第四十三話 糸
「――月予、とは、私の妹の名前ですが……」
微笑みながらそう言ってみたが、速水は残念そうに首を振る。
「そんなことを言っても無駄ですよ。あなたが月予であり、性別を偽って仕官していたのはもう分かっています」
「……騙したんですね?」膝の上で拳を握る。「犯人が捕まったなんて嘘でしょう。そんなことを言って私を連れ出して、牢屋敷にでも連れていくんですか? それともすぐに処刑するつもりですか?」
「嫌だな、物騒なことを言わないでください」
速水は慌てたように両手を顔の前で振り、相変わらず明るい笑みを浮かべている。その様子を見ると、もしかして味方なのではないか、という気になった。事情を知って、手助けをしようとしてくれているのではと――しかし、それは淡い期待に終わった。ハッと気が付けば速水の腕が伸びてきていた。押し倒されるようにして組み伏され、唇に甘い匂いのする布を押し当てられる。
「……すぐに殺すなんて、そんな勿体のないことはしませんよ」
速水は目を細めた。その奥でぎらりと妖しく光るものがある。味方などではありえない、情の欠片もない目だ――
*
――目が覚めた。反射的に身体を起こそうとして、後ろ手を縄で縛られていることに気付く。足首もしっかりと縛られており、身動きが取れない状況だった。
薄暗い部屋だった。どうやら畳の上に寝転がっているようだ。顔を上げ、辺りを見渡してみる。五畳程度の広さの部屋で、三面が壁になっている。もう一面は襖で、ぴったりと閉ざされている。一つだけ、高い位置に窓があり、そこから差し込む光だけが光源だった。光は橙色をしていて、もう夕暮れなのだと気が付く。
速水に何か気を失ってしまう毒を盛られたのだろう。祥華も痺れ薬を盛ってきたから、化野一族は毒や薬について卓出しているのかもしれない。優秀な護衛は、主君に毒が盛られてもそれに気が付けるよう、毒や薬に詳しいのだと聞いた覚えがある。玉緒も毒の判断が早いし、私の怪我を治療するのも手早かった。
でもどうして速水が――と、そこまで考えて、ふと、ある可能性に辿り着く。
考え出すと止まらなかった。まさか、まさかと考えたことが、どんどんと繋がってゆく。どうして今まで気付かなかったのか、不思議に思うほど、それは簡素な一本の糸で繋がっていた。
けれど、わからないことが、二つ。
事件を起こした目的と、あと、何故私が狙われたのか。あの日、城の中で四品の死体を見つけなければ、事件とは無関係のままでいれたはずだ。あの日の何かが問題となって、私は狙われている。
事件の裏にいる者の予想はついた。ならば、彼らが私を狙っている理由を考えるだけ。答えから逆算していくと、意外と簡単にわかる気がした。そして、確かに、思い出した。
一本の糸の初めを手繰り寄せた。あとはこの糸が、どこへ続くのかを見極めればいい。
不意に、誰かの足音が聞こえてきた。私は頭を下げ、眼を閉じ、まだ気を失っているふりをした。
がらりと襖が開けられる。その誰かは部屋の中に入ってきて、襖を閉めた。ふぅという嘆息に僅かな声が混じる。速水だ。殺気のような危険なものは感じなかった。じっと目を閉じ、相手の出方を探る。
速水は膝を着き、私の肩に手を置く。軽く揺さぶられたが、私はそのままに身体を揺らし、けして瞼は開けなかった。速水の指が私の頬を滑り、瞼に掛かって、それを押し上げようとする――その瞬間に私はパッと目を開けた。気絶していると思っていた相手がいきなり動いて、速水は驚いたらしい。ぎょっとしたような顔で尻餅をついている。私はそのまま上半身を跳ね上げると、その勢いのまま、相手に倒れかかって頭突きを食らわせた。手足の自由がないので、胴体と足を無理やりに動かして相手を押し込める。速水はすぐに動こうとしたが、すかさず額に額をぶつけてやった。遠慮なくぶつけた為、私の額の方から僅かに血が漏れた。その分、衝撃はあったらしく、速水は目を白黒させて抵抗を止めた。
全体重を乗せ、速水を畳に押し付けながら、私は彼を睨みつけた。
「よくもふざけた真似をしてくれたな」
「まさかこんなに乱暴だとは思っていませんでしたよ……」
「動いたら喉元を噛みちぎるぞ!」
明らかにこっちが不利だとわかっていたので、めちゃくちゃな脅し文句を言ってみれば、意外なことに速水は青い顔になった。額から血を流している女に凄まれて、本当に噛みちぎられると思ったのかもしれない。
「一つ、聞いていいか」
「えぇ、いくらでも聞いていいですよ」
「どうしてすぐに殺さなかった? あなたたちは私を口封じのために殺したいんでしょう」
そう言えば、速水は目を丸くした。それからニヤリと醜悪な笑みを浮かべる。あの優しかった速水と同一人物とは到底思えない顔つきだった。
「口封じと仰るということは、やっぱり、気が付いていたんですね?」
「残念だけど、思い出したのはついさっきだよ。私は『矢』を見たんだ」
思わず溜息が漏れる。何故忘れていたのか。
玉緒との初めての弓勝負の後、城の中で四品の死体を見つけた時、その胸に矢が突き刺さっているのを私は確かに見た。
黒塗りの矢で、桜の花の装飾が、赤黒い血によって汚されていた。
桜の花といえば、化野家の家紋である。
玉緒はこう言っていた――化野家も特注で矢を作っている。そして、宗家は実践でもそれを用いると。
普段から特注の良質な矢で練習している者は、良質な矢しか上手く扱うことが出来ない。だからこそ城内での四品殺しにそれを用いた。天上人がそれに気付かないはずがないから、おそらく回収したのだろう。しかし、回収をする前に、近道しようと駆けてきた私が死体を見つけてしまった――というわけだ。
「あなたが思い出していたがどうかに関わりなく、あなたの記憶にそれがあるというのが問題ですからね。気が付いているけど黙っているのか、本当に気が付いていないのか、僕らにはわかりませんし」
「あなたが殺したの?」
「他の者が。宗家は人が多いですから」
「つまりあなたの私怨というわけじゃなくて、化野宗家が起こした事件ってことなのね」
「ええ」
「……随分と素直に教えてくれるんだな」
「噛み殺されたくないですし」速水は苦笑した。「それに、後で死んで頂くんだから、構いませんよ。冥途の土産にいくらでも持って行くといい」
にやにやと速水は笑う。私が速水を押し倒しているものの、この場所はおそらく宗家の私有地で、圧倒的に速水が有利だ。
「……その時はあなたの喉も噛んで、道連れにするわ」
余裕そうに笑っていることに苛立ちを感じてそう言えば、速水は嫌味な笑いを止めた。
「じゃあ、何度も毒を盛ったり、襲撃してきたのも化野宗家なのね」
ええ、と速水は頷く。
「武を殺したのもあなたたちね。弁当を準備した女官の中に化野宗家に関係する者がいたんでしょう。迅が誤って飲みそうになった毒も……」思い出して思わず呆れてしまった。「あの茶を運んできたのはそもそもあなただったわね」
「楽な仕事でした」
にこ、と速水は笑う。それがまた、陽気で優しそうな笑みで、かえって苛立ちが増した。
「……香鈴に毒を盛ったのも、あなた? あの子に甘言を吐いて、上手く利用したのも……」
「第一皇子の命令で、第二皇子に毒を盛って失敗したんだ。このままでは私は全てを失ってしまう。そうすれば愛する君も、君の家族も救うことが出来ない――」速水は芝居がかった口調でそう言ってから、へらへらと笑う。「そう言って泣きつけば簡単でしたよ。罪を被る、と言い出してくれたから、君が処刑されるのは嫌だ、月國という男が怪しそうに見えるから、そいつに上手く罪を被せよう、と説得しましてね。……まさか君があそこまで迅皇子や玉緒に信用されてたとは。上手くいけばとっくに牢屋敷行きだったのに」
「それなら、香鈴に毒を盛らなくてもよかったじゃないか!」
「いやぁ、駄目ですよ。すぐにボロを出すに決まってましたから。良い感じで毒が回って死んでくれて助かりました」
――こいつは平気な顔で何を言ってるんだ。
香鈴はお腹に赤子がいたという。それが本当かどうかはわからないが、彼女は真剣に速水を好いていたはずだ。
早くに父親が倒れ、幼い弟の為に奮闘していた少女。苦労の果てに、速水のような優しい人が現れたら、きっと夢中になってしまうだろう。そんな彼女を、虫でも殺すような気持ちで、彼は殺したのだ。
「許せない……」
声が震える。速水が喉を震わせ、笑う。
「許してもらわなくて結構です。どうせあなたは死にますから」
「……そうだ、どうして今すぐに殺さないんだ? 何で私は生かされてる?」
「時間稼ぎです」
速水はあっさりと答える。
「あなたが生きていれば、玉緒がきっとここに来るはずです。そうすれば、玉緒は今晩の親睦会には間に合わない」
そういえば、確かに、皇家の親睦会があると迅と玉緒が話していた。
明日の晩、つまり今晩には親睦会で会うのに、わざわざ化野雅人が迅に接触しに来た――一体何の為に?
ハッとして速水を見れば、彼は太陽のような笑顔を浮かべ、優しい声で言った。
「今晩、迅皇子は死にます。これで玲様も、化野宗家の地位も安泰ですよ」