第四十二話 朗報
化粧を落とし、用意されていた服に身を通し、乱れた髪の毛を整える。鏡で自らを写せば、そこには懐かしく思える、神楽月國の姿があった。よし、と衣服を正していると、襖を勢いよく開け――ようとして詰まらせながら、母親が飛び込んでくる。
彼女は部屋に入るなり、ぎょっと両目を見開いた。
「月矢! ねぇ、月予はどこ? 今、変な話を聞いたんだけれど……」
彼女はひそひそと緊迫した声で話しながら襖を閉め、きょろきょろと辺りを見渡しつつ私の傍まで近づいてくる。そしてふと私の顔を見、キャアと甲高い悲鳴を上げた。
「月予! その格好は一体何!?」
「見ての通り。客が来てるみたいだから、説明は後で……」
「待ちなさい!」
部屋を出て行こうとする私の腕を引き、母は真っ青な顔を向けてくる。
「どうしたの、この髪、それにこの服……まるで男みたいじゃないの……!」
「そうだよ。私は神楽月國として、月矢の代わりに、官人として仕官しているんだ。女官ではなくてね」
そう言えば、頬に鋭い痛みが走った。頬を叩かれたのだと気付くのにそう時間はかからなかった。
「そんな話し方はやめなさい! あなたは女の子なのよ、どうしてそんな……」
「確かに私は女です、お母様。だけど、官人になって、お父様みたいな立派な天上人になりたいんだ」
「冗談を言わないで」
「冗談じゃない!」
思わず大声を上げると、母親は驚いたように手を引っ込めた。美しい顔が驚きと恐怖に歪むのを見て、私は慌てて笑みを浮かべ、その小さな肩に手を置く。
「今まで黙っていてごめんなさい。一年前の春からずっと、官人として、神楽月國として生きてたんです。私は本気で、お父様の背中を追いかけ――いや、越えるつもりです。どうか行かせてくれませんか」
「で……でも、そんな、女は官人にはなれないのに……」
「だから、月矢のふりをしているんです」
ふら、と母親が体勢を崩した。両手を伸ばして支えてやれば、想像よりもずっと軽い身体が倒れ込んでくる。彼女は青ざめた顔をして私を見上げた。
「そんなこと……バレたらあなた……殺されてしまうじゃないの?」
「かもしれない」
「駄目、駄目よ、やめなさい、もうおやめなさい、月予に戻るのよ、もう家から出さないわ」
「お母様、お願い、許して。私は天上人になるの。信じて、行かせて欲しい」
目を見てはっきりと言えば、彼女はハッとしたように息を呑んだ。その目が、私を通して、全く別の誰かを見ているように見えた。そう感じた途端、彼女は私の腕を離れ、ぺたりと床に座り込む。
「お母さ……」
「……いいわ、行きなさい」
「えっ?」
予想を裏切り、あっさりと許してもらえて、かえって驚いた。本当に許されたのだろうか、と不安になって、なかなか部屋を出られずにいると、彼女は顔を上げ、微笑んだ。
「天上人になるから、許せ、と言われるのは二度目なの。何を言っても、どうせ聞かないのはわかってるわ……本当に、お前は父そっくりね」
――病気がちのくせに、最後まで城に勤めて、本当に天上人になって帰ってきたわ、と彼女は笑う。それは酷く寂しそうな笑顔に見えて、心臓をぎゅっと鷲掴みにされた心地がした。
「信じて待っててください」
頭を下げれば、母が僅かに頷いたのが、気配で分かった。
部屋を飛び出し、客間へと急ぐ。廊下を駆けるように歩くと、すれ違い下女たちがぎょっとした顔で私を振り返ってゆく。誰も彼もが困惑している顔なのが、かえって可笑しかった。
客間の襖はぴったりと閉じられている。そこに指を馳せ、息を吸い込んだ。
「――神楽月國です。入ってもよろしいか?」
どうぞ、と返してくる声に覚えがあった。おや? と思いながら襖を慎重に開け、中を見てみれば、こちらに向けて正座をしているのは、化野速水だった。相変わらず、太陽のような笑みを満面に広げている。その笑顔を見れば、こちらの緊張もあっという間にほぐれた。
「速水殿! お久しぶりです」
思わずこちらも笑みを浮かべながらそう言えば、彼もぺこぺこと頭を下げて挨拶を返してきた。
「急にお邪魔して済みません。お元気そうで何よりです、月國殿」
「こちらこそ。また会えて嬉しいです」
「私も」速水は目を細めた。「ずっと家に籠っているとお暇でしょう」
「あぁ……そう、ですね」
曖昧に微笑めば、速水は同情するように何度も頷いた。その実、玉緒の家で好き勝手したり、市場に繰り出したりしていたのだから、少し申し訳なさを感じる。
「そ、それで、速水殿は一体何のご用件で」
「朗報ですよ!」
一転して表情を明るくさせ、速水は手を打った。
「城の中であなたを襲撃したり、毒を盛ったりした犯人がついに捕まったのです。あなたの罪は完全に晴れました。それでお迎えに参ったのです」
「本当ですか!?」
「えぇ。嘘など言いませんよ。あなたは官人に戻れるのです」
私も嬉しい、と速水は、本当に嬉しそうに告げてくれる。なんて良い人なのだろう。祥華たちと暮らして疲弊していた心があっという間に満たされていくような心地がした。本当にぽかぽかと温かく、優しい人だ。
「手続きの為に城へ来て頂きたいので、早速で申し訳ないですが、同行していただけますか? もちろん荷物などの準備もあるでしょうし、手続きが済めばもう一度ここにお送り致します」
「え、そんな急に?」
「はい。急がなくてはなりません。……もうすぐ花立の再試の登録が終わってしまいます。それまでに手続きを済ませなければ、花立の試を受けられなくなってしまいます」
「それは困る!」
言い終わらないうちに被せるように言うと、速水は真面目な顔をして頷いた。
「では早速参りましょう」
「はい、よろしくお願いします」
「――お連れするのはあなた一人でよろしいですね?」
「え?」
思わず聞き返せば、速水はまたにっこりと明るい笑顔を浮かべていた。
「いえ、何でもありません。参りましょうか、表に馬車を止めてあります」
「馬車ですか。相当急いで参られたんですね……ありがとうございます」
「お気になさらず」
速水は軽い口調でそう答え、すぐさま立ち上がる。私の為に馬車を飛ばしてくれながら、それを鼻にかけた風でもないのだから、本当に良い人だ。しみじみと実感した。
彼と共に門へ急ぎながら、ふと、玉緒の事を思い出す。後で顔を出すと言っていたが、どうするつもりなのだろうか。無事に城に戻れることになったのも、彼の助けが大きい。ちゃんとお礼をしなければ。何が良いだろうか。玉緒は何が好きなのだろう。
*
こっそりと門の外へ出てみれば、化野家の馬車が停めてあった。そこに月國と速水が乗り込んでいくのが見える。
普通、町の中の移動は牛車である。馬車を使うのは急患が出た場合など、余程の事態だけだ。一体、速水は何を伝えに来たのだろう。
そんなことを考えながら、馬の様子を見ている化野家の下男に声をかけようと近づいた。彼はこちらに気が付くと、びくっと身体を震わせる。
「た、玉緒様」
「お疲れ。馬車なんか引いてきてどうしたんだ?」
「速水様が客人をお迎えするのに使うと仰ったので……」
「そうか、その『客人』に俺も用があるんだ。乗せてもらうぞ」
そう言って籠に回り込もうとすると、下男は首を横に振った。
「いけません、玉緒様は乗せてはいけないと言われています」
「――何?」
聞き返す暇もなく、下男は操縦者の席に飛び乗ると、そのまま乱暴にも馬車を動かしてしまう。咄嗟に後ろに飛びのき、距離を取れば、二頭の馬は軽く鳴き、駆け出していく。牛車とは比べ物にならない速さで、馬車は進んでいく。到底、人間の足では追いつけない。
「――やられた」
思わず声が漏れた。馬車はもう小さくなっている。あれがどこへ行くのか、見当はついていた。
急がなければ、月國が危ない。
「頼まれた矢先にこれか……ッ」
情けなさに唇を噛む。俺は神楽家の屋敷に駆け戻った。
*
「玉緒?」
籠の物見窓越しに、道端に立っている玉緒が見えた気がして、思わず声に出た。見間違いだろうか。馬車の速度は速く、一瞬で視界から消え去ってしまった。
「玉緒殿がいらっしゃいましたか?」
にこにこと陽気な笑みを浮かべながら、速水が訪ねてくる。私は物見の幕を閉じながら、首を横に振った。
「きっと気のせいだ。こんなところに彼がいるはずないもの」
実際は居るのだが、速水からすればこう答える方が自然だろう。そう思ったのだが、何故か、速水は笑顔のまま首を傾げた。
「そうですか? 私は気のせいじゃないと思いますけど」
「……え?」
馬車が跳ねる。身体に衝撃を感じながら、聞き返した。地面を勢いよく駆けていく感覚。もう簡単には戻れない――簡単にはここから逃げられないという感覚。
「玉緒殿の屋敷で過ごすのはいかがでしたか? 月予様」
速水はにっこりと微笑みながら、そう尋ねてきた。
その笑顔を、初めて恐ろしいと感じた。
化野速水は、第八話『天上』で初登場した、化野宗家のおじさん(お兄さん?)です。




