第三十九話 願い
襖を勢いよく開けようとして、また、詰まった。それを見て、部屋の中にいた二人が揃って笑う。
「おはよう、月予……慌てなくてもいいのに」
今日は布団は片づけられていて、月矢は畳の上に座っていた。片方の肘を円卓に置き、気だるそうに体重を預けている。そのすぐ傍に玉緒が胡坐で座っていて、私を見上げて、笑ったような、困ったような、微妙な顔をした。
「……おはよう、月矢、玉緒」
力づくで襖を閉めながらそう言うと、ややあって玉緒が挨拶を返してくる。
――昨日は結局、部屋には戻らず、父の部屋で眠った。一度は自室に戻ろうかと思ったのだが、なんとなく気恥ずかしかったのだ。寝れば忘れるかと思ったけれど、そんなことはなく、今も顔をまっすぐに見れない。玉緒から目を逸らしたくて、月矢をじろじろと見ていると、彼は笑ったまま肩を竦めた。
「やだなぁ、もう、二人して僕のこと見つめないでよ」
二人して?
驚いて玉緒の方を見れば、向こうもこちらを見ていた。がつんと視線がぶつかり、それと同時に心臓が跳ねる。ぱっと視線を逸らし、私はまた月矢に向き直った。もう玉緒の事は見ないようにして、月矢の前に膝を着く。
月矢は、私がわざと視線を逸らしていることに気付いているらしく、何故かニヤニヤと意地悪そうな笑顔を浮かべている。
「……その笑顔、やめてもらってもいい?」
「えぇ? そんな変な笑い方してる?」
「してるわよ……」
溜息を吐けば、月矢はゴメンゴメンと肩を竦め、すっと真面目な顔になった。口元は微笑んだままだが、瞳がまっすぐにこちらを見ている。
「気持ちは決まった?」
「えぇ」私は頷いた。「決心してきたわ」
「聞こう」
月矢が姿勢を正し、正座になる。私もぴんと背筋を伸ばした後、畳に両手をつき、頭を下げた。
昨日もこうやって叩頭したが、意味は違う――昨日は謝罪だが、今日は頼み事をしに来たのだから。私が頭を下げた時点で、月矢はもう察したらしい。ふぅん、という小さな唸り声が聞こえてきた。
「――私は官人の道を進みたい。お願いだ、月矢、どうか道を譲ってくれないか」
「……なるほどね。顔をお上げ」
言われた通りに顔を上げると、月矢はにっこりと微笑んでいた。
「どうしてそっちを選んだのか教えてくれるかな。結婚した方が、確実に権力を得られるし、君のいう、女の道を切り開くことが現実味を帯びないかい? 皇子の妻なら、政治的影響力は大きい……のでしょう?」
確認するように、月矢は玉緒に視線を投げる。視界の外の玉緒が、はい、と静かな声で答えるのが聞こえる。私は月矢を見つめたまま言った。
「確かに、結婚すれば確実に地位は獲得できるわ。けど、上からの改革って限度があると思わない? いくら皇家の人間が、女も官人になれるようにするべき、と訴えたって、高位な貴族の戯言だと思われる可能性は高いわ。上から変えろ、変えろと命令するより、実際、女である私が、他の人間よりも優れた業績を積み上げて、女でも遜色なくやれるのよってことを証明した方がいいと思う」
月矢はひょいと片眉を上げる。腕を組み、首を傾けながらも、納得したように二、三度頷いてみせた。
「確かに、それはねぇ……でも、君が天上人になれなかったら、全てが無駄になるんだよ?」
「そうね」
思わず笑ってしまうと、月矢は驚いたように目を丸くする。それから、首を逆方向へ傾けた。
「まだ何か言いたげだね?」
「えぇ……――それは建前なの、というか、理由の半分くらい」
「ふぅん?」
月矢は不思議そうに唸る。私は笑いながら答えた。
「――私は天上人になりたいの。官人の道を駆けあがって、天上人になる。お父様にも負けないくらいの、立派な天上人になるの。女の道を切り開きたいけど、それだけじゃない。私は、城で生きたいんだ」
月矢は何も答えなかった。ちら、と玉緒の方を見れば、彼は驚いたような目をしてこちらを見ていた。
「昔から憧れだったんだもの。父から城の話を聞くのが大好きだったわ。月矢も知ってるでしょう? 私、やっぱりその夢を諦められないの」
――私と夢とを繋ぐ架け橋はなかった。私が女だから。
架け橋が用意されていないのなら、自分で用意すればいい。それを兄から奪い取るのは癪ではあるけれど、でも、夢を諦めるのはやっぱり出来なかった。小さい頃からひたすらに目指してきたものなのだ。私の人生といってもいい。夢に人生をかけても、私は後悔しない。
「私は天上人になる。そして女の道を切り開く。誰も成し遂げていないことをやってみせる。そうしたら、自分の素性を明かして、あなたに名前を返すわ。約束する――あなたに後悔はさせない」
月矢から目をそらさない。まっすぐに、私は言った。
「だから、私に道を与えてくれないか」
彼は瞬きをしている。そっ、と眩しいものでも見るかのように目を細めた。いつの間にか笑みが消えている。双子の兄のこんな真剣な表情を見るのは久しぶりだった。
一歩間違えれば、兄の人生を奪う羽目になる。それは十分にわかっていた。けれど、私にはこの道しかない。夢を叶えるためには、そうするしかない。卑怯者にならぬために、誇り高く生きるために、私は必ず天上人になり、彼に名前を返さなければいけない。
覚悟はある。元より、生半可な気持ちで城への門をくぐってはいない。
「――わかった」
月矢が目を伏せ、頷いた。
「月矢……」
「でも」
と、すぐに彼はにこりと微笑み、私を見る。
そして、無邪気な笑顔が言った。
「ごめんね、道は譲れない。皇子と結婚しなさい、月予」
短くて済みません。