第二話 負け方
――外した、と誰かが呟いた。その呟きはあっという間にざわめきに変わっていく。
ただ、玉緒だけが静かに私を見ていた。
私の射た矢は的の中央からほんの少しだけ外れてしまった。しかし、玉緒はきっと中央を射抜くだろう。
私が、負ける。負ければ、花立の試を受けられない。
こんなところで、という思いが沸き上がってきた。悔しかった。思わず視線は下に落ちる。背中に突き刺さる無言の言葉が痛い。喧嘩を買って無残に負けた人間への同情心が刺さる。
ふと、誰かの言葉を思い出した。
――そういう生き方はご立派だが、寿命を縮めるぞ。
あれは誰の言葉だったか。そしていつ言われた言葉だったのか。もう覚えていない。けれど、それに自分がどう返したかは、不思議と覚えていた。
――それでも自分の名に恥じぬように生きたいのです。
私は顔を上げた。背筋を伸ばす。真正面から玉緒を睨み返した。彼は死んだ目のままで、少しだけ驚いたような顔をした。
負けるのならば、せめて勝者のように、潔く、堂々と、負けてやる。
弓を手にしたまま動かない玉緒に、私は言った。
「あなたの番です」
「……あぁ」
玉緒はそう言い、矢を手に取った。その矢を指で撫でた後、彼はひょいと構えてみせる。やはり惚れ惚れとするような型だ。彼に負けるのならば仕方がないという気持ちと、得意なはずの弓術で失敗した自分への怒りが沸き上がる。しかし、それは表に出さず、ぎゅっと唇を噛んで耐えた。過ぎたことをああだこうだと言ってみせるのは格好が悪い。自分の行いの結果は自分で受け止めろ。
私は玉緒の姿をじっと見つめていた。彼が的の中心を射抜くのを待っていたのだが、何故か、突然な違和感を感じた。
そして、その違和感が何か分からないうちに、玉緒は矢を放った。
その矢は、中心から大きく離れて的に突き刺さった。
「え?」
間抜けな声だ。誰の声かと思ったら、自分の声だった。思わず口を抑える。矢は確かに中心から外れている。私の射た矢よりもさらに外れていた。
「どうやら私の負けですね」
ふう、と息を吐きながら、玉緒が弓を下ろした。後ろにいる上位の人々も驚いた顔で彼を見ていたが、彼らが何かを言う前に、玉緒が言った。
「済みませんが、約束ですので、ここを空けましょう。勝てなくて申し訳ない」
彼の言葉に、いや……と上位の人々は上辺だけの笑顔を浮かべる。次々と飛び出すのはごますりの言葉だ。そういうこともあるでしょう。いや、手を抜いて差し上げたのか。お優しい。その言葉を聞きながら、私は、その通りだと感じていた。
――わざと外した。
でも、どうして?
私が玉緒に追及しようとした時、後ろで勝負を眺めていた白服の男が言った。
「そろそろ皇子と謁見する時間だ。我々はここで失礼させてもらおう。初品の諸君、邪魔をして悪かった。行くぞ、玉緒」
声をかけられた玉緒が、「はぁ」とやる気のない返事をしながら、歩き出した男に着いていく。私は急いで追いかけようとしたが、それを上位の人々が遮った。彼らは演習場から去る白服の男や玉緒の周りを囲むようにして歩きながら、「どうぞ皇子によろしくお願いします」と媚を売っている。そして、声をかける暇もなく、そのまま皆立ち去ってしまった。
「あ……」
「ありがとうございます! 月國殿!」
彼らがいなくなった途端、初品たちがわっと喜びの声を上げた。中にはうっすら涙を浮かべている者さえいる。
「流石ですね! 武士に弓術で勝ちなさるとは!」
「ぜひ私たちにも伝授していただきたい!」
ニコニコと笑顔を浮かべ、彼らは私を取り囲み、あれやこれやと褒めちぎってくる。手放しに褒められるのはあまり好きではないのだが、心底から嬉しそうな顔を見ていると、尖った気持ちも自然と丸くなる。
「いや……それほどでもないよ」
頬が自然と熱くなるのを感じながらそう言い、そして私は大変なことに気付いた。
――私は仕事中だ。
「済まない、通してくれ。仕事に戻らないと! みんな、弓の練習、頑張ってくれ!」
私はそう言い、取り囲んでくる初品たちを突き飛ばすようにして弓の演習場から飛び出した。きっと、先輩はカンカンに怒っているだろう。頭の中は玉緒への疑問でいっぱいだったが、それより怒り狂った先輩の方が面倒だ。仕事を増やされて、試への勉強時間がなくなるのは非常に困る。
本来なら、武晶殿に来たのと同じように、南回りで、雲門の前を通っていく方がいいのだが、文珠殿に戻るには多少遠回りであった。背に腹は代えられない。私は近道を通ることにした。北回りで、天上門の前を駆け抜けていく。演習場から真東にあるのが文珠殿の北部だ。勘で南を目指しながら、文珠殿の近くに建つ倉庫などの建物の隙間を擦り抜けていく。
どれくらい先輩は怒っているだろう。こういうような事態は今日が初めてではなく、よく揉め事を起こしては仕事に遅れている。昔はよく頭ごなしに叱られていた。そこでもまた言い返してしまい、激しい口論になっていた。そんなことを繰り返しているうちに、先輩は説教ではなく、罰として、仕事を押し付けてくるようになった。私としても、口論よりもそちらの方がありがたかった。とはいえ、出来れば、罰はない方が嬉しいのだけど。
そんなことを考えながら走っていると、倉庫の影で、何か柔らかいものを踏んだ。
「わっ……」
踏んだことのない感覚に驚き、そのままつんのめって転んでしまう。官服が土で汚れた。私は障害物への怒りを感じながら振り返り――絶句した。
そこにいたのは人だった。人が仰向けに倒れていた。私が踏みつけたのは、彼の足だったらしい。
「大丈夫ですか!?」
すぐさま駆け寄り、抱え起こそうとして、私は再び言葉を失った。
仰向けになって倒れている男の胸に、黒塗りの矢が深く突き刺さっていた。その、綺麗な桜の花の装飾が、赤黒い血によって汚れている。
――死んでる。
そう悟った瞬間、後頭部に強烈な衝撃を感じた。
目の前が真っ白になったのもつかの間、視界はぐるりと逆転し、気が付けば地面に倒れていた。後頭部がズキズキと痛む。わけのわからない衝撃に混乱していると、そのままずるずると引きずられるように目の前が昏くなっていった。
*
天上門をくぐった途端、彼は見るからに不機嫌そうな顔になった。面倒だな、というこちらの気持ちを察したように、彼はギロリとこちらを睨んでくる。
「玉緒」
「……何ですか?」
「どうして矢を外した」
「そんなこと言われましても。実力不足としか答えようがありませんね」
肩を竦めながらそう答えると、彼は一層機嫌を悪くしたようだった。ハァとあからさまな溜息を吐き、視線がより冷たくなる。
「お前の実力など私がよくわかっている。ふざけた答えはよせ」
「はぁ。買い被りじゃないですか?」
「玉緒」
声の調子がぐっと下がった。これ以上機嫌を悪くされると困る。全く面倒な主人だ。
「仕方ないじゃありませんか」溜息交じりに答える。「花立の試を受ける資格を奪うのは可哀想でしょう。元はと言えば、こちらに非があるのだし」
「しかし、相手が初品とはいえ、あんな態度をとるクズどもだ。そのうち、お前が初品との勝負に負けたことを、喜んで言いふらすぞ。自分の面目を自分で汚していいのか。自分の矜持くらい、自分で守れよ」
「天上人になるかもしれない方々を、クズ呼ばわりするのはどうなんですかね?」
「阿呆。あの程度なら、一生こちらには来れぬだろう。……話を逸らすな」
「はぁ。……まぁ、ご存知の通り、私は自分の矜持など持ち合わせておりませんので」
「しかし、勝負に勝ってから、温情として資格の剥奪を取り消してやればよかったじゃないか。わざわざ負けなくてもよかった」
不機嫌そうに言う声が、拗ねているようにも、怒っているようにも聞こえる。それが自分の事ならば、烈火のごとく怒ってみせるのだが、自らの護衛の事だから出方に迷っているのだろう。
彼は「自分の矜持くらい自分で守れ」と口癖のように何度も言う――あの青年もそうだった。
「それじゃあ、あの月國という子は納得しませんよ。こちらが勝負をなかったことにしても、彼が負けたのなら、決して花立の試は受けなかったでしょう」
「……よく知っているような口ぶりだが、知り合いだったのか?」
彼は怪訝そうに片眉を上げた。
その彼の顔を眺めながら、思わず微笑んで答えた。
「えぇ、まぁ、ほんの少しだけ。これがまた、あなたにとてもよく似た、面倒な性格なんですよ」
タイトルセンスがないです。あと、視覚的に目を引くので、やたらと「――」を多用してしまう。あまりにも使いすぎて、かえって、大事なところは――ってしとかないと読み落とされちゃったりしないかな…って不安になる。アカン。
「自分の矜持くらい自分で守れ」。月國と『彼』がいつも思ってること。
日本では「謙遜」が美とされてますが、言葉ではどれだけ自分のことを馬鹿にしても、心の中ではドヤ顔しておいてほしいと思います。
次回からもう少しだけ更新が遅くなると思います。のんびりいきます。
後書きまで読んでくださり、ありがとうございました。