第三十八話 警戒
「――玉緒はどう思う?」
「どうって、何を?」
「迅皇子と結婚するべきか、官人の道を進むか」
布団にごろりと倒れ込みながら尋ねれば、背の低い円卓に向かって何やら書き物をしていた玉緒は、瞳だけをこちらに向けた。それが呆れたような色を含んでいる。
「答えにくい質問だな」
「そうか? 玉緒だったらどうするか、で考えてくれたらいいよ」
「俺だったら迅と結婚する」
即答してから、玉緒は首を横に振った。
「誤解するなよ、変な意味じゃない」
「わかってる」私は両肘をつきながら言った。「安全策を取るって言いたいんだろ」
「そうだ。官人のままでいても、天上人になれるかどうかはわからないしな。その点、結婚すれば確実に社会的地位は上がる」
やっぱりそうだよな、と私は言って、枕に突っ伏した。
けれど、じゃあ結婚しよう、ともなかなか思えない。何かが心に引っかかる。
「……でも、それは俺だったら、の場合だぜ」
視線を円卓に戻して、玉緒がぶっきらぼうに言う。
「お前は俺じゃない。しっかり自分で考えて決めろ」
「……玉緒は、私が迅皇子と結婚するのは反対なの?」
「何でそう思う?」
「そういう風に聞こえたから」
玉緒はまたこちらを見た。何か言いたげに唇を開いたが、言葉の代わりに溜息だけが零れ、彼は首を横に振る。
「どうした?」
「いや」玉緒は目を伏せる。「これを言うのは卑怯だと思った」
「は?」
「気にするな」
彼はまた溜息を吐き、筆を円卓の上に置いた。そして背伸びをしてから、両手を床に付き、天井を見上げている。私はごろりと布団の上で転がると、枕を掴んで抱きしめた。
「あー、無理無理。考えてもよくわかんない。ちょっと寝ようかな。でも朝まで寝ちゃいそうだな……」
「なぁ、聞いていいか?」
「何を?」
「――どうして俺とお前の部屋が同じなんだ」
――言われてみれば。
結局、夜になっても私は決心がつかず、母親の強い希望もあって、私たちはこの家に泊まることにした。それで、風呂を出た後、私の部屋の襖を開けてみれば、布団が二枚敷いてあり、その近くに置かれた円卓の傍で玉緒が座っていたのだった。
「……確かに。何でだろう」
「今更気付いたような顔をするなよ」
「だって、今まで考え事で頭がいっぱいだったもん。一時間くらい眠るから、また起こしてもらってもいい?」
「いや、待て、落ち着け」
玉緒がサッと片手を挙げる。何だか慌てているように見えた。落ち着くのは玉緒の方ではないだろうか。
「何を平気で眠ろうとしてるんだ。少しは警戒しろ。俺は男だぞ?」
「玉緒こそ何を言ってるんだ。私は結月たちと同じ部屋で一年間眠ってきたんだぞ?」
「それとこれとは話が違うだろう」
「どう違う?」
「考えすぎで頭が壊れたか?」
玉緒は両目を丸くしながらそんなことを言う。睨みつけてやれば、また片手を挙げて制してきた。
「怒るな――こんなことを言うのは俺も嫌だが、月國、」
「何だ」
「……李燕のことがあったばかりだろ?」
玉緒は気遣うように、眉を寄せながら、柔らかい声音でそんなことを言った。いきなり予想外の名前を出され、心臓がぎゅっと締め付けられるような、嫌な感覚がする。
「それがどうした?」
「それがどうしたって……皆まで言わないとわからないのか? 警戒しろって言ってるんだよ」
「警戒って――玉緒を警戒しろってこと?」
玉緒が大真面目な顔をして頷いた。
不思議な事を言うものだ。私は首を傾げながら、聞き返した。
「襲うつもりなの?」
玉緒が固まった――ような気がした。びっくりしたような顔をしてこちらを見て、そのまま静止している。
「えっ?」
その反応に驚き、思わず飛び上がって後退すると、彼は勢いよく首を横に振った。
「馬鹿、そんなつもりはない」
「だったら何で警戒する必要があるの?」
「いや、そんなの口ではいくらでも言えるだろ」
「え? 襲うの?」
「襲わない」
「なら大丈夫だろ」
「だから……」
「訳のわからないことを言わないでくれるか? ただでさえ考え事をして頭がいっぱいなんだ」
そう言えば、玉緒はやっと口を閉ざした。
――警戒する必要のない相手に警戒するほど馬鹿じゃない。
私はもう一度腰を下ろした。枕を正しい位置に戻し、布団に潜り込もうとする私を、玉緒が呆れ果てた目で見ている。
「……俺の事を信用しすぎじゃないか?」
「玉緒がそんなことをする人じゃないっていうのは、流石にわかる」
「前に暴れてた女がよく言う」
玉緒は肩を竦めた。確かに、少し前に玉緒と寝室で鉢合わせした時は大暴れした上に、窓から飛び降りて逃げようとした。あの時のことを思い出すと、恥ずかしくてたまらない。おかしなことを口走っていたような気もする。
「あれは忘れてくれ……」
「いやぁ、なかなか忘れられるものじゃないさ」
玉緒は軽く笑い声を上げている。
「もういいから――玉緒も寝れば」
「はは、じゃあ、そうするかな」
「あ、待て、やっぱり駄目だ、玉緒も寝たら、誰が私を起こすんだよ」
「一時間後に起こしたらいいんだろ? 大丈夫だ、起きるよ」
一体どんな体内時計を持っているんだろうか。玉緒は自信に満ちた声でそう言いながら、隣に敷かれた布団の上に腰を下ろす。掛け布団を広げ、その下に半身を潜り込ませたかと思えば、もう枕に頭を預けていた。それから思い出したように上半身を軽く起こし、円卓に手を伸ばす。
「火を消していいか?」
「あ、あぁ」
私も布団を被って頷けば、玉緒は蝋燭の火を指で掴んで消した。ぎょっとするが、すぐに目の前が真っ暗になり、玉緒の表情は見えない。障子窓から淡い月光が差し込んでくるが、それに目が慣れるまでは時間がかかりそうだ。
布団が並べてあるとはいえ、密着しているわけではなく、間にもう一人分くらい眠れそうな空間が空いている。けれども、玉緒の疲れたような吐息がよく聞こえてきた。
――隣で玉緒が眠っている?
突然、その事実に驚く自分がいた――何をしてるんだろう? 私は?
思わず上半身を起こすと、玉緒がすかさず「どうした」と尋ねてくる。そんな真剣な声を出さないで欲しい。
「いや……やっぱり同じ部屋で寝るのっておかしいよな」
「その話はさっき済ませただろ」
「そうじゃなくて……」
布擦れ音がする。玉緒もゆっくりと上半身を起こしたらしい。しばらくして、くすくすと淡く笑うような声が聞こえてきた。
「な、何を笑ってるんだ」
「訳のわからないことを言うなと俺に言ったくせに、お前の方がよっぽど訳がわからないぞ」
「うるさいな……」
私は掛け布団を放り出すようにして立ちあがった。まだ視界は暗いが、襖の位置はかろうじて見える。どこへ行けばいいのかよくわからないが、部屋から出て行こうとして――何かに躓いた。
「わっ……」
その『何か』を蹴飛ばしながら、これは玉緒の足だな、と気が付いていた。顔から床へ激突するかと思って咄嗟に両目を閉じたが、それより早く玉緒の腕が伸びてきた。その逞しい腕に支えられ、何とか床との衝突は避けたが、そのまま体勢を崩してしまい、彼に倒れかかってしまう。ガツンと頭がぶつかった。いてっ、と玉緒も僅かに悲鳴を上げる。その悲鳴が本当に耳のすぐ近くで聞こえ、驚いた。
「何してるんだ」玉緒が笑う。「気を付けろ」
――目が合った。
近い。息がかかるほど近くに玉緒の目がある。淡い月光でもはっきりと顔が見える。
あまりの近さに、咄嗟に視線を逸らしてしまう。すると、玉緒は笑うのを止めた。
また、心臓が痛い。うるさく騒ぎ始める。こんなに近かったら、玉緒にも聞こえているんじゃないだろうか?
ぱっ、と玉緒の手が私の肩を掴んだ。僅かに押されるような感触がしたが、しかし、すぐにその手は離れ、次の瞬間、額にバチンと鋭い痛みが走った。
「ッ」
「いつまで乗っかってるんだ? 人の身体の上で寝るつもりか?」
玉緒は苦笑してそう言う。額を小突かれたのだと気付くのに時間はかからなかった。
「し、失礼なことを言うな。びっくりしただけだ」
私は慌てて玉緒の上から退き、そのまま襖に飛びついた。どこへ行く? と尋ねる玉緒を背に、廊下に出て、後ろ手で襖を閉める。私の家なんだから、どこへ行こうが勝手じゃないか。
廊下は薄暗く、前が良く見えない。しかし、長年暮らしてきた実家だから、手探りで歩いていくことはそう難しくない。月矢や母の部屋に行って起こすのも申し訳ないし――父に挨拶でもしよう。
まっすぐに歩いていけば、亡き父の部屋に辿り着く。襖を開けると、何故か懐かしい匂いを感じる。父が死んでもう何年も経つのに、この部屋は当時のままだ。部屋をぐるりと取り囲む本の山に、書き物の山、掛け軸は父の大好きだった名筆家のもので、壺は置いているが何の花も挿されていない。窓から差し込む月光は円卓を照らしあげている。
「お父様、帰ったよ」
襖を閉め、そう言うと、言葉が暗闇に溶けていく心地がした。
下手に歩くと、積み上げられた本の山を崩してしまう。月光を頼りに、慎重に足を進めた。部屋の中心までたどり着き、腰を下ろす。
目を閉じれば、父の事を思い出した。たくさんの城の話を聞いた。いつも仏頂面で、厳しい人だったが、城の話をする時はどこか楽しそうだった。月矢のふりをして、色々な話を聞きだしたものだ。月予である私には、あんまり城の話はしてくれなかった。きっと、女は官人になれないからだろう――紆余曲折あって、なってしまったが。
――ふと、心に引っかかっていたものが、ぽろりと取れた気がした。
「……城は厄介だよ、お父様」
言葉は暗闇に吸い込まれていく。果たして、父は私の生き様を見て、どう思うのだろうか。