第三十三話 殻
李燕がもう一度接吻しようと、顔を近づけてきたのが分かった。
私はぎゅっと目を閉じ、ただひたすらに耐えようとした――その時、ふっ、と身体が軽くなる感覚がした。
「えっ……」
同時に、重たいものが地面に激突したような音がした。揉み合うような音が続き、次に聞き慣れた声がする。
「――何のつもりだ、返事によっては斬る」
玉緒の声だ。目を開けると、寝台の横に、こちらに背を向けるようにして玉緒が立っていた。彼は抜刀しており、刀の先を、床に倒れている李燕の首元に向けていた。李燕は青ざめて震えあがり、悲鳴のような声を上げる。何か答えているようだが、鳳凰国の言葉で、はっきりとは分からない。しかし、恋人だの、愛だのという単語は耳に入ってきた。
「李燕は勘違いしてるんだ」
私は玉緒にそう言ったが、情けないことに泣いていたので、声が変に上擦った。その声を聞き、玉緒がちらりとこちらを振り返る。その眼が恐ろしく冷たくて、思わず息を呑んだ。玉緒はそのまま李燕の方を向き直り、さらに刀を近づける。
「もういい、李燕。ここで俺に斬られるか、すぐに部屋を出て行くか選べ」
玉緒が言い終わらないうちに、李燕は慌てて立ちあがり、脱兎のごとく部屋を飛び出していった。それくらい、玉緒の様子は真に迫っていた。まさか、本当に斬るわけはないと思うものの、もしや、と思わせるほどの迫力がある。
勢いよく扉が閉められ、それと同時に玉緒が刀を鞘に納める。
彼はもう一度こちらを振り返った。今度は酷く優しい眼をしていた。
「……大丈夫か?」
「――身体が動かないんだ。そっちの、その、杯に入っていた茶を飲んで……」
玉緒の視線が卓へ向く。彼は卓の上の杯を手に取ると、それに鼻を近づけた。すぐに顔をしかめて杯を卓の上に戻し、私に向けて首を縦に振る。
「確かに、毒入りだったようだな。でも、ただの痺れ薬だ。命に別状はない。誰が持ってきた茶だ?」
そう答える玉緒の声がいつも通りの調子で、ほっとした。涙も自然と止まる。身体が動かないせいで拭えず、頬の辺りが、涙の跡でぴりぴりしているのが少し気になった。
「持ってきたのは伽藍だけど、そのお茶をくれたのは祥華だ。……李燕をここに差し向けたのも彼女みたいだ」
「……そうか」
玉緒が溜息を吐いた。
それから、彼はゆっくりとした足取りで寝台に近づいてきた。そっと私の顔を覗き込む。
「……ちょっと、いいか?」
玉緒がおそるおそると言った調子で手を伸ばしてくる。どうやら身体を起こしてくれるらしい。笑いながら「うん」と答えると、彼は寝台に軽く腰掛け、私の首の下に腕を差し込み、肩を抱くようにして上半身を持ち上げてくれた。私は身体が痺れていて動かないので、まるで人形のように、彼の意のままになる。自分で体重を支えて居られないので、彼に半身を預けることになるのが申し訳なかった。
彼は私の背中を抱くようにしながら、「済まん」と呟きつつ、私の目の下を人差し指で押し伸ばすようにした。どうやら目の状態を見ているらしいが、あんまり真剣な顔で目を見られると、こちらが恥ずかしい。視線を明後日の方向に投げると、彼は人差し指を顔から離した。
「やっぱり、ただの痺れ薬だ。大丈夫だよ」
その声がいつになく優しく、何故か心臓が跳ねた。こう近いとそれがバレそうで余計にハラハラする。
「そうか……」
――沈黙がおりた。
人の腕に抱かれたまま、黙り合うというのは妙に気まずい。外した視線を戻して見れば、彼は真剣な眼をして私を見ていた。
「……玉緒」
「お前も泣くんだな」
玉緒は優しい声で、囁くように言う。言葉を選んでいるようだった。
「泣いてどうにかなる訳じゃないんだけどさ。悔しかったり怖かったりで訳がわからなくなっちゃって。ほんとに情けない」
「泣いてどうにかなるから泣くわけじゃないだろ。おかしなことを言うな」
玉緒が微笑みながらそう言い、私の頭を軽く撫でる。ふわりと良い匂いがした。前にも感じたことのある匂いだ。玉緒の匂いは何だか凄く安心する。
そこで初めて、自分がまだ震えていることに気付いた。玉緒はそれを知っていたらしく、優しく微笑みながら頭を撫でてくれる。それがどうにもなく安心するのだった。
「……ありがとう、玉緒、助けてくれて」
不覚にも、また涙が溢れてきた。安心したら涙が溢れるのは、何でなんだろう。
「たまたま李燕がお前の部屋に入っていくのが見えたから。気が付けてよかった」
「そっか……重ね重ね、迷惑かけて済まない」
「……迷惑?」
「李燕との話は、私の問題なのに。結局、玉緒に迷惑をかけてしまった。ごめん」
そう言うと、玉緒が押し黙った。しばらく無言になった後、彼は低い声で言った。どこか怒っているようにも感じられた。
「もしかして、李燕が来たのはこれが初めてじゃないのか?」
「え? あ、あぁ、昨日も来た」
そう答えると、玉緒が私の肩を抱く手の力が強くなった。僅かに痛みを感じ、彼を見上げれば、玉緒は笑顔を消し、真剣な顔をして私を見ていた。
「その時もこんな風に?」
「あ……その時は毒も何も盛られてなかったから、逃げたんだ。ほら、玉緒と会って、吉祥の部屋に押し込まれただろ? あれは逃げたから……」
「何でその時に言わないんだ!」
――驚いて身体が大きく震えた。玉緒は軽く舌打ちした後、私の肩をぽんと叩いた。
「悪い、怒鳴るつもりはなかった。でも、その時にちゃんと言ってくれたら良かったのに、何で言わなかったんだ」
「だ、だって、これは私の問題だろ……?」
玉緒の視線が冷たくなった気がした。呆れられてる? それとも怒っている?
一体何に対して機嫌を悪くしてるのかが、さっぱりわからない。私はしどろもどろになりながら言葉を続けた。
「私が李燕と仲良くして、それを彼が好意だと勘違いして、こんなことになったんだし……玉緒は関係ないだろ? 言う必要がないもの」
「……その考え方、止めないか」
玉緒は溜息交じりにそう言った。
「人の生き方にごちゃごちゃ口出しするのは嫌いだが、お前は俺に散々言ってきたんだ。一つくらい言わせてもらうぞ」
「な……何だ?」
「人に甘えることを覚えろ」
玉緒ははっきりとそう言うと、溜息を吐き、そして空いた手も私の背中に回した。ぐいと前方に引っ張られ、玉緒の胸板で額を打つ。強い力で抱きしめられた。玉緒は私の耳元で囁くように言う。
「迅といい、お前といい、どうして自分ひとりで生きてこうとするんだ。お前は、無理をしすぎだぞ」
「無理なんか――」
「お前、何度『大丈夫だ』って嘘を吐いてきた? 誰かに、大丈夫じゃないから助けて欲しいと言ったことはあるか?」
「嘘なんか吐いてない! 私は大丈夫だもの、現に今だって大丈夫だった。助けて貰わなくても、別に死ぬわけじゃなかったし――」
「いい加減にしろ」
その言葉が、予想外に弱々しく聞こえて、私は言葉を飲み込んでしまった。
どうしてそんな声を出すのだ。
「……死ななかったら大丈夫なのか? 違うだろう。そんなに震えて、泣いておいて、そんなのは大丈夫だって言わないんだ」
なぁ、と玉緒が言葉を続ける。
「人に頼るのは、お前の矜持を傷つけるのか? 誰かに相談したり、誰かに甘えたりすることは、駄目なのか」
「……そんなことはない、でも、」
「じゃあ頼れ。一人で生きようとするな。何かあったら誰かに相談しろ。大丈夫じゃない時に大丈夫だなんて言うな」
わかったか? と玉緒が掠れた声で言う。頷こうとして、身体が動かないことを思い出した。うん、と声に出して答えれば、次の瞬間、玉緒はパッと私から身体を離した。当然、私は受け身もとれないので、そのまま寝台に勢いよく倒れ込む。
「うわっ」
「あ、済まない」玉緒は両手を軽く挙げたまま、反省のかけらもない調子で言った。「お前が動けないのを忘れていた」
「びっくりしたじゃないか」
「だから済まないって言ってるだろう」
玉緒はもう一度私を抱え上げると、今度はゆっくり、正しい位置に私を寝かせてくれた。
そのまま私の顔を覗き込み、ふっと優しい笑顔を浮かべる。
「お前は、普段は我儘で手も付けられないくせに、肝心な時に殻に閉じこもるから厄介だな」
指が伸びてくる。私の前髪を掻き上げ、額をなぞった。
「我儘じゃないし、殻になんか閉じこもってない」
「ハイハイ」玉緒は投げやりに返事をする。「まぁ仕方がないのかもなぁ。一年も、あの男社会で、性別を隠して生きてきたんだもんな」
「だから殻になんか……」
ふっ、と視界が暗くなった。玉緒の手で目を塞がれたのだと気が付く。
「俺は味方だよ」
優しい声だけが響いた。
玉緒の手の熱が、瞼越しに伝わってくる。
「だから俺の前では無理をしなくてもいい。俺が、お前の代わりにお前を守る」
――出来るだけ、と玉緒は小さく付け加える。情けない男だ。
「どうしてそんなこと言うの?」
聞き返せば、玉緒が軽く笑う声がした。
「俺を助けてくれたくせによく言うよ」
助けた? 何の話だろう?
しかし、玉緒はそれ以上は説明するつもりがないらしく、ただ私の瞼の上に手のひらを置き、黙っている。
暖かい手のひらだった。
殻に閉じこもってるとは思わない――けれど確かに、自分の事は自分で守らなければならないとは思っている。自分の矜持は自分で守らないと、誰も守ってくれないし、自分の事だって、自分が守らないと、誰も守ってくれないから――だけど玉緒は守ってくれると言った。
「私は確かに、無理してたかもしれないよ」
そう答えると、手のひらが引いていった。瞼を開ければ、玉緒が驚いた顔でこちらを見ている。
「どうした? 痺れ薬で涙腺がやられたか?」
そう言いながら、玉緒はまた優しい顔で笑う。
涙腺はどうかはわからないけど、きっと、心臓はおかしくなっている気がする。
――さっきから、鼓動が早くて、うるさくて、たまらない。