最終話/月は夢へと昇る
――満開の桜。
思わず足を止めてしまった。桜の花の隙間から、橙色の光が差している。穏やかな春の風に吹かれ、枝が揺れるたびに、夕暮れの陽光もちらちらと見え隠れする。桜の花びらが一枚、風に乗ってひらりと舞い散っていった。
「――どうしたの、月國」
先を歩いていた結月が振り返る。その声に気が付いて、春孝も立ち止った。彼らは私と同様に、夕焼けに浮かび上がる桜を見つけ、感嘆の息を吐いた。
花立の試が、終わった。
試験場を出た時、ほとんどの初品が泣いたり笑ったりと騒いでいた。けれども、私たち三人は、顔を見合わせて微笑み合うだけで、誰よりも早く、その場を離れた。三人とも何も言わなかったけれど、心には、もう一人の同室の姿があったと思う。
ふと、桜の木の向こうから、人影がこちらに駆けてくるのが見えた。目を凝らしてみれば、それは見覚えのある女官だった。
「吉祥?」
雲間で何をしているのだろう。驚いていると、彼女は小走りで私に駆け寄ってきて、それからふと結月と春孝に気付き、穏やかな笑みを浮かべた。
「月國様のお友達? 花立の試、お疲れさまでした」
美女が夕焼けに照らされて微笑んでいるのは絶景である。結月も春孝もポンと赤くなって、動揺のあまり、お互いの顔を見合わせた。それがやけに間抜けに思えて、私は噴き出してしまう。吉祥もつられたようにクスクスと微笑みながら、その手に持っていたものを私に差し出した。
「いきなりごめんなさい。これを渡してこいって言われたんです」
「誰に?」
問い返しながら、反射的に受け取った。薄い桜色の紙で包装された小さな箱だった。ちょっとした文のようなものが添えられている。真っ白の、上質な紙だった。開けてみれば、一文だけ、美しい字で記してある。
――天上にて待つ。
その横に、金色の捺印が押されている。それは龍を象っていた。
パッと顔を上げれば、吉祥はいたずらっ子のような笑みを浮かべている。
「なるべく早く来い、とのことですわ」
私は振り返り、二人に先に帰るように言おうとした。目が合っただけで彼らは察してくれたらしく、こくりと頷いて、歩き出してくれる。
吉祥に視線を戻し、私は声を小さくして尋ねた。
「これ、迅皇子が……?」
彼女は小さく顎を引いた。
これまで三度も天上に入り込んだが、本来なら天上人しか向こうには行けないのだ。危機的状況も脱した今、私が天上に行けるとすれば――それは、天上人になった時だけ。
この文は私への鼓舞、そして信頼なのだと気が付いた。
迅は待ってくれている。私が天上人になり、共に働けることを。
――なんという光栄なのだろう。
「……父上に負けないくらいの早さでそちらに向かいます、とお伝えしておいてくれ」
「承りました」
吉祥は完璧な笑みでそう答え、頭を下げる。ややあって上げられた顔に、親しげな色が滲んでいた。彼女は私に近づき、耳に唇を寄せて、囁くように言った。
「あの方は皇子だからともかく、私は女官だから、もっと近くで手助けできますわ。女だってバレないように尽力します――だから早く天上においでになってね」
身を離した吉祥がニコ、と笑う。同性相手なのにドキドキしてしまった。吉祥は頬に手を当て、からかうように言う。
「それに、早くしないと、私が玉緒を貰っちゃいますよ?」
「――え」
ひっくり返った変な声が出た。吉祥は楽しげに笑い声を上げると、くるりと踵を返す。
「それでは、良い結果を期待してますわ。いつか向こうで会いましょう」
くすくすと鈴を転がすような笑い声が響く。吉祥のその言葉には嫌味っぽさはなく、彼女も私を待ってくれているのだとよく分かった。
それにしても、玉緒。
私が女に戻るまで、誰とも結婚しない、だなんて意味深なことを言うくせに、その理由はまだ教えてくれなかった。あれこれ追及してみたが、結局あやふやに誤魔化されてしまった。彼は適当にはぐらかすのが上手いと思う。いつもいつも、気が付けば別の話題にすり替えられている。
そもそも、私が女に戻るまで結婚しないのか、と聞いたときの答えも、「今のところは」だった。そんなことを思い出し、さらにモヤモヤする。
――何故自分がモヤモヤしているのか、というところを考えると、暴れ回りたくなるのだけど。
はぁ、と溜息を吐いたとき、ドンッ! と衝撃を感じた。後ろから誰かに抱き着かれたらしい。見れば、細い腕が胸下に回されている。振り返ってみると、樹杏が私の背中に顔を埋めていた。
「樹杏!」
「月國、おかえり……!」
樹杏は顔を上げたが、今にも泣きそうな表情をしていた。
「わ、私、本当に、何も出来なくてごめんね、無事に帰ってきてくれて良かった……!」
「何を言ってるんだよ」
笑いながら問い返せば、樹杏は真っ赤な顔をして涙を堪えながら、必死な様子で答えた。
「い、い、いつも私、たくさん助けてもらってるのに、何も出来なくて、情けなくって……」
「樹杏は私を助けてくれたよ?」
微笑んでそう言うと、彼女は今度は怒ったように私の背中をぽこぽこと叩いた。
「そういうのいいから!」
「嘘じゃないってば……君のおかげで、吉祥は私を信じてくれた」
手を伸ばして頭を撫でると、樹杏は凄い勢いで私の背中から離れた。急に恥ずかしくなったのか、さっきとは違う雰囲気で顔を赤く染めながら、視線を泳がせていた。
「凄く励まされたんだよ、ありがとう」
お礼を言ってから、ふと、手巾の存在を思い出した。
「あぁ……そういえば、これ借りっぱなしだった。ごめんね」
懐から桜色の手巾を取り出す。最初の花立の試の時に、樹杏がおにぎりを包んで渡してくれたものだ。
「別に良いのに」
あぁ、と思い出したような顔をしながら、樹杏はそれを受け取った。
「機会があれば返さなきゃと思って、ずっと持ってたんだよ」
「ずっと?」
樹杏はその手巾をぎゅっと握り締めた。そっか、と花の咲くような笑顔になる。
「そういえば、それ、どうしたの?」
首を傾げて指を差されたのは、私が持っていた小箱だった。迅が贈ってくれたものだ。確かに何だろう、と思い、簡単な包装を破り、箱を開けてみる。箱の中から出てきたのは、小瓶だった。その中には桜色をした丸い粒が詰められている――桜糖だ。迅たちと一緒に、桜梅祭で食べた。市場で売っていたものよりも随分と高価なものらしく、瓶の蓋は金色で、龍の装飾がなされているし、桜糖一粒一粒にも可愛らしい絵が描かれていた。
「わぁ、かわいい」
花や兎など、春らしく愛らしい絵が描かれている桜糖に、樹杏は目を輝かせた。私は瓶の蓋を取り、一粒、手のひらに転がす。
「食べる?」
と、問えば、樹杏ははにかみ、そっとそれを掴んだ。ありがとう、と囁くように言ってから、口の中にそれを放り込む。その顔がすぐに緩み、樹杏は両頬を自らの手で挟んだ。
「おいしい」
微笑んでいる樹杏の唇から、ちらりと可愛らしい八重歯が覗く。
その満面の笑みを見ると、こちらまで幸せな気持ちになった。
――戻ってきた、という心地がする。
一陣の風が吹き、桜の花が舞い散った。
*
首都・菫青の南部、市場を越え、町人の住宅を抜けていくと、寺社が軒並み建っている。そこの一つに、武の墓は建てられた。川に近い場所であり、涼やかな風が吹き抜ける。いくつも立ち並ぶ墓の中で、武の墓石は新しいので目立っており、水をかけると陽光を反射してきらきらと特有の輝きを見せた。
三人で前に並び、手を合わせる。武は今、どこにいるのだろう。雲の上で私たちを見ているだろうか。もしかして、意外と近くにいて、私たちに対して、いつもの憎まれ口を叩いているのかもしれない。
「……毎年、酒盛りするからさ。お前も参加しろよ」
暮石を撫でながらそう言うと、春孝がその前に饅頭を並べながら頷いた。
「美味しいお菓子も用意するからね。毎年来てね」
「はは、それなら間違いなく来るなぁ」結月が笑って言った。「懐かしいね、月國と武の口喧嘩を止められるのは、いつも美味しいお菓子だった」
「次からは喧嘩せずに済みそうだよ。何を言われたって聞こえないんだもの」
そう言えば、二人とも声を揃えて笑った。
恰幅の良い身体を震わせながら、春孝が言う。
「結局、女の子とろくに話せないままだったねぇ。向こうでは話せてるのかな?」
誰も答えないが、答えは分かっている。顔を見合わせて、私たちは笑う。
私は墓石の前に膝を着き、囁くように言った。
「私が天上人になって、頃合いが来たら、お前がびっくりしすぎて生き返りそうなことを教えてやる」
それを聞いて、結月が噴き出した。春孝はきょとんとして首を傾げる。
「えぇ? 何だろう」
「その時には春孝にも教えるよ」
「気になるなぁ~。結月は知ってるの?」
「うん、まあね」
「えぇー! 何だろ……」
何だと思う? と春孝は微笑みながら、墓石に問いかける。
武には絶対わからないだろう。そう思うと可笑しかった。
ひとしきりくだらないことを話して、笑って、少しだけ泣いて、私たちは城に戻ることにした。
帰り際、ふと振り返るが、そこには勿論、墓石しかない。
「俺の友達は天上人だぞ、って、天国で好きなだけ自慢させてやる」
そう呟けば、両脇の二人が笑う。
懐かしい武の憎まれ口が聞こえてきたような気がして、私も微笑んだ。
*
春は退屈だ――いつもなら。
花立の試の結果発表を待つ若者たちが幾百人も雲門前に並び、その名が呼ばれ、前へ歩みだして令状を受け取るのを期待している。呼ばれるのは一人だけ。最も成績が良く、最も昇格した者だけが代表として名前を呼ばれ、皇帝直々に令状を授かる。その者を『玉輝』というのだが、俺はその名称が頗る嫌いだった。嫌いだと言うか、何と言おうか。この季節になると胃が痛くなる。今年は特にそうだ。
雲門前は静まり返っている。花咲くのを待つ若者たちの、心臓の音がこちらまで聞こえてくるようだった。そんな若者たちの注目を得ながら、皇帝が前に進み出る。幾百人を相手に、官人が口上を述べる。
緩やかに、緩やかに、緊張が加速していく。誰かの鼓動が聞こえてくると思えば、それは自分のものだった。心臓がうるさい。吐き出してしまいそうなほどに跳ね回っている。痛いくらいに動いていた。こんな感覚は久しぶりだ。化野の試験を終え、第一皇子の護衛になれた時以来だろうか。
官人が息を吸い込む。今年の『玉輝』の名前を呼ぶために。痛いくらいの静寂が場を包む。
――そして、官人はその名前を口にした。
はい、と涼やかな声が答える。膝を着く群衆の中から、一人の若者がスッと立ち上がる。群衆は沈黙していた。それは予想外だった為か、それとも予想通りだった為か。若者は堂々と、肩で風を切りながら前へと歩み出てくる。真珠のように白い肌と鴉の濡羽色の髪。すっきりとした目鼻立ちに、薄い唇、きりりと尖った輪郭線。身のこなしも無駄がない。刀のような鋭い美しさだ。ざわりと一陣の風が吹く。青年の前髪が風に舞う。真っ直ぐに前を見つめる瞳の眼光がぎらりと輝いていた。
――思わず笑い声をもらしそうになった。
こんな状況でもそんな目をするなんて、本当にあいつらしい。
彼女は――神楽月國は皇帝の前まで進み出でると、片膝を着き、言葉を待った。
あいつからすれば、ここから先が重要なのだろう。自分が、どの官位まで上がったのか。
月國の父親、神楽明星は花立の試にて、下級貴族に許された最上位・従六品まで駆け上がった。その鬼才のおかげで、神楽家は今や有名貴族となり、花立の試で正六品まで上がることが許されている。
とはいえ、明星が従六品まで駆け上がったのが、記録に残る、伝説的なことなのである。
ここでもし月國が正六品まで上がるのならば、それは前代未聞のことであり、まさしく伝説となる。
――そもそも、女で官人になった時点で、前代未聞だし、伝説だな。
そう思い直し、また笑いそうになった。
官人が、結果の書かれた巻物を進める。紙の擦れる音が響いてくる。その時、また風が吹いて、官人は読み上げようとした唇を止めた。
あまりに待たされることを疑問に思ったのか、僅かに月國が目を上げた。官人を見上げたその目が、やはり、野心に燃えている。不安や緊張とは無縁の、勇まし過ぎる目。目が合った官人が乾いた唾を吞み込んだのが傍目でもわかった。
「――神楽月國、」
官人の声が裏返った。月國は目を伏せ、静かに言葉を待つ。官人は続けた。
「龍の子である皇帝の名をもって、今日より貴殿を正六品に命ず――」
ぞくり、と背筋が震えた。僅かな沈黙の後、どよめきが広がる。それは膝を着いている若者たちの間から、布向こうの皇家の間から広がり、そして大きな渦となった。あちこちから沸き起こる動揺の声を受けながらも、月國は涼やかに伸びてゆく声で応えた。
「御意――」
*
「……城の中はお前の話題で持ちきりだな」
頭上から声がした。振り返れば、桜の木の枝から人影が飛び降りてくる。どうしてそんなところにいたのだか。
「玉緒」
微笑めば、向こうもつられたように微笑み、それから首を傾げた。
「今、忙しいか?」
「いや、諸々の手続きを終えたから、部屋に戻ろうとしていたところだ。簡単に言えば、暇だよ」
「そうか」
玉緒は桜の木の幹に背中を預け、腕を組んでから、言葉を選ぶようにして言った。
「その……数日、忙しくてなかなか会えなかったが、おめでとう。正六品になるなんて、本当に化け物だな」
「ありがとう。こんなことくらいで驚かれたら困るよ。もっともっと度肝を抜いていくつもりだ」
そう茶化して答えてから、私は肩を竦めた。
「それから、ありがとう」
「どうして二度も言うんだ」
「私が正六品まで上がれたのは、玉緒のおかげでもあるもの。あの家で読んだ書物の数々は本当に役に立った」
「それはお前の努力があってこそだろ」
玉緒はさらりとそう答え、微笑んだ。その笑みが眩しく見える理由を、もう知っている。そっと視線を外しながら、私は言った。
「『玉輝』として選ばれて嬉しいよ。皇帝に手渡しで令状も頂けてさ。お父様も同じ場所に立ったんだと思うと凄く嬉しかった」
何気なく言ったつもりだったが、玉緒が困ったような唸り声をあげたので、私は驚いた。見れば、彼は複雑そうな顔をして、眉を下げている。
「どうした」
「いや、その『玉輝』っていうの、慣れないなぁと思って……」
「? 何で?」
「いや、それは……」
玉緒はバツの悪そうな顔をして視線を逸らす。そして、聞くな、と言いたげに片手を挙げた。
「大したことじゃない。忘れろ」
「大したことじゃないなら教えてくれよ。気になる」
「……いや、本当に大したことじゃない」
「本当に気になる」私は両手を広げた。「いいじゃないか。お祝い代わりに教えてくれよ」
「こんなものがお祝いでいいのか」
玉緒は可笑しそうに笑う。それでも、その言葉で教えてくれる気になったようだった。
何だろう、と身を乗りだせば、彼は本当に大したことじゃないぞ、と念を押してから言った。
「俺の真名、玉輝って言うんだ」
彼は長い溜息を吐く。
「大層な名前を付けてくれたものだよな」
肩を竦め、彼は首を横に振る。
――真名。
それが玉緒の、真名。
「……確かに玉緒には向かない名前かも」
最初に飛び出した感想がそれだった。
「でも素敵な名前だ」
微笑むと、玉緒は動きを止め、ふと真剣な顔をして私を見た。
何か言おうとしたが、言葉が続かない。この気持ちを、どう言葉にすればいいかわからない。
鼓動が速くなっていくのがわかる。喉の奥がカラカラに乾いていた。
「……玉緒、その――」
「そういえば」玉緒はわざとらしく明るい声で言った。「真名を教え合うことは一種の契りになるらしいな」
――通常、城の中で真名を呼ばれることはない。よって、真名を伝えることは、城の中での恋愛関係における、契りに似たものだという。
玉緒は何か言おうとして、それを溜息に変えた。眩しそうな顔をして、視線を逸らす。
また、彼は、はぐらかそうとしているのだ。
「あのさ、玉緒、お祝いついでに、お願いがあるんだけど」
咄嗟に、自分でも驚くほど大きな声が出た。玉緒はぎょっとしてこちらを見る。
「どうした?」
「……その真名、もう誰にも教えないで欲しい」
目が合う。玉緒の目が驚きに丸くなり、そして優しく細められる。
恥ずかしさで顔が熱くなる。思わず、柄にもなく俯いてしまった。すると、玉緒が柔らかな声で笑う。
言われなくてもそのつもりだ、と優しい声が答えた。
完結しました!
途中で何度も挫けそうになりましたが、書き終えることができて、とても嬉しいです。
もしよろしかったら、一言でも、感想など頂けると幸いです^^
ここまで読んでくださり、本当に、ありがとうございました!