第四十一話 言葉
父、神楽明星が自身の鍛錬の為に作った弓場。武人の家柄でもない神楽家に、立派な弓場があることに驚く客人は多い。それほど大きくはないけれど、人が二人、並んで射るには十分だ。
玉緒も、思わず、といった様子で目を見開き、あちこちを見渡している。射場から的まで十分な距離があり、その間は真っ白な砂利が敷いてある。射場は木の板が伸びていて屋根もあり、他の家屋と繋がっている。この家で生活していた頃は暇さえあれば気軽に立ち寄って弓を引いていた。
「……三本勝負にしよう。より多く、より中央の近くに当てた方が勝ち。それでいいかな?」
射手から離れ、射場の後方に腰を下ろし、月矢は正座をして私たちを見ている。彼はよくそこに座っていて、私が弓を引いているのを眺めていた。懐かしさを感じながら、私は頷く。
握り締めた弓は驚くほど手に馴染む――いける。大丈夫。そんな思いが沸き上がってくる。
絶対に、負けない。
ここで玉緒に勝って、官人の道を進むと共に――あの日の借りを返してやる。
恩を仇で返すような真似にはなるが、負けっぱなしは落ち着かない。ちら、と玉緒を見れば、以前私に打ち勝ったその人は、眉を跳ね上げて私を見返した。
「そんな怖い顔で見るな」
「怖い顔なんかしていない――今度、手を抜いたら許さないから」
「……わかってるよ」
玉緒は両肩を竦めた。
「おっかない兄妹だ」
「何か言ったか?」
「いや。……先行はどちらにする?」
静かな眼に私が映る。玉緒の中で何かが切り替わったのがはっきりと分かった。ストン、と突如落ち着いたように見える彼に、内心で舌を巻いた。流石は第二皇子の護衛、優秀な武人といったところだろうか。
「私から射る」
息を吸い込み、そう言うと、玉緒は頷き、一歩後ろに引いて場所を空けてくれた。
弓を握りなおし、遠い的を睨む。
――普通に考えれば、私の方が有利だ。この場所で幼い頃から何度も弓を引いてきたのだから。しかし、玉緒を伺い見れば、彼は動揺の一つもなく、的と射場とを軽く見比べている。この後、私が彼の目の前で弓を引いてみれば、彼ほどの実力者ならすぐに距離感を掴んでしまうだろう。
それでも――当てればいい。全て中央を射抜けば、私は負けない。ただ、それだけの事だ。
城での弓勝負を思い出す。自分の矜持は自分で守るしかないからと、危険を背負って勝負に出た。
今は、自分の未来を自分で掴み取ろうとしている。
今度は、負けない。二度と、あのような醜態は晒さない。
そのために、何度も弓を引いてきたのだから。
「――一本目」
声に出せば、それは伸びやかに突き抜けていく。大丈夫。弓を引く。抵抗や違和感はない。想定通りに身体が動く。全身が心地よく動いていた。後は矢の求めるように、放つだけ。
的の中央がはっきりと見えた。その瞬間、指を離す。矢が飛んでいく。
思わず微笑みが漏れた。ややあって、矢が中央に刺さる。
くるりと振り返れば、玉緒も僅かに微笑んでいた。その後ろで、月矢が目を丸くしている。
「また上達したね、月予。これは他の勝負にした方がよかったかな?」
「そんなことを言えるのも今だけよ」私は彼の為に場所を空けた。「惚れ惚れするわよ、玉緒には」
「はは」
玉緒は困ったように笑いながらも、変に力むことなく的に向かう。
その美しい型を見て、また時間が止まったような感覚がした。思わず月矢を見れば、彼も放心したように玉緒を見ている。玉緒が矢を射る音がした。振り返らなくても、それが中央を射抜いているのはわかる。
月矢が困惑したように眉を寄せ、しかし可笑しそうに口角を上げた。
「……これはどうなることやら」
「二本目」
私はそう返し、再び的へ向かう。また確信が突き上げてきて、迷うことなく弓を引いた。さっき射た矢を避けて、中央を刺す。楽しいくらいに想定通りだ。
このまま、三本目を射ればいい。そうすれば、急に外すなんてことはない。
弓を握る。その瞬間、安定していたはずの精神がぐらりと揺れたような感覚がした。
三本目。外れた矢。あの時の感覚が鮮明に蘇ってくる。
――いけない。外した時の感覚なんて忘れろ。思い出すな。
自分で記憶を閉じ込めようとしているのに、そうすればかえって溢れ出してくる。あの時の絶望、悔しさ、惨めさ――そして救われた記憶が。
玉緒が私の為に後退し、場所を空けてくれる。そして振り返り、私を見て怪訝そうに眉を寄せた。
私は一体どんな顔をしていたのだろうか。彼はしばらく悩んだように口を閉ざした後、微笑みもせずに低い声で言った。
「俺はもう外さない」
「――わかってる。玉緒に甘えるつもりはない!」
自分に言い聞かせているようなものだった。焦りで鼓動が早くなる。手の内に汗が滲み出てきた気がした。自分の気持ちを制御しなければ。記憶を追い出すように、深く、長く、息を吐いた。心地の良い感覚を思い出せ。中央を射た感覚を蘇らせろ。
弓を握り、深呼吸を繰り返す。その度に良い感覚が薄れていく気がして、かえって気持ちが逸る。このまま弓を引けば、間違いなく外す。それだけは分かっていた。
「……月國」
玉緒が溜息交じりに私の名前を呼ぶ。
私は片手を挙げて、それを制した。
「何か言いたいのなら、後で聞く。……私が勝ってから、聞く」
玉緒が開いた唇を、そのまま閉じた。僅かに頷くのが見える。私が勝つことを、私が三本目を外さないことを信じて待ってくれている。
言葉を思い出せ。荒れた気持ちを一つに抑え込めるような、言葉を思い出せ。
ここで外す訳にはいかない。玉緒に助けられるわけにもいかない。そんなもの自分の矜持が許さない。自らの夢と同じくらい、自分の中でうるさく騒ぎ回っている矜持。私はきっと、夢と矜持で出来ている。はた迷惑で、面倒くさい、そういう人間だろう。いろんな人に迷惑をかけている。それでも、生まれ持ったものにひたすら絶望し、泣き寝入りして終わるなんて嫌だ。夢を諦めるのは、嫌だ。神楽の人間として、胸を張って生きたい。
――そういう生き方はご立派だが、寿命を縮めるぞ。
そういえば、あの言葉を私に向かって言ったのは玉緒だった。本当に縮まってる可能性があるな、と思うと思わず口元が緩む。
――それでも自分の名に恥じぬように生きたいのです。
あの返答を、今でも後悔していない。あの返答をした自分に、恥じないように生きてゆきたい。
「三本目」
声は僅かに震えている。弓を引く。頭が真っ白になる。意識が遠のいていくような、変な感覚があった。その先に、懐かしい声が響く。
――月國、お前、天上人になれよ。
的がはっきりと見えた。確信が腹の底から這いあがってきた。誰かにドンと背中を押されたような、どうしようもない強い感覚があって、気が付けば矢を離していた。矢は吸い込まれるように的へ飛んでいき、そして中央を射抜いた。
振り返る。玉緒が感心しているような、呆れているような、よくわからない笑い方をしている。彼はいつだってよくわからないけれど。
「……あなたの番よ」
後退して、場所を譲る。玉緒は笑みを消し、弓を構えた。
三本勝負で決まらなくても、何本でも、決め続けてやる。玉緒か月矢が音を上げるまで、永遠と打ち続けてやる。もう二度と外さない。
玉緒が弓を引く。震えるほど美しい型。
――その時、バタバタと駆けこんでくる音がした。
「あ、あのっ、化野という方々がお見えになってらっしゃいますが」
下男だった。真っ青な顔をして弓場に飛び込んでくる。
化野? と月矢が首を傾げながら玉緒を見た。玉緒は弓を下ろし、その下男を見ている。下男ははっきりと玉緒の方を見返し、おずおずと言った。
「月國という方をお探しでおいでですが、あなたのことでしょうか……?」
官名のことを家の者には告げていない。私と月矢だけの秘密だった。
「……呼ばれているよ、月予」
月矢がにこりと微笑んで私を見る。
「え、でも、まだ勝負が……」
「ここで真ん中を射抜くほど、素直な男じゃないだろう、この人は」
そう言われ、玉緒は曖昧に肩を竦めた。手を抜くつもりだったのかと睨みつけると、彼は慌てて首を横に振る。
「いや、真面目に打つつもりだったぞ、本当だ。だから怒るな」
「怒らないわよ! 私を何だと思ってるの」
「既にちょっと怒ってるだろ」
「お、怒ってないわよ……」
私が目を逸らせば、あはは、と笑い声を上げ、月矢が身を捩る。それが咳に変わり、驚いて駆け寄ろうとすれば、すぐに持ち直した彼が片手を挙げた。
「君は呼ばれてるんだから、お行き」
「でも……」
「いいから」
「本当に良いの?」
「あぁ。――君は勝負に勝った。君は、神楽月國だ」
月矢が、私の肩を優しく押す。下男が不思議そうに私を見た。
玉緒の方を見やれば、彼も頷き、私を促している。
「じゃあ、月國に戻らないと」
私は微笑み、重たかった鬘を掴んで、一気に引き抜いた。空気に地毛と地肌が当たり、何とも言えない心地よさを感じる。ひぇえっ、と下男が悲鳴を上げた。
「月矢の服で良い。客に会う為の、男の服を用意してくれ」
下男にそう言えば、彼はコクコクと頷き、飛ぶように去っていく。
私は玉緒を振り返り、尋ねた。
「化野が何の用だろうな」
「さぁ」玉緒は首を傾げる。「雪平あたりかもしれん。警戒はしておけよ」
「あなたは来ないのか?」
「俺がここに居ると知れたら面倒だろう。後で上手いこと顔を出す」
「まぁ、そうだな……頼む」
鬘をくるくると小さく丸めながら言うと、彼が笑ったように見えた。何だ? と目だけで問えば、やっぱり笑っていた玉緒は、腕を組みながら答えた。
「そっちの方が似合ってるよ」
「そうか」
そういえば、玉緒はよほどのことがない限り、月國と呼んでくれたな、と思いながら、私も笑った。
久々の男の服が待ち遠しい。早く、官服に戻りたいものだが。
私は二人を置いて弓術場を出て、着替える為に自室へ戻った。
*
「……結局、月國を勝たせてやるつもりだったんですか」
思わずその場に座り込みながら問えば、月矢は済みません、と笑いながら軽く頭を下げた。
「あの子が外せば、もちろん負けとして結婚させるつもりでしたが。あの子の腕が素晴らしいのは僕が一番良く分かっているので、気持ちさえ整えば、ちゃんと勝ってくれるだろうと思ってました」
あなたが強すぎてどうしようかと焦りましたけどね、と月矢は苦笑する。
その優しげな兄の笑顔に、俺は尋ねてみた。
「月國は、あなたの道を奪う事を気にしていたようですが、実際はどう思ってるんですか?」
「自分を踏み台にして活躍する月予が憎い」
さらりとそう答えるので、一瞬驚いたが、その顔が意地悪げに微笑んでいるので、すぐに冗談だと気付いた。彼はにこにこと微笑みながら、手を顔の前で振る。
「冗談です。それどころか、僕はあの子の踏み台になってあげたいくらいなんですよ。それであの子が夢に手を伸ばせるのなら、いくらでもそうします」
「……兄妹愛、ですか?」
「一言で言えばそうなのでしょう」彼は頷いた。「あの子は、僕の目の前で、大泣きしてたんですよ。私は官人になれない、女だからなれない、なりたかったのに、だから頑張ってたのに、ってずっと泣いてました。泣きすぎてそのまま死んでしまうんじゃないかなってくらい。それが……あんなに必死で未来へ向かって突き進むようになってくれました。絶望していた妹を救えたのなら、それだけで僕の生まれてきた価値があるというものです」
「それは自己評価が低すぎやしませんかね」
「そんなことありませんよ。それくらい、僕にとって月予は大切な存在なんです」
月矢が目を伏せる。
「今は大分ましになりましたが、幼い頃は病気が酷くて。息をするのも喉が痛くて苦しい時があったんです。死んだ方が楽だと思ってましたが、それを支えてくれたのが月予でした。彼女を救えるなら、僕は社会での居場所なんか要らない。僕の名前を背負って、月予が頑張っていると思うと、本当に生まれてよかったと思えます」
にこりと微笑んでから、彼は明るい声で続けた。
「まぁ、本音を言うと、皇子と結婚してくれたら、身の危険もないし、こっちも安心なんですが。いろいろと前のめりな子ですけど、どうかよろしくお願いしますね」
ぺこりと頭を下げられ、返事に窮する。しばらく悩んだ後、それに真面目に返すことはやめて、俺は話題を変えた。
「……最初からそう言えば良かったじゃないですか。どうして、わざわざ弓勝負を?」
「あの子の性格、わかってるでしょう?」月矢が頭を上げた。「ちゃんと自分で考えて、ちゃんと自分で掴み取らせないと、中途半端に道を譲ってやったりしたら、またクヨクヨ悩み始めますよ」
自分で決断して、自分で選び取ったものなら、その罪悪感さえ、ちゃんと背負い込んで前へ進める子ですから、と月矢は言い、微笑む。
「だから、背負い込んだものに押しつぶされないよう、あの子をよろしくお願いしますよ」
にこ、と笑いながら念を押され、気が付けば、はい、と頷いていた。