第三十四話 反逆
「――様」
誰かの声がする。
「月予様、月予様……」
「ん……」
とんとん、と軽く肩を叩かれた。ふと目を開ければ、すぐそこに伽藍の顔がある。
「おはようございます。朝ですよ」
「……そう」
いつの間にか眠っていたらしい。上半身を起こそうとすると、難なく動いてくれた。若干指の先に痺れるような感覚は残っているものの、大したことはない。鬘を付けたまま寝たので、身体を起こすと頭が重く感じられた――しかし、外していたら伽藍にもばれていたところだったから、結果としては万歳だ。
室内を見渡してみたが、玉緒はもういなかった。いつまで傍にいてくれたのだろう。随分と情けないところを見られた。
泣くと体力を消耗するのだな、と思いつつ、伽藍が行うまま、着替え、顔を洗い、髪を結い上げる。
「……玉緒は?」
「今朝はまだお見掛けしてませんけど。何か御用ですか?」
「いえ、何でもないの」
――ひとまず、李燕から助けて貰ったお礼を言わなくちゃ。
朝餉を済ませ、部屋を出る。その李燕本人と鉢合わせしたら気まずいので、いつになく伽藍とぴったり寄り添って廊下を歩いた。いつもは彼女を置いていく勢いで歩き回っている私が、のろのろと隣を歩こうとするのが気味悪いのか、伽藍は怪訝そうに眉を寄せながら私を見ていた。
そんなことをしながら玉緒の部屋に向かって歩き、廊下の角を曲がった時、ふとその先に人影が見えた。
真っ先に目に飛び込んできたのが祥華の姿で、思わず廊下の壁に引っ付いて隠れてしまう。そろそろと首を伸ばして見れば、何と玉緒も一緒にいた。
祥華と、玉緒と、あと吉祥が廊下で何やら話をしていて、すぐ傍の談話室に入っていく。
――そういえば、昨日、痺れ薬を私に盛ったのはおそらく祥華だ。その上に、李燕を差し向けてきたのも彼女である。
玉緒が一緒にいれば、きっと証言者になってくれることだろう。乗り込んで文句を言うなら今だ。
「……ごめん、伽藍、私、祥華さまに用事があるから、一人にしてくれる?」
付き添っていた伽藍に言うと、彼女は無表情に戻ってこくりと頷くと、踵を返し、廊下を戻っていった。
その背中を見送った後、私はそろりと足を踏み出し、談話室の扉に近づいた。とりあえず中の様子を確認しようと思って、小さく扉を開けた時――
「――この件には然るべき処置をとらせて頂く」
聞こえてきたのは、玉緒の低い声だった。談話室を覗けば、三人とも椅子に座るわけでもなく、立ったまま話をしている。到底楽しげな雑談には思えず、玉緒と祥華は睨み合っているようにも見えた。
何か、大事な話をしているところなのだろうか。それなら邪魔をしてはいけないと思って扉を閉めようとした時、祥華が甲高い声で答えた。
「あなた……やっぱり月予さんが好きなんでしょう!? だからそんな風に庇うのね!?」
――え?
心臓が跳ねると同時に、胸の奥がざわついた。一体何の話をしてるんだ。
そう言われた玉緒は両目を細め、しかしあくまでも冷静な様子で言い返す。
「好意の有無が問題じゃない。あくまでも客として迎え入れている相手に、毒を盛り、男を差し向けるのはあまりにも非常識だと言ってるんです。あなたが月予を嫌っていようがどうでもいいが、度の超えた嫌がらせは流石に見逃せません」
「度の超えた嫌がらせですって……? それをあなたが言うのねぇ」
祥華のこめかみがぴくぴくと震えた。彼女は怒りの顔を隠すように扇子を広げ、その影から玉緒を睨む。
「嫌がらせをしているのはどちらよ。年頃の綺麗な小娘なんか連れてきて、それをいきなり家に置くなんて……吉祥と結婚するつもりはないの!?」
「幼い頃の話を持ち出されても困ります。本気なのはあなただけだ。そもそも俺と吉祥が結婚したからってどうなるわけでもないでしょうに。あなたは視野が狭すぎる」
「何ですって……」
「お母様、玉緒の言う通りよ」
吉祥が祥華の腕を掴み、ふるふると頭を振る。その表情が青く強張り、唇を食んで恥を耐えているのがよく分かった。祥華の発言は、あの美しく優しい吉祥の矜持を傷つけるのだ――それが祥華には分からない。祥華は腕を振り、吉祥を突き飛ばすようにすると、目尻を吊り上げる。
「あなたは悔しくないのッ!? 私はそんなこと許さないわよ。いい、玉緒、よくお聞きなさい。あなたは吉祥と結婚するの。誰のせいで、吉祥の父は亡くなったと思ってるの? そのせいでこの子には後ろ盾がないのよ? あなたがこの子と結婚しなければ、この子はどこの馬の骨かもわからない男と結婚するしかなくなるのよ。その重みをわかってる? それをちょっとかわいいくらいの、あんな頭の悪そうな女と結ばれるつもり?」
吉祥の為、と言いながら、その実は自分の為だ。吉祥が玉緒と結婚すれば、自分の地位も確保される。玉緒は第二皇子の護衛だ。運が良ければ、いずれは皇帝の護衛になるかもしれない。けれど、吉祥がそうではない男と結婚すれば、その分、自分の地位も下がる――そういう話だ。それを娘を思いやったふりをして話しているのだ。いや、娘を思いやっていると自分では思い込んでいるのかもしれない。
そもそも、あれだけ気立てのよい娘なら、玉緒でなくても、位の高い天上人と結ばれることは容易だろう。将来有望な若い青年は城の中にたくさんいる。それに祥華は気付かない。
吉祥はぎゅっと唇を噛んで屈辱に耐えている。
私は扉を開け、その話に乱入しようとした。
しかし、その前に鋭い声が聞こえてきた。
「……わかっていないのはあなたの方だ」
玉緒の声だった。
彼は祥華を睨みつけ、静かな、怒りを抑え込んだような声で続ける。
「俺は然るべき処置をとらせて頂くと言ったはずだ。吉祥がどうだとか、結婚がどうだとか、的外れな話はやめてもらおうか」
「的外れですって……」
「月予は俺の客人だ」
玉緒ははっきりとそう言った。
「俺がこの家に連れてきた。大切な客人に非常識な真似をした者を見過ごせというのか?」
その声は静かだが、鋭かった。そう言われた祥華はぐっと息を呑み、さっと顔を青くする。
「……あなた、本気で私に処罰を与えるつもりなの?」
「冗談に思えるか?」
「私はあなたの叔母なのよ⁉」
「俺は次期当主だが?」
さらりと玉緒が答え、祥華は絶句した。その手が震えだし、扇子をとり落とす。祥華は両手で顔を覆うと、ありえないと言いたげに何度も首を振る。
「あ、あ、あの人を殺したくせに、そんな態度をよくも――」
「俺が殺したんじゃない」
玉緒はまっすぐに答える。その瞳にもう迷いはなかった。
「今まであなたに同情して横暴を許してきたが、あなたは度を超えた。これ以上、行き過ぎた態度をとるのなら、すぐにこの家から出て行ってもらおう」
「そんな脅し……ッ」
「既に李燕は出て行かせた」
え? という声が漏れた。しかし、同時に祥華が悲鳴に近い声を上げていたため、それで掻き消される。祥華はその言葉で、玉緒が本気であると気が付いたらしい。キィィと鳴き声のような悲鳴を上げると、踵を返し、真っ赤な顔をしてこちらに近づいてきた――まずい。
案の定、扉に近づいた祥華と目が合った。彼女はぎょっとして後退り、それから私を指差した。
「そんなところで何をしているのッ」
「しょ、祥華さ……」
「嘲笑ってたんでしょう、そうなんでしょう!?」
祥華の両目に大粒の涙が溜まる。泣き出すまであっという間だった。
「いいわね、全てあなたの思惑通りだわ。この家はあなたに乗っ取られるのね……この悪女!」
「お母様! 恥を重ねるのはそれくらいにしてくださいまし!」
吉祥が耐えきれずに叫ぶ。
どうしよう、と一瞬悩んだとき、後ろから扉が押された。今まで支えていた扉がいきなり開いてしまい、私は体勢を崩して前につんのめる。しかし、そこを後ろに立っていた人物が腕を伸ばし、支えてくれた。そのまま肩を抱かれ、もう一方の肩をその相手の胸板で打つ。
「祥華、お前はとんだ勘違いをしているぞ」
涼やかな声――迅だ。
その声に祥華も吉祥も静かになる。祥華はぼろぼろと泣きながら迅を見上げ、吉祥は、母親を抑えていた手を、どこかほっとしたような顔つきで離した。しかし、その表情はすぐに強張ることになる。
迅は、私の肩を抱いたまま、こう言い放ったのだった。
「――月予には私が求婚する。もとより玉緒にやるつもりなどないぞ」