第四十八話 失言
「あの様子なら大丈夫だよ」
そう止めたのは玲だった。彼はにこりと微笑み、椅子から立ちあがる。私は慌ててその場に両膝を着いた。
「す、済みません、その、出過ぎた真似を……」
「いいんだよ。君のところへ連れてきて正解だった。私が何を言っても聞いてくれなくてね、あのままじゃ自殺するのも時間の問題だと思っていた。何とか持ち直してくれたようだ」
玲はそう言いながら窓際に近づき、真っ青な空を見上げる。細い指が窓を押し開けると、朝の爽やかな風が部屋の中に吹き込んできた。窓の隙間から、桜の花びらが一枚、部屋の中にひらりと舞い込んでくる。
「玉緒、今回のことは、化野宗家の問題であって、分家は関係ないのだね?」
こちらを見ないまま、玲が再確認するような口ぶりで尋ねる。
「はい」
「ならば、そのように処理をしよう。上手くいくかはわからないけれどね」
そう言いながら玲が振り返る。茶色の優しい瞳に玉緒が写った。
「お前に化野家を背負って行く覚悟はあるかな?」
「――はい」
玉緒が頷く。すると玲は僅かに目を見張り、それからふっと口元を緩めた。
「まるで人が変わったようだな。私の護衛を辞めた者と同一人物とは思えない」
「残念ながら同一人物です」
「はは、何よりだ」
玲は目を細めて笑い、それからまた窓の外を見た。
「お前も生まれで苦労したなぁ……」
「苦労というほどでは」
玉緒はあっさりとそんなことを言う。私が思わずそちらを見れば、彼は何も言うなというように首を横に振った。
「雅人も、どうせならば私を騙してくれればよかったものをな」
玲はそんなことを言って、真っ白な指で窓枠をなぞる。
「そうすれば弟に第一皇子の座を譲れたかもしれない」
――一瞬、嫌な冗談なのかと思った。
しかし口ぶりは真面目で、その後に漏らした溜息も沈痛さを秘めている。
お前『も』生まれで苦労した。そう言う彼も、苦労を抱えているのか?
眉をひそめれば、私の疑問を見透かしたように、玲は言った。
「迅の方が生まれてくるのが早ければ、全ては順当に進んだのだけど」
それなら、あいつが皇帝になれたのになぁ、と玲は呟く。
――彼は本気で、迅の方が皇帝に向いていると考えているのだ。迅はそれを「自分を侮辱している」と解釈していたが、とてもそういう風には見えない。
「お前にも苦労をかけたな。官人に戻れるように手を打っておく。明日から城へ戻って構わないよ、もちろん、肩の傷が癒えるまで療養してくれてもいい。必要ならば官位も上げよう」
振り返ってこちらを見ながら、玲が微笑む。どこまでも穏やかで、優しいまなざしだ。
「いえ、昇格は結構です――それよりも、花立の試を受けることは出来ますか? 再試が近いと聞いたのですが」
「それは勿論」
玲は頷き、首を傾げた。
「だが、わざわざ受けずとも、今回は迅の命を救ってくれたのだから、望む官位まで引き上げてやれるよ?」
「大丈夫です。自分の力で昇っていきたいので――」
そこまで答え、私はハッとして言葉を切った。
「では、代わりに一つだけお願いをしてもいいですか?」
「いいよ」玲は嬉しそうに微笑む。「何かな? 私にできることなら何でもお言い」
「私が四品にまで上がった暁には、どうか天上人に召し上げてください」
――四品までは実力で昇っていくことが出来る。しかし、三品以上は、天上人の口添えがないと上がることが出来ない。
そこで手間取って、天上に上がるのが遅れたら嫌だった。
そう頼めば、玲は驚いたように目を丸くし、それから玉緒を見た。玉緒は呆れたように肩を竦めながらも、いつも通りの笑みを浮かべている。
「わかった。確かにそうしよう」
玲は頷き、それから自らの頬を掻いた。
「まったく、これは期待の出来る初品だね」
「ありがたいお言葉です」
微笑めば、玲も微笑み返してくれる。
「流石は神楽明星のご子息だ。――では私はここで失礼するよ。二人ともありがとう。弟をこれからもよろしく頼む」
彼はそう言い、堂々とした足取りで部屋を出て行く。そうすると、廊下で待機していたらしい臣下たちが、すかさず彼の後ろを着いていった。彼らの手により、扉がそっと閉められる。
しん、と部屋の中に沈黙が落ちた。
私は立ち上がりながら玉緒を見る。彼は何がツボに入ったのか、口を抑え、笑いを堪えて震えていた。
「何を笑ってるの……?」
「いや、皇子相手に可愛い要求だなと思って」
「そうか? だってなかなか上がれなかったら困るじゃないか」
「お前ほどの強烈な奴なら、誰も放っておかないさ。あんなに驚いた顔の玲様は久々に見たな」
ぷっ、と玉緒は噴き出した。腹を抱え、ケラケラと笑いだす。きっと、緊張の糸が解けた影響もあるのだろう。そこまで笑わなくてもいいのに、とこっちが苛立ってしまうほど、彼は楽しそうに笑っていた。
そんな彼の様子を見ていると、ふと、一つの心配事を思い出す。つい見つめる視線が真剣なものになると、玉緒はややあって笑うのをやめ、瞳に浮かんだ涙を払いながら尋ねてくる。
「どうした? そんなに真面目な顔をして」
「……その、……あのさ、今回のことなんだけど、」
「うん?」
玉緒は優しい声をして、先を促してくれる。その微笑みは無理に作ったようには見えない。
「――気にしてない?」
「気にするって、何を」
「だから……宗家が、あなたが皇帝の護衛になることを恐れて、迅を殺そうとしたことを……」
「想像よりも宗家が馬鹿で驚いた」
彼はあっさりとそんなことを言う。てっきり気に病んでいるかと思っていたが、案外にさっぱりした態度なので驚いた。
「大丈夫だよ」玉緒は微笑みながら言う。「宗家が悪いんであって、俺は何も悪くない。まぁ確かにそうだよな、俺は迅を守ってただけだもの――だから気になんかしてないし、悩んでもいないよ」
そう言いながら私に近づいてきて、おもむろに手を伸ばした。くしゃくしゃと髪を掻きまわすようにして頭を撫でられる。安心させるような手つきだった。
「お前がいてくれてよかった」
「え……?」
「お前がいなかったら、今頃、罪悪感で潰れてたかもしれない。けど、お前がいてくれたから、俺は堂々とここに立っていられるよ。死んだ叔父上にも堂々と再会できそうだ」
「私、別に何もしてないけど……」
「そうか」
玉緒は笑みを深める。再び、頭を撫でられた。くすぐったいような心地が胸に広がる。
頭を撫でていた手が、ふと動きを止めた。それはするりと下へ落ちてきて、私の肩に置かれる。玉緒はどこか真剣なまなざしで私を見ていた。
「……玉緒?」
「俺ばっかり支えてもらってるんだ。お前を支えるにはどうすればいいんだ?」
「私は、あなたにたくさん助けてもらってるんだけど、その上にさらに支えてくれるのか?」
思わず聞き返せば、彼は可笑しそうに笑った。
「助けているか?」
「助けてもらった――初めて城に来た時でさえ、助けてもらってる」
「覚えてたのか」
彼は懐かしそうに目を細める。彼の方も覚えていたのだと思うと不思議な心地がした。
「俺がお前を助けるのなんて、全部一時的なことさ。常に傍に居て、常に守ってやれるわけじゃないし、だから何か支えになれたらいいな、と思って」
玉緒はそう言ってから、「――恩返しとしてな」と慌てて付け加えた。
とはいえ、覚えのない恩に恩返しをされても変な心地だ。
「そうだなぁ……あぁ、じゃあ、玉緒が前に言ったみたいに、甘えさせてよ」
「え?」
「私が『これは私の問題だから!』って思ったら、玉緒に甘えに行くから、相談に乗ってくれ」
そう言えば、玉緒は満足げに微笑んだ。頷いてくれるのを見ながら、私はふと気付く。
「あ、で、でも、玉緒が誰かと付き合ったり結婚したりするなら、よその女がそんな風にくると困るよな? そういう時は教えてくれ」
「しばらくそういう相手を作るつもりはないぞ」
「吉祥は?」
「叔母上には悪いけど、あれは俺にとっては家族みたいなものだからな、結婚は考えていないよ。一度きりの人生だし、出来れば恋愛結婚がいいしな」
「そうなんだ」
「お前は? 結婚するのか?」
「何を言ってるんだ」
私は笑い、首を横に振る。
「男として出仕するんだから、しばらく結婚できないよ。女だと公表するにしても、天上人になって活躍してから、頃合いを見て、だしなぁ」
「じゃあ、俺は、少なくともお前が天上で活躍するまでは支えていられるな」
「そうか、それは助かる」
私たちはニコニコと笑顔を交わした。
――気付いたのは私の方が早かった。
「……え?」
驚きが声に出る。僅かに遅れて、玉緒がハッとした顔で唇を一文字に結んだ。
「……それ、どういう意味?」
尋ねるが、玉緒は口を閉ざしたまま、答えない。けれどもその表情に、自分の失言への後悔が滲んでいた。
「私が女に戻るまで、誰とも結婚しないってこと?」
「……今のところは」
観念したように、玉緒が溜息交じりに言う。
「それは――どういう意味?」
もう一度尋ねれば、玉緒は力なく首を横に振った。
「それはその時まで勘弁してくれ……」