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第三十七話 月矢


「――ただいま」


 不思議そうな顔をしながら門戸までやってきた母親にそう言うと、彼女はこちらの姿を認め、驚いたように口を両手で覆った。それから勢いよく駆け寄ってきて、しがみつくように抱き着いてくる。ぎゅうと力強く抱きしめられると、毎度ながら安堵の気持ちに包まれた。


「おかえりなさい! どうしたの、連絡もよこさずに帰ってきたりして……」

「ちょっと用事があって……」

「あら?」


 母は、私の後ろに立っている玉緒に気が付いたようだった。私から手を離し、まじまじと彼を見つめている。


「あぁ、彼は……」

「なるほど! そういうことね!」

「え?」


 母はパァッと顔を明るくし、嬉しそうに両手を合わせている。その様子を見て、玉緒が首を横に振った。


「ただの付き添いです。俺は何でもありませんよ」

「あら、結婚の挨拶に来たんじゃないの?」

「違うわよッ!」


 思わず噛みつくように言うと、母は目を白黒させた。私は彼女の隣を通り過ぎ、月矢のところへ行こうと足を進める。懐かしい我が家。冬に少しだけ帰ってきたが、それぶりだ。やっぱり我が家はいい。生粋の玉龍国づくりで、廊下を踏めば、キィと古びた木が軋む音がする。障子の向こうから太陽光が淡く差し込んでくる。

 ――ふと、どんどん自分の足取りが鈍っていくのを感じていた。もうすぐで月矢の部屋だというところで、足が止まる。すると、後ろを着いてきていたらしい玉緒に、背中を優しく押し出された。


「どうした?」

「な……何でもない。あ、良い家でしょう? 古いけど……」

「あぁ」


 玉緒が微笑んで頷いた。その微笑みを見れば、また気持ちが落ち着いた。

 ここまで来たのだ。今更引き下がれない。

 

 月矢はどんな顔をして、私に何て言うだろう。

 ――不安だ。でも、前に進もう。

 もう一度歩き出す。すぐに見慣れたふすまが見えてきた。古ぼけて、少し汚れた襖。勢いよく開けようとすると詰まってしまう。そこに手をかけて、私は声をかける。


「月矢……いる?」


 しばらく、返事がなかった。布擦れのような音が聞こえ、ややあって、掠れたような声が聞こえた。


「その声、月予?」

「開けて良い?」

「おいで」


 優しい声だ。穏やかな兄の声。思い切って戸を開けると、思い切り過ぎて、襖が途中で詰まってしまった。何とか一人くらいは通れる隙間は生まれたものの、情けない音がする。


「慌てなくても僕は逃げないのに」


 くすくす、と部屋の中から笑い声が聞こえる。

 目をやれば、随分と懐かしく見える顔が笑っていた。前に見た時より痩せたように思える。月矢は布団から上半身だけを起こした状態でこちらを見ていた。

 久しぶり、と細められた目が、玉緒を捉え、丸くなる。


「おや、そういう挨拶?」

「違うわ」

「違います」


 私と玉緒の声が被る。顔を見合わせると、月矢がまた可笑しそうに笑った。と、思えば、月矢はすぐに咳き込み始める。


「月矢! 大丈夫!?」


 開けた襖の隙間から中に飛び込み、駆けよると、彼はしばらく咳き込んだ後、にこりと微笑んだ。


「大丈夫。ちょっと咳が出るだけ……あなたもどうぞ、入って下さい」


 そう言われ、玉緒も中へ入ってくる。彼は振り返り、私が変に開けた襖を、きちんと閉じてくれた。

 

 部屋の中は何も変わらない。広々と伸びた畳に、その中央に敷かれた布団。脇に置かれた背の低い円卓と、その上の古びた本。壁には掛け軸がかかっていて、その下に置かれた壺から花が伸びている。いつもと変わらない部屋の中で、いつもより少しだけ痩せたように見える月矢は、優しく微笑みながら、私と玉緒を見比べている。


「久しぶりだね、月予。……結月、といった子から聞いたよ? 色々大変なことがあったんだって?」


 結月は微笑み、私に腕を伸ばす。細い腕がそっと私を抱きしめた。


「とりあえず君が無事で良かった」

「――月矢」


 私も抱き締め返す。あれこれと考えていたが、また会えたのが純粋に嬉しかった。ぎゅっと抱きしめるとその喜びが強くなり、思わず腕にさらに力を込めると、月矢がうっと僅かに呻いた。


「あっ、ごめん、強すぎた?」

「ごめんね、大丈夫」

「本当に?」

「本当だよ」


 月矢が目を細めて笑う。優しい兄だ。

 

「前より痩せたんじゃない? 大丈夫なの?」

「大丈夫さ。体調自体は安定してるんだ。外出する機会も増えてきたよ」

「そう、それは良かったわ」


 本心からそう言った後、また罪悪感が押し寄せてきた。それが顔に出たのか、月矢は心配そうに私の顔を覗き込む。


「どうかしたの?」

「……月矢、」


 私は月矢から離れ、両膝を揃えて畳の上に座った。自然と視線が落ちそうになるのを、何とか堪え、月矢と目を合わせる。彼は不思議そうな顔をして私を見ていた。


「ごめんなさい」


 私はそう言って、両手を畳につき、頭を下げる。額が畳につきそうになった時、月矢の慌てたような声が飛んだ。


「ちょ、な、何してるの。何で謝ってるんだい? 顔を上げてよ、月予」

「私、月矢のこと全然考えてなかった」


 私は畳を睨みながら、言葉を続けた。言葉は次々と溢れ出てきた。


「あなたに官人になれる道を譲ってもらったのに、肝心のあなたがこの先どうなるかだなんて全然考えてなかった。自分のことしか考えてなかった。結月に言われて、気が付いたの。私はあなたの道を奪っている。本当にごめんなさい」

「月予……」

「あなたを犠牲にして、私だけ夢を叶えるなんて、嫌。でも、ごめんなさい、我儘なんだけど、夢を諦めるのも嫌。だけど、凄く、驚くと思うんだけど……とある人に求婚の、えっと、提案をされて、それで、それを受けたら、官人にはなれないけど、夢は叶えられると思うの。だから……月矢が望むなら、私は月矢のふりはやめて、結婚する。今まで本当にごめんなさい」


 頭を下げた状態で、さらに下げようとして、額を思い切り畳で打ち付けた。一瞬視界が回って不思議な心地がしたが、そのまま額を擦り付け、私は頭を下げた。

 申し訳なさで頭を上げられない。同時に、月矢の顔が見れなくて、頭を上げられない。

 

 ――何が女の道を切り開く、だ。たった一人の兄弟の道さえ潰そうとしていたくせに、よく言えたものだ。


 情けない。悔しい。申し訳ない。そんな気持ちでいっぱいだった。


「……月予、顔を上げて」


 ややあって聞こえたのは、やっぱり優しい声だった。

 おそるおそる顔を上げれば、月矢は相変わらずにこりと微笑んだまま私を見ていた。その顔がやけに優しく見えて、思わず涙腺が熱くなる。泣いてしまうような、情けない真似はしようと思って、唇を嚙み締めた。


「月矢……」

「月予はどうしたいの?」


 ぽん、と気軽な口調で、月矢は言った。思わず首を傾げると、彼も同じように首を傾げながら言う。


「だから、僕じゃなくて君はどうしたいのかなーって」

「や、だから……私は月矢の望むように……」

「うん。それで? 月予はどうしたいの?」

「へ……?」


 流れ落ちそうな涙も引っ込んだ。困惑しながら月矢を見れば、彼も困惑した顔でこちらを見ている。


「だ――だから、私は月矢の居場所を奪っちゃってるの。社会的に見れば、私が月矢だから、月矢は社会に出られないの。わかる?」

「わかるよ」

「そんなことも考えられなかった自分が腹立たしいわけ。罪悪感もあるの。それもわかる?」

「うん」

「私は今、第二皇子と結婚するか、官人のままで生きていくか、その選択肢があるの。だから、月矢が望むなら、私は月矢であることをやめて、結婚する……」

「え? 皇子と結婚するの?」

「あっ」


 思わず口を押えたが、月矢はぎょっとしている。咄嗟にといった様子で、私の後ろに座っている玉緒に視線を投げる。


「え、それ本当ですか?」

「……えぇ、まぁ」


 玉緒が頷くと、月矢は顔を青くしたり白くしたりと忙しそうにしながら、もう一度私を見た。


「何だか凄い話になったものだねぇ……」

「そうだけど――ってそうじゃないのよ! だから、月矢はどうしたいかなって思って……」

「うん。で、月予はどうしたいの?」

「えぇ……?」


 いまいち話が掴めない。おろおろしてしまっていると、見かねたように玉緒が咳払いし、会話に入ってきた。


「多分、月矢さんは、自分の一存でお前の将来を決めることを避けたいんじゃないかと思うが」

「で……でも、私だってどうすればいいかわからないんだもの。どうすればいいかわからないから、月矢のところへ来たんじゃない、月矢の気持ちを知りたくて……」

「だからって、僕が言えばその通りにするの? それは卑怯じゃない?」

「卑怯!?」


 とんでもない言葉だ。思わず目を剥けば、月矢は笑った。


「自分がどうしたいのか、自分でお考え。それから僕がどうしたいのか教えてあげる」

「……それ、先に聞いちゃ駄目なの」

「駄目」


 月矢はニコニコと完璧な笑顔を浮かべている。この顔をする時の月矢は、何を言っても聞いてくれない。

 どうすればいいかわからず、唸ってしまうと、玉緒が溜息交じりに言った。


「でも、確かに月矢さんの言う通りだ。月矢さんが『こうしたい』というものにお前が従うだけなら、それは何の解決にもならないし、それに――」


 そこまで言って、玉緒はパッと口を閉ざした。まずい、とでも言いたげな顔である。


「それに、何よ」


 つい攻撃的に聞いてしまうと、彼はへらへらと両肩を竦めながら答えた。


「――そんな身の振り方をしたら、後で耐えきれなくなって大暴れするのが目に見える」

「大暴れするって、誰が」


 玉緒は私を指差した。



                    *


「仲が良いんですね」


 怒ってしまった月國が部屋を飛び出してから、残された月矢にそう言うと、彼は不思議そうに首を傾げた。驚くほど月國によく似た顔で、それが愛想よく微笑んでいるのだから奇妙な感覚だった。


「そうですか?」

「どう切り出すのかと思ってたんですけど、想像以上に素直な切り出し方だったものですから」

「……そんなことをしてごめんなさい、もう嫌だから、こっちの選択肢かこっちの選択肢か選んでください! ……ってことだものね。確かに素直だ」


 くすくすと彼は笑う。声音もよく似ているが、月國よりも声域が低い。

 その目がちら、とこちらに向けられた。


「それで? 失礼ですが、あなたは……」

「あぁ、済みません。名乗り遅れました」


 刀を側方に置き、俺は姿勢を正した。


「第二皇子の護衛、化野玉緒と申します」

「……じゃあ、さっきの話は、月予が騙されているとかではなく?」

「はい」


 頷くと、月矢は感嘆するような溜息を吐いた。


「まぁ、月予は可愛いものねぇ……」


 自分の頬を撫でながら、そんなことを言っている。自分と同じ顔なのに、一体何を言っているのだろうか。自己愛が激しい性格には見えないが……などと考えていると、彼は憂鬱そうに溜息を吐いた。


「同じ顔なのに、何で月予はあんなに可愛いんだろう」


 ――あぁ、なるほど、姉妹愛が激しいのか。

 納得がいき、思わず頷いてしまった。それを勘違いして、「ね、可愛いでしょう」と月矢は楽しそうに笑っている。これだけ可愛がっているのなら、病気がちな自分に代わって、妹を仕官させる、という無茶も、その妹が望むなら許してしまうのも不思議ではない。


「玉緒さん」


 涼やかな笑顔がこちらを見る。月國に微笑まれているようで、本当に奇妙な感覚だ。


「月予をありがとう」

「……俺は別に何もしていませんが」

「いや、月予の傍にあなたのような人がいるだけでありがたいよ」

「俺のような人?」

「臆病者」


 ぎょっとして月矢を見れば、彼はにこりと、相変わらずの満面の笑みを浮かべていた。


「冗談ですよ。でも、一度くらい、あの子に臆病者って罵られたことはあるんじゃないですか?」

「……よくわかりますね」

「一緒に生まれてますから。……あの子はほんと生真面目すぎるというか、猪突猛進すぎるというか、賢いけど、本当に馬鹿なので。傷だらけになろうが真正面から突っ込む奴ですよ――だから、あの子には『臆病者』が必要なんです」


 にこにこと微笑んだまま、そんなことを言われ、俺は思わず視線を逸らした。


「ですから、そんなんじゃありませんよ」

「ほら、臆病者だ」


 くすくすと軽やかな笑い声がする――この兄には色々と見抜かれていそうだ。

 はぁ、と溜息が漏れた。

 

                    *


「――お前は何が言いたいんだ」


 化野雅人は、いつもの気障きざな笑顔は消し去り、真剣な顔で私を見つめている。


「私はあなたの味方です」雅人は床に片膝を着き、言った。「先程も申し上げた通り、玲様……あなたの兄上は、あなたを蹴落とそうとしているのです。城で亡くなった四品も、先日行方不明になった天上人も、汚名を着せられて追放された者も――みんな、あなたを信頼していた、第二皇子派の人間だったではありませんか」

「確かにそうだ。だが偶然ではないとは言い切れまい」

「必然ではないとも言い切れないでしょう!」


 存外に語調が強く、ぎょっとする。雅人はハッとして俯き、済みません、と押し殺した声で言った。


「私は第一皇子の護衛。玲様がどうお考えであるか、誰よりもわかっているつもりです――玉緒があなたの考えをよく理解しているのと同じです」

「……それで、兄が私を蹴落とすと? 馬鹿を言え、あの兄は私よりずっと優秀だ。わざわざ手を回さなくても、次の皇帝は兄だ」

「私は、あなたの方が皇帝にふさわしいと考えています」


 雅人ははっきりとそう言い放った。少しの迷いもない声だった。


「玲様は皇帝には向いておられない……それはあなたが一番よくおわかりでしょう? あなたが最も屈辱を与えられてきたはずです」

「……そうだな。兄には散々弄ばれてきた」

「弟君を軽んじる皇子が、国民を大切に出来るとお思いですか?」


 ――お願い致します、と雅人は頭を下げる。


「玲様の護衛であるはずの私が、仕事を放棄し、あなたに会いに来たのです。どうか私たちが、化野宗家が本気であることを理解して頂きたい。私たちは本気で、あなたに皇帝となって欲しいのです! ですから、迅皇子。――玲様を殺しましょう」


 しばらく沈黙があった。

 雅人はただひたすらに頭を下げ、私の言葉を待っている。

 

「……頭を上げろ、雅人」


 私は窓の外へ目を向けた。桜の花がちらほらと咲き始めていた。もう、こんな季節か。


「わかった。……兄を殺そう」

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