第四十七話 皇子
――矢が吸い込まれるように迅の手元へ飛んでいく。それは彼が手に掴んだ真っ白な杯を砕き、そのまま宙を突き抜けて、反対側への扉へと突き刺さった。砕けた杯と酒とが空中で飛散し、床へ落ちる。泰玉殿の中がどよめきで溢れかえる。
「何者だ!」
前方に立っていた黒衣の武人たちが立ちあがり、こちらに駆けてくる。彼らは弓を構えた私に飛び掛かろうとしたが、その直前、迅が叫んだ。
「待て! その者に触れるな!」
ピタッ、と武人たちが動きを止める。次の瞬間には玉緒が私と彼らの間に割り込んできて、彼は静かな口調で言った。
「雅人を拘束しておけ」
混乱している武人たちは、その簡潔な命令に反射的に従い、こくりと一様に頷くと、私たちの横を通り過ぎて部屋の中へ入り込んでくる。振り返れば、雅人は横腹を軽く斬られて床でのたうち回っており、易々と拘束されていた。傷口の場所と血の量から、致命傷にはなりえないだろう。
――そんなことを思った途端、ふわ、と一瞬、意識が遠のくのを感じた。同時に右肩が激痛に喘ぎだす。私は刺さったままの刀を引き抜き、床に投げ捨てた。
「迅皇子」
血は流れ出る一方だが、酷い怒りは収まらなかった。私は右肩を抑えたまま、玉緒を突き飛ばすようにして迅と、傍らに立つ第一皇子の前に歩み出る。すぐに黒衣の武人が駆け寄ってきたが、それを迅が片手を挙げて制した。彼は私を見て、目を細めている。笑っているのか、泣いているのか、よくわからない表情だった。
「余計な真似をしてくれたな」
「――余計な真似だと!?」
思わず叫べば、迅はびっくりしたように目を丸くした。その途端、どこか虚ろだった彼の目に、僅かに生気が戻ったように見えた。それに安堵のようなものを感じた為か、言葉が次々と溢れ出す。
「何、勝手に死のうとしてくれてるんですか! あなたは死んではいけない人でしょう!」
「お前も雅人も、結局は私を選ばなかっただろう」迅は目を伏せる。「同情はよせ」
「同情!?」
カッ、と頭に血が昇るのを感じる。同時に酷い眩暈がした。それでもしっかりと両足に力を込めて立ち、迅を睨む。
「同情だと!? あなたの何に同情すればいいんだ!? あなたは地位もあれば才能もあるし優秀な部下だっていらっしゃる。あなたに嫉妬さえすれど、同情なんてするものか!」
視界が霞んできた。それでもまだ迅を睨み続け、私は叫んだ。
「自分の価値を見誤らないでください――」
ふっ、と目の前が真っ暗になる。足から力が抜け、私は受け身も取れずにその場に倒れた。床で頭を打ち、痛い、と思ったのを最後にして、意識が途切れた。
*
ハッと目を開ければ、一面真っ白だった。ぱちぱちと瞬けば、その白との距離感が掴める。あれは天井だ。頭の裏に添えられた柔らかさ、身体を包む温かさ――寝台に寝かされているのだとすぐに分かる。朝なのだと思った。何気なく上半身を起こそうとして、右肩に激痛がはしる。思わず呻けば、真っ白な視界に影が差した。
「目が覚めたか?」
やや日に焼けた肌。黒い髪が揺れ、その下から死んだような、さらに黒い瞳が覗く。いつも虚ろにどこかを見ているその瞳は、今は優しく細められていて、そこに私が映り込んでいた。
「玉緒」
名前を呼びながら、今度こそ上半身を起こす。玉緒が腕を伸ばし、それを手助けてくれた。
知らない部屋だった。ただ寝台と棚と背の高い円卓だけが置かれた部屋で、大きな窓から明るい光が差し込んでいる。朝であることは確かだったらしい。小鳥の囀りが聞こえてくる。
「ここは……?」
「天上だよ」玉緒は優しい声で言った。「お前が迅を怒鳴りつけてから一晩経った」
「……あぁ」
――思い出した。
「迅は?」
「自室に籠ってる」
「あなたは一緒にいなくていいの?」
「他の奴が見てるから大丈夫だ」
「護衛のくせに」
呆れ果てて言えば、彼は困ったように眉尻を下げる。何か言い返すのかと思えば、言葉を選びきれないように、視線だけを泳がせていた。
さらに追い打ちをかけようとして、ふと、玉緒がここにいる、という事実に改めて気が付いた。当然のように目の前にいるが、それは勿論、当然のことではない。
「……いつからここに?」
それにも玉緒は答えない。ひょいと両肩を竦めるだけだ。
寝台の横には背もたれのある椅子が置かれていて、そこに玉緒は腰かけていた。服装を見れば昨晩と同じで、若干の汚れも残っている。着替えもせず、そのままなのだろう。
「――ずっと、ここに?」
聞き直せば、玉緒はまた肩を竦めた。
「ずっとも何も、一晩くらい短いものだ」
あっさりとそんなことを言ってみせる。そんなぶっきらぼうな言葉に、心臓が跳ねる。
玉緒は腕を組み、はぁ、と淡い溜息を吐く。それが安堵の色を含んでいるようにも聞こえた。
私は何か言おうとして口を開いたが、その前に扉を叩く音がした。玉緒はさっと立ちあがり、返事をする。扉が開き、入ってきたのは――美青年だった。
色素の薄い髪を肩上で揃え、茶の瞳を優しく揺らしている。繊細な美しさを持ち、肌も驚くほど白い。鼻はすっとして高く、唇も薄く、弧を描いて柔らかな笑みを浮かべていた。彼は深青の衣に身を包んでおり、一目で皇家の者だと分かった。いや、皇家の者というより――
「玲皇子」
玉緒がハッと息を呑む。迅の実兄、第一皇子の玲だ。
「やぁ、玉緒」
よく響く声は迅に似ている。彼は微笑んだまま部屋の中へ踏み込んできた。その後ろを、ぶすっと不機嫌そうな顔をしている迅が着いてきて、すぐさま後ろ手で扉を閉めた。どうやらその背後には付き人がいたらしく、アッという情けない声が聞こえたが、迅はそれを無視する。
迅の機嫌が悪そうな顔を見ると、かえって安堵の気持ちが胸に広がった。その顔は見覚えがある、つまりは、いつも通りだと言うことだ。
「君が神楽月國だね?」
玲は寝台の傍に近づき、首を傾げる。急いで寝台から降りようとすると、彼は頭を横に振ってそれを止めた。
「いいよ。怪我人なのだからあまり動かない方が良い」
「……見苦しい姿で申し訳ありません」寝台に腰を下ろしたまま、私は頭を下げた。「初品の神楽月國です。第一皇子殿にお会いできるとは……」
「堅苦しい挨拶もいいよ」
私の言葉を、玲は微笑みながら遮った。やんわりとした口調だが、はっきりとした拒絶を感じる。もともとそういうものを好まない人物なのだというのがその態度でわかった。
彼はさっきまで玉緒が座っていた椅子に腰かける。すぐそこに第一皇子がいるのは変な心地がした。直接目を合わせるのは不敬になるだろうか、と変なことを考えてしまい、視線が泳ぐ。
「――事実は説明した通りだぞ、兄上」
迅が吐き捨てるように言う。彼は扉を背にしたまま、それ以上寝台には近づいてこなかった。
「全ては化野宗家の策略だ。奴らに騙されて、私は兄上を殺そうとした。だから私と宗家を静粛しろ。国民の前で斬首刑にするのはどうだ? 見物だぞ。皇子が処刑されるなんて大事だからな、市井はお祭り騒ぎになるかもしれん」
迅はハッと自嘲気味に笑いながら言った。思わずキッと睨みつければ、彼はバツが悪そうにそっぽを向く。
「だから何故睨むのだ」
「……迅皇子を処刑なさらないでください」
私は迅には答えず、玲を見て言った。彼はただニコ、と微笑み、何も言わない。何を考えているかさっぱりわからない笑顔だ。
「愚か者」迅が溜息を吐く。「私は死ぬべきだ。死ぬのが許されぬなら、せめて追放くらいはするべきだな。その先で勝手に死のう」
「簡単に死のうとしないでください……そもそも、何でそんなに死にたいんですか。昨日だって、毒が入ってるとわかっていて杯を飲もうとして……」
振り返って尋ねれば、迅は肩を竦める。瞳が悲しげに揺れた。
「誰にも必要とされていないのならばもう生きていく必要もないだろう」
「だから、あなたは必要だと――」
「お前は兄上の才を知らないからそんなことを言えるのだ」
迅が鬱陶しげに声を上げる。それを聞き、何故か玲は陰のある表情をして俯いた。迅は玲の様子には気付かず、荒々しい声で続ける。
「私のことを兄上が潰そうとしていると雅人から聞いた。そんなことはありえないと思った。天才がわざわざ赤子の首を絞める必要はあるまい。だが、本気で雅人たちが私が皇帝となるのを望んでいるのならば――本当に私を信頼してくれているのならば、それに応えたいと思った。蓋を開けてみれば、騙されていたのだけどな」
ふ、と迅は笑う。痛々しい笑みだった。見ているこっちの胸が締め付けられるほどに、悲しそうな笑顔だった。
「兄上よりも私の方が良い、と言われるのは初めてだったから、それを信じてみたかったんだ。それを信じて、裏切られて死ぬのなら、それでいいと思った」
――結局、私の人生はその程度のものだったというだけだ、と迅は呟く。
「お前だって私を拒絶しただろう」
急に迅は真っ直ぐに私を見た。それがあまりにも真摯で、胸の奥が酷く痛んだ。
迅の事はけして嫌いではない――でも愛しているから結婚して欲しい、という申し出を受け入れることは私にはできない。
男として、官人として、自らの力で駆けあがっていきたいから。
それに――思わず玉緒を見れば、彼も私の方を見ていた。一瞬だけ視線が交差する。逸らすのは私の方が早かった。
「……事情は知らないけど、」
何も言えずにいると、ふと優しい声がした。玲が微笑みながら、迅を見て言う。
「月國さんを責めるのは、何だか変な気がするよ」
迅はすっと柳眉を寄せた。玲はさらに笑みを深め、言葉を続ける。
「誰がお前の命を救ってくれたの? しかもあんな手段で……一歩間違えれば自分の首が飛んでるところだった。そんな危険を顧みずに、お前を救うために弓を引いたのは誰だった?」
そう言われ、迅は言い返そうと口を開けたが、しかし、何も言えずに僅かな息だけが漏れた。彼は唇を噛みながら、私を見る。その眼に迷いがあった。
「……どうして助けた?」
その声が震えている。そう尋ねるのが怖かったのかもしれない。迅は自分の身体を抱くように腕を組み、私をじっと見ている。
「どうしてって……言いませんでしたか、あなたは価値のある人間だからです」
「だから私には……」
「私は天上人になりたい」迅の言葉を遮り、私は言った。「だから死にたくないし、処刑されるのもごめんだ。ですが、それと同じくらい、いや、それ以上に、あなたが死ぬのも困るんです。あなたはこの国に必要な人だと思うから」
私は迅を睨み返し、はっきりと言った。
「皇帝になれないと価値がないんですか? ――だったら私や玉緒には価値がありませんか? 必要がないから死ぬべきですか?」
言いながら、ちら、と玲を見る。彼は面食らったような表情をしてこちらを見ていた。
「玲皇子以外の人間はみんな死ぬべきですか?」
は、と迅が呆れて笑う声がした。
「それなら皇帝も何もないではないか」
「そうです」迅を振り返る。「だから、あなたが皇帝になれないからって、死ぬ理由が私にはわかりません」
「皇帝になる、ならないの話じゃない。誰からも必要とされていないのなら――」
「――必要だって言ってるでしょう!」
怒鳴りつけるように言うと、迅はびっくりしたように言葉を飲み込んだ。
「何度言えばわかるんですか!? 人の話を聞くつもりがないなら、人に裏切られたくらいで落ち込まないでください! 雅人に裏切られたことに、私に断られたことに、傷つくのなら、今の私の言葉だって同じ重みで聞いていただきたい!」
私は寝台から飛び降りる。その衝撃で肩が痛んだが、私は気にもせずに迅の元へ駆け寄った。その目の前に行き、両肩を掴む。
「あなたはこの国に必要です。いつだったか、あなたの考えを読んだ時に確信しました。どうか私の言葉を聞いて欲しい――化野宗家の裏切りなんかより、ここにいる私の言葉をちゃんと聞いて欲しい! 死ぬなんて馬鹿な真似はよしてください。私はあなたと共に天上で働けることも楽しみにしているんだから」
「だが……皇帝になれぬなら何の為に生まれてきたのだ、私は皇子だぞ?」
――ふと、その表情がやけに幼く見えた。
いくら皇子と言えど、まだ私と二、三しか年の変わらぬ青年だということを思い出す。
幼い頃から兄に「お前の方が皇帝に向いているよ」と優しい声をかけられ、皇帝になれると信じて生きてきた迅。成長し、野望が膨らんでいくと共に、兄の才能に気付いていった迅――その姿にはどこか自分と重なるものがある。
「何の為に生まれてきたか、なんて自分で考えてください」
私は突き飛ばすようにしながら、彼の両肩から手を離す。
「ただ一つだけ、聞いてくれますか」
迅は扉に背中を預けながら、こくりと僅かに頷く。
「私は、あなたが皇帝じゃなくても、あなたを尊敬しています」
才能に地位は関係ない。皇帝だろうが、一官人だろうが、迅の考え方はこの国をさらに進化させるのは間違いない。確信を持って言えば、彼は放心したように瞬きした。
くす、とどこかから淡い笑い声が聞こえ、振り返れば、玉緒が軽く片手を挙げていた。
「今更ですけど、俺も便乗しますよ。俺だってあなたに感謝してもしきれないんだから」
「……そんな言葉で絆される私ではない」
ややあって、迅は不機嫌そうに言い放ち、踵を返すと扉を開けて部屋を出て行った。引き止める暇もなく、バンッ! と強い音を立てて扉が閉められる。追いかけようとすれば、涼やかな声がそれを引き止めた。