第三十五話 求婚
「一体どういうつもりですか!?」
――場所は迅の部屋。
「月予には私が求婚する」という言葉を受け、私たちは言葉を失った。それを良いことに、迅は私を連れて自分の部屋へと連れてきたのだった。
「まぁ、とりあえず座れ」
迅はいたずらっぽく微笑みながら、手前の椅子を引き、それを指で示してくる。渋々、私がその椅子に腰かけると、迅も奥の椅子に座った。長い脚を組み、片肘を背の高い円卓に置いて、いつも通りの不敵な笑みで私を見る。
「これは提案だ」
赤い唇が開くとともに、彼はそんなことを言った。
「提案?」
聞き返せば、迅は頷いてみせた。
「そうだ――お前は、兄の居場所を奪ったと言われていただろう。随分動揺していたし、気にしてるんじゃないかと思ってな」
図星だった。言い返せずに膝の上で拳を固める。
「お前、どうするつもりなんだ? このまま城に残るのか――まぁ諸々の事件が片付くまでは難しいが、それとも、もう官人を辞めるのか?」
どうするべきなのか、まだ、自分でもわからない。頭の整理が追いつかないうちに、毒を盛られたり、李燕が襲ってきたりと、また大変なことが起きた。本当に息を吐く暇もない。
決めかねる、という意味で首を横に振ると、だろうな、と迅は軽く頷いた。
「ところで、月國。兄の居場所を奪わず、なおかつ、政治的地位を得ることが出来るとしたら、どうする?」
「そんな素晴らしい道があるのなら、勿論そうしましょう。けれど、官人になれるのは男だけですし……」
そこまで言ってから、ハッとした。
まさか、提案というのはそういうことか。
「官人になれるのは男だけだが、政治に口出しできるのは官人だけではない。官人にならなくても、女が官人になる道を作ってやることは可能だぞ」
「……それが、第二皇子の妻、ということですか?」
「そうだ。表立って発言することは難しいかもしれないが、官人への手回しは出来るし、私もその改革に手を貸そう。皇家の女が政治に影響力を持つのは珍しい話ではない」
これなら、兄の居場所を奪わず、お前の夢も叶えられる、と迅は続けた。
兄に居場所を返し、それから私自身も、自分を偽ることなく権力を持てる――悪くない話だ。
しかし。
「どうしてこんな提案をしてくださるんです?」
ほう? と迅が眉を上げる。
「迅皇子には少しも利益がないじゃありませんか。いくら側室だったとしても、皇家の婚約は、ただ一人の娘を貰い受けるという話じゃありません。私の家ごと抱え込むということですよ? そんな軽く提案なさって良いことでは……」
「誰が側室と言った? お前が了承すれば、私はお前を正室として受け入れるつもりだぞ」
「――は?」
一瞬、頭が真っ白になった。
迅の方を見てみれば、彼は至極真面目な顔をして私を見ている。口元だけは僅かに緩んでいたが、冗談を言っているようには見えない。しかも、冗談にしては強烈すぎる。
「あ、あなた、何を言ってるんですか? 頭でも打ちましたか?」
「何を慌てているんだ」
「慌てるに決まってるでしょう!? いくら何でも人助けでそこまでしなくたって――」
「人助けじゃない」
迅はきっぱりとそう答えた。私が言葉を失っていると、彼は口元の笑みを消し、真剣な顔をして私を見つめた。
「私はお前に求婚する。私と婚約し、正室になって欲しい」
「……で、ですから、何で……」
「何で? おかしなことを聞く。求婚するのだから、理由は一つだ。私はお前が好きなんだよ、月予」
時が止まったような気がした。
迅はゆったりと椅子に腰かけている。緊張している風には見えない。けれど表情は真剣極まりないものだ。彼は本気で私に告白しているのだと、しばらくして頭が理解し始めた。
告白。迅が私の事を好き。一国の皇子が、私を。
信じられない思いだった。
「……冗談のつもりなら、笑えませんよ?」
そんな言葉を絞り出すと、迅は怪訝そうに眉を寄せた。
「冗談じゃないと分かっていて、そんなことを言うな」
「え、その……本気で……?」
「分かっているくせに、何故聞く?」
迅がそう言いながら立ち上がり、こちらに近づいてきた。指が頬に伸びてきて、思わず身体が強張る。迅の指は頬をなぞっていき、唇の上でふっと止まった。彼は目を細め、笑っているのか、苦しんでいるのかよくわからない表情になる。
「私は李燕のような男じゃない。そう怯えるな」
その声と共に、指が唇から離れていく。
迅は片膝を床に着くと、膝の上で握り締めたままの、私の手を取った。優しい手でそっと触れられ、思わず拳を解くと、彼はすかさずそれを掴み、自分の方へ引き寄せる。そして、その手の甲に軽く接吻をした。
「お前を愛している。私の妻になって欲しい」
何か言おうとしたけれど、何も言葉が出なかった。喉の奥が詰まっているような、また限界まで枯れ果ててしまったような、そんな変な感覚がある。ただ息だけが虚しく唇から零れた。
迅のまっすぐな瞳が私を見上げる。優しくも強い力で手を握られた。離してくれそうにはない。
どうしよう――
動揺と混乱の果てに、顔が熱くなり、鼓動が早鐘を打ち始めた時、コンコンと気の抜けるような音が聞こえてきた。扉を誰かが叩いている。
迅は怪訝そうに溜息を吐くと、私の手を離し、立ち上がる。
「誰だ?」
「俺です」
扉越しに聞こえてきたのは、玉緒の声だった。入れ、と迅が答えれば、扉を開けて玉緒は中へ入ってきた。彼はちらりと私の顔を見た後、すぐに迅に向き直り、いつもの面倒臭そうな態度で言った。
「なんか、宗家の化野雅人があなたに用があるらしくて、後でこちらに来るようですよ。早馬を飛ばして知らせに来ましたから、余程の用かもしれませんね」
「またあいつか」迅は顔をしかめた。「最近やたらと挨拶だの何だのとうるさいんだ。そう急いで来なくても、明日の晩には会うのに」
「明日の晩? ……あぁ、皇家の親睦会がありましたね」
「そうだ。あいつは兄の護衛だろうが。何をしてるんだか……」
迅は溜息を吐き、もう一度椅子に座りなおした。それと反対に、私は椅子から立ちあがる。勢いよく立ちあがったせいで、椅子が倒れてしまった。
「す、済みません! とりあえず、し、失礼します……!」
慌てて椅子を戻し、私はぺこぺこと頭を下げ、逃げるように迅の部屋を出た。迅が呼び止めようとしていたのが背中越しに分かったが、気付いてないふりをして、扉を閉める。
……どうしよう。
――玉緒は、あの会話を聞いていたんだろうか?
そんな変なことが、真っ先に頭に浮かんだ。玉緒が部屋に入ってきて、一番に私の顔を見た。少しだけ不機嫌そうに見えた。けれど……いや、そもそも、何故玉緒のことを考えなければいけないのか。
これは私と迅の問題だ。
そこまで考えて、ハッとする。
昨日、その考え方を止めろ、と怒られたばかりだった。
――となれば、やることは一つだ。甘えて、みようじゃないか。
*
「あぁ、お前が空気を読まないせいで、逃げられてしまった」
迅はつまらなさそうにそう言いながら、椅子に深く座りなおし、はぁと浅い溜息を吐く。
「……本気なんですか?」
尋ねてみれば、迅は間髪入れずに頷いた。
「勿論だ」
「そんなに美しい妻が欲しいんですか?」
「確かに月予は美しいな。才覚もあるし、私の妻にふさわしい――だが、それだけじゃない。好いた相手と結ばれたいと思うのは自然なことだろう?」
迅は楽しげにそう言いながら、円卓に肘をつく。しかし、俺の顔を見て、何故か眉をひそめた。
「何だ、不満そうだな」
「そんな顔してますか?」
「している。お前がそんな顔をするなんて珍しいな。どうした?」
「……不満があるから、そんな顔をしてるんですよ」
そう言えば、迅は不思議そうな顔をして俺を見た。
迅はただ、俺の言葉を待っている。笑いもせず、苛立ちもせず、ただ静かに待っていた。
「俺はあなたが月國と結婚するのには反対なんです」
「何故だ?」
「渡したくないので」
そう言えば、迅の両目が見開かれた。
「何?」
「相手があなたでも、譲るつもりはありません」
それきり俺が口を閉ざせば、ややあって、迅は気が付いたようだった。
微妙に焦点が合わなかった目が、すっと結ばれ、そして鋭さを帯びる。しかし、唇は半弧を描き、確かに笑っていた。
「――お前、面白い顔をするようになったな」
「……失礼します」
俺は頭を下げ、迅の部屋を出た。呼び止められるかと思ったが、迅は何も言わなかった。
――それでもまだ、叔父上のことが気になるなら、私が死んだ後に、あなたが悪くないってことを叔父上にわからせてやる!
月國はそう叫んだ。夕暮れの橙色の陽射しを浴びながら、他人の事なのに、必死で怒りながら、彼女はそう叫んだ。俺を励ましたいのだと、懸命に伝えてくれた。
俺を縛り付けていた鎖を、引き千切ってくれた。
その言葉がどれだけ嬉しかったか、どれだけ心を支えてくれたか、彼女にいくら言っても、きっと少しも伝わらないだろう。否定し続けてきたボロボロの自分を、やっと認めてやることが出来て、もう過去の自分を傷つけなくて良いのだと知って、どれだけ心が安らいだことか。
自分の人生が間違ってなどいないのだと、夢を追いかけることは間違っていなかったのだと、そう言ってくれて、どれだけ俺が救われたか、きっと彼女にはわからない。
そして、その瞬間に、彼女がどれほど輝いてみえたかも、彼女にはわからない。
――あの輝きを汚してはいけないと思う。出来うることならば、傍で支えて居たいと思う。
俺はもう、支えとなる言葉をもらったのだから。
相手が迅でも、譲れないものはある。
内心でそう呟いておきながら、厄介だな、と自分でも苦笑してしまった。
自分の主人相手に喧嘩を売って、果たして大丈夫だろうか。
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、軽やかな足音が近づいてきた。振り向かなくても、相手が誰だか分かる。何だか気恥ずかしいような心地もするが、俺は普段通りを装って、振り返った。先に振り返れば、毎度ながら、彼女は「やられた」という顔をする。
「気付いてたのか」
と、月國は笑った。




