素が薄く、光に当たれば薄い茶色にも見える髪を、今日もがさつに整えている。寝癖が酷いのを、一度注意したから、一応は水を付け、後ろへ撫でつけた上で帽を被っているらしいが、ぴょこんぴょこんと阿呆らしい毛が跳ねている。瞳も同じような色をしていて、どこか玉龍国人らしくないところがある。遠い親戚に白虎国の者がいるらしい。身長も高く、筋肉もしっかり付いていて、文官よりは武官の方が向いているのではないかと思わせる風貌だった。
それでも、彼は皇帝家の縁戚(かなり遠く、迅とは話したことすらないらしい)であり、なかなか利発な男である。だからこそ、今年の『玉輝』――であるはずなのだが。
「前にも言ったけど、もっと小分けにして持って来てくれないか? 一気に確認するのも大変だし、お前の方も修正が大変だろう」
「えぇ、でも先輩なら大丈夫でしょ?」
きらきらと、遼の笑顔が輝く。その裏に、また思惑が滲むのを私は感じた。
――良い子なのに、どうして私のことを疑うのだか。
花立の試で、正六品まで昇格したのは私が初めてである。あまりの事態に、城中の話題はそれでもちきりになったし、一部では「伝説の人」呼ばわりされているらしい。光栄ではあるのだが、あんまり持ち上げられるのも性に合わない。
その中にまぎれるようにして、こうして、ちょっとした無理を押し付けてみては、私の反応を探り、私が本当にそれ相応の実力者なのかを確認しようとしてくる人間がいるのだ。納期ぎりぎりに仕事を押し付けてくる上司しかり、私の作成した文書を穴が開きそうなまでに見つめている上司しかり。この一年で随分慣れたとは思ったが、しかし、直属の部下にそれをやられると、腹立たしいやら、面倒やらで溜息ばかりが出る。
面と向かって「裏工作だ!」などと言ってくれれば、言い返せるのだが、こっそりと実力を推し量る様なことをされれば、こちらも針の穴に糸を通すように、一つの失敗もない完璧な仕事ぶりで叩き返すしか手段はない。
そう言うと、春孝たちには「別に叩き返さなくてもいいんだよ」と笑われた。しかし、勝手に推量されて、舐められるのは何だか許せなかった。
「……分かった。けど、次からは、こまめに確認するように頼む」
そう言えば、遼は「はい」と笑って元気よく頷いたが、この会話ですら幾度目かわからない。
あんまり度が過ぎるようなら、改めて叱らなければならない。とはいえ、彼のこの行動が、私への不信感から起きているのだから、叱るにもなかなか難しかった。早いところ、私の実力を認めて貰うしかないだろう。
一年経ってもこんなくだらない悩みが付きまとうとは。思わず吐きそうになった溜息を呑み込み、私は遼から書類を受け取った。
*
――その夜。
私は、雲間にある自室で、書を紐解いていた。初品の頃は、四人で一部屋を与えられていたが、正六品ともなると、希望すれば、一人に一部屋ずつ自室が与えられるのだ。狭いので自らの家から出仕する人間が大半だが、家との行き来の時間がもったいないので、私は雲間で暮らすことにしている。
卓の上に小さな燭台を置き、倒さないように気を付けながら、本に向かう。気になることを右手で書き留めつつ、左手で本を捲り、字をなぞり、たまに頭を掻く。去年一年も弛まず勉学を続けたとはいえ、今年はさらに頑張らねばならない。何といっても、来年は『花栄の試』があるのだ。
宮仕えをする人間は、二度、飛び級試験を受けることが出来る。一年目の春に受ける『花立の試』と、三年目の春に受ける『花栄の試』だ。私が花立の試で頂いた正六品の位からは、三年に一度受ける昇格試験で一位ずつ上がっていくことしか出来ないが、『花栄の試』では、成績に応じて、最高で三位分、飛び級して昇格することが出来る。
私に許された最上位は、正六品から数えて三つ上の、四品。
四品は雲間で働く人間の中での最上位であり、三品からは天上人である。
――つまり、ここで四品に飛び上がることが出来たら、天上人になれる可能性がかなり強くなるのだ。それに、四品になれたら、天上人に召し上げてくれと玲皇子にお願い申し上げている。四品になって一番の困難は、天上との繋がりがないことだが、私の場合、きちんと四品で成果を上げれば、天上への道が切り開かれることだろう。
そして、逆を言えば、この花栄の試を失敗してしまったら、四品に辿り着く為に六年以上かかることになる。あまりにも時間の無駄だ。
この機会を逃すわけにはいかない。絶対に。
そんなことを思いながら、鼻息荒く、卓に向かっていると、突然、目の前が真っ暗になった。
「あっ……」
――またやってしまった。
本に集中しすぎると、蝋燭が短くなっていることにも気付けない。窓から差し込む月光だけを頼りに、新しい蝋燭を探す。手元が暗すぎてよくわからんな、と思えば、いきなり戸口の方から淡い光が差し込んできた。
振り返れば、手燭を持った男がビクッと僅かに身体を硬直させ、それから怪訝そうに眉をひそめる。
「明かりもつけないで何してるんだ?」
「――玉緒」
懐かしい顔に、思わず声が跳ねる。玉緒は肩を竦め、足音もろくに立てないまま、するりと部屋の中に入り込んできた。
「本を読むなら明かりが要るだろ?」
「今、切れたところなんだ」
手元の書籍を覗き込みながら、玉緒が言う。私は笑って返しながら、彼が近づいてきた拍子に、懐かしい匂いに胸が疼くのを感じた。何となくそわそわしてしまう。
「久しぶり」
笑ったままそう言えば、玉緒も僅かに目を細めた。
玉緒は一カ月に一度ほど、こうしてふらりと現れては、特に意味のない話をして、ふらりと立ち去っていく。長話になった時でも半刻もすれば帰ってしまう。会う度に、もっと話していたいような、顔さえ見れれば満足のような、奇妙な心地になる。いかんせん、玉緒の方が何をどう思っているのかがさっぱりわからないのだが……。
「二カ月ぶりくらい?」
普段は一カ月以上会わないことはないのだけれど、今回は長かった。おそらく、彼が迅の付き添いで白虎国に行っていたからだ。そろそろ戻ってくる頃だろうとは思っていたが、予想より早く会えた。
「白虎国はどうだった?」
「迅が、」
と言いながら玉緒は手燭を卓の上に置き、床に膝をつく。ゆるりと胡坐を掻きながら、彼は不服そうに唇を歪めた。
「一般人のふりをして市井に出向いてな。困ったよ」
「玉緒は付いて行かなかったの?」
「行ったさ。ただでさえ、玉龍の訛りがあるし、迅は皇子の格好をしてなくても、ほら、金持ちの気品は出ているだろ? 二度ほど悪漢に絡まれて面倒だった」
他国で皇子が怪我でもすれば、外交関係にひびが入るし、と玉緒は溜息を吐いてみせる。とはいえ、面倒だ、と吐き捨てるのだから、迅に外傷はなかったのだろう。
「玉緒の事を信頼してるから、そういうことをするんだろ、あの人は」
玉緒と会うたび、迅の話ばかりしている気がする。
迅は決して、私に会いに来ない。天上で私を待ってくれている。
玉緒と会って、そう感じる度に、やる気に火が付くのを感じた。
「――そう言えば」
燃え上がっている私をよそに、玉緒はぶっきらぼうな視線を放り投げてくる。
「今年のはどうだ? お前の部下になったと聞いたけど」
「あぁ……犬山遼か? 可愛い奴だよ」
「年下の部下だから、今までよりはやりやすいだろう」
「そうだな」
玉緒に妙な心配をさせるのも面白くない。そう思って、平然と微笑めば、しかし、彼は怪訝そうに眉を寄せた。
「何か問題でもあるのか?」
「な……何で?」
「――」玉緒は何か答えようとして、それから私をじろりと見た。「問題があるんだろう」
「そう思う理由を教えてよ」
「嫌だ」
玉緒は子どものような口調であっさりと拒否をする。
「新しい部下とはそりが合わないか? それとももっと大きな問題でもあるのか」
玉緒の声が低くなる。どうしてバレたのかはよくわからないが、ここで誤魔化してもかえって心配をかけるだけだろう。私は諦めて、素直に答えた。
「優秀だし、良い子だとは思うんだけど、私への不信感が強くて。本当に実力があるのかどうか、色々と試そうとしてくるんだ。余計な小細工をされる分、仕事の手間が増えて面倒だよ」
「小細工、は例えば?」
「大したことじゃないよ。わざと書類を入れ替えて持ってきたり、数字を少しだけ間違えてみたり……私が間違いに気付けないまま上に提出すれば、私の監査問題になるものばかりだ。自分が部下なのを良いことに、賢い小細工をしてくるよ。その賢さを小細工じゃなくて、真っ当に使ってくれればもっと助かるんだけど」
「それを上には報告してあるのか? 問題が起きてからでは遅いだろ」
「大丈夫だよ、問題なんか起こさないから」
そう答えれば、玉緒は眉を跳ね上げた後、全身の力を抜くようにして溜息を吐いた。
「あのな、喧嘩を売られたからって、買う必要はないんだぞ」
「そんなものはわかってるさ。でもこれは喧嘩じゃない。私への挑戦状だ」
「何が違うんだそれは」
「全然違う。何があっても、犬山遼に私の実力を認めさせる」
ふん、と鼻を鳴らせば、何故か、玉緒が降参したように両手をひらりと挙げた。
「本当に相変わらずだな」
「舐められているのは性に合わないんだ」
「放っておけばいいのに」
玉緒はそう言いながら、唇を僅かに緩める。
「まぁ、お前がそれを放っておけるような人間だったなら、今、ここにはいないんだろうけどな」
「褒めてる? 呆れてる?」
「褒めてる褒めてる」
「呆れてるだろう?」
「ところで、月國、」
と、玉緒は言い、自らの懐にするりと手を差し込む。何だろう、と思えば、彼はそこから一冊の本を取り出した。その本で私の額をぺしっ、と軽く叩き、彼は笑う。
「顔色が良くない。毎晩毎晩遅くまで起きて勉強するのは良くないぞ」
「だ、だって、花栄の試まであと一年しかないんだ」
「体調を崩したら元も子もない。心配をかけさせるな」
「う……」
返す言葉を失いながら、私は彼が渡してきた本を受け取った。
そして、その表紙を見て、心臓が思い切り跳ね上がるのを感じた。
「こ、こ、これ、これ……」
「白虎国の古本屋でたまたま見つけたんだ。白虎国と玉龍国との関係について、白虎国側から資料や反応をまとめたものだな、花栄の試にも役立つと思って――」
「読みたかった本なんだ!」
「そうか。白虎国の言葉で書かれているが、読めるか?」
「辞書を片手に読むよ。嬉しい。――ありがとう、玉緒!」
ぎゅっ、と本を胸に抱きながらそう言えば、玉緒は眩しげに両目を細めた。そして意味もなく首を傾げると、半笑いになりながら溜息を吐き、そして立ちあがる。
「え……もう帰るの?」
「……夜も遅いだろ。お前も今日は寝ろ」
ぽん、と彼は私の頭を撫でるように叩く。
そして、優しく微笑んでくれた。
「おやすみ、月國」
私も微笑んで返した。
「おやすみ、玉緒」
するりと頭から手が離れ、玉緒は卓の上に手燭を置いたまま、部屋から出て行く。
私は扉が閉められるのを見届けた後、その本を広げ、前書きに軽く目を通した。少しだけ読んだら寝ようと思っていたのだけれど、気が付けば辞書を引っ張り出してぐんぐんと読み進めてしまっていた。手燭の火も消えてしまったので、新しいものを用意するのにも焦れ、窓際に卓を寄せて月明かりで字を追い、あれ、何だかとても読みやすくなってきたな、と気が付いて顔を上げれば、空はすっかり白くなり、朝の訪れを鳥が告げている始末であった。
お久しぶりです。
上弦の月は夢を見る、番外編です。上中下に分けようかと思ったのですが、三つとなるか四つとなるかわからなかったので、無難に数字を振りました(笑)
今回は、犬山遼という月國の部下に関係するお話です。楽しんでいただければ幸いです。
久々に月國達を書いたのですが、とっても楽しい。
補足:
ちょうど、月國たちが花立の試を受けた春、の一年後の春、月國の次の『玉輝』が選出された後の話です。
本編でちらりと触れていますが、従八品~従六品までは一年に一度昇格試験があり、合格していけば、一品ずつ昇格していくことが出来ます。なので、春孝や結月は今年の春に一つ、昇格しました。
ですが、正六品からは、昇格試験が三年に一度になるので、月國は今年は試験を受けていません。その昇格試験(二年後)よりも、『花栄の試』(一年後)が先にあるので、月國はそちらでの昇格を目指している、という感じです。
まぁ、とりあえず、一年後には、月國も春孝も結月もまた、『花栄の試』を受けるんだな~!と思って頂ければオッケーです!笑
ここまで読んで下さり、どうもありがとうございました。