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第三十二話 居場所


「……こちらの二人は?」


 結月がちらりと迅と玉緒を見る。私が答えようとすると、迅がさっと片手を挙げて制した。


「ちょっとした知り合いだ。気にするな。それよりお前は?」

「僕もちょっとした知り合いですよ」


 結月は肩を竦める。迅は怪訝そうに眉を上げた。


「初品です、私と同室でした」


 慌てて耳打ちすると、彼はあぁと小さく頷き、胡乱そうな眼を結月に向ける。


「彼は知ってるのか?」


 何を、とは言わなかったが、おそらく私の性別だろう。

 知らないはずだ。少なくとも、私が城に居た時は知らなかった――けれど、その言葉を耳にした結月は薄く笑って頭を傾けた。


「知ってますよ。ついさっき、お兄さんから聞いたので」

「……結月、怒ってるのか?」


 そう尋ねると、彼は僅かに怯んだように口を噤んだが、しかし、まっすぐに私を見返してきた。


「黙っていて済まない」私は小さく頭を下げる。「でも、気軽に言える話じゃなかったんだ。迷惑はかけたくなかった。結月たちを信用してなかったわけじゃないんだ――それだけはわかってほしい」


 結月はじっと私を見つめている。彼は少しだけ口角を上げて、首を横に振った。それから深呼吸を繰り返し、最後に長い溜息を吐く。視線がひょいと明後日の方向に投げられた。


「いいんだ。それはわかってる。別に怒ってなんかいないよ」

「けど、何だか変だ」

「普通だよ。久々に会うからそう思うだけじゃないかな?」

「違う。どれだけ一緒にいたと思ってる。結月――」

「――頼むから黙っててくれないか!」


 結月が叫んだ。

 明らかに様子がおかしい。結月がこんな風に取り乱すのを初めて見た。


「結月……」

「……お兄さんから聞いたんだ」結月は諦めたように言った。「君がお兄さんの代わりに仕官していることをね。驚いた。驚いたよ。それから、そう、上手く言えないけど……失望した」


 結月が目を伏せる。何かを必死で堪えているように見えた。


「君に言うつもりはなかったけど、僕は君を本当に尊敬してたんだ。恥ずかしいけど、君の背中を追いかけてた。君に追いつきたくて、頑張ってたんだ。わかってるさ、そんなこと君には関係ない、けど、でも、失望したんだ……君がそんなやつだなんて思わなかった……」

「女であることがそんなに悪いか?」


 迅が口を挟んだ。それが怒気を含む声で、結月が身体を震わせる。私は膝立ちになり、片手を伸ばして迅を制止した。


「結月はそんな人じゃありません。私が女だからって失望したりしない……でしょう?」


 半ば希望だった。そう願いながら結月を見ると、結月ははっきりと頷いてくれた。

 しかし、なら何故、失望するんだろう。

 そう思って眉をひそめると、結月は力なく笑った。悲しそうな笑顔だった。


「わからないんだね、君には。僕は、君がお兄さんの居場所を奪ってまで城に来たことが信じられないんだよ」

「私が、月矢の居場所を、奪う?」

「そうだよ。お兄さんは確かに病気がちで、仕官は難しいかもしれない。けど、君がお兄さんのふりをして仕官して――つまり社会に出たら、お兄さんはこれからどうするのさ? 彼は何も出来ないよ? だって本当の彼は城にいることになってるんだもの。君は、彼が社会で生きる道を奪ってるんだよ? それがわかる?」


 ――ずしん、と胸に重いものが落ちてきた気がした。

 頭がくらくらする。何も答えられないでいると、結月は笑いながら続けた。


「僕は君を尊敬してた。僕は兄弟の中でも出来損ないで、意気地なしで、駄目な奴だった。兄たちに馬鹿にされて、利用され続けてきた。自分の力で立って、兄の言いなりは止めようと思ったのは君に出会ったからだ。でも……そんな君が兄弟を利用してたなんてね」

「利用なんて……」

「何が違うの?」


 結月はそう言ってから、ハッとして唇を結んだ。

 ごめん、と囁くように言い、這うようにしてかごの後ろへ移動した。そのまま後簾に手をかける。


「結月――」

「僕は歩いて家まで戻るよ。今のは忘れて。ごめん」

「私は……私は月矢を利用なんかしてない。そんな人間じゃない!」

「それでも僕にはそう見える」

「嫌だ」言葉が口をついて出る。「私がそんな人間であることを私は許せない」


 結月が私を一瞥した。その口元が僅かに緩んでいた。


「そんな君を尊敬していた。……でも結局は君でさえそんな人間なんだよ」


 さよなら、と結月の唇が動く。彼はサッと御簾をたくしあげると、そのまま車外に身を投げ出した。ぱたりと音を立てて御簾が閉まる。

 籠の中に沈黙が下りた。

 ゴトン、と牛車が揺れ、私は思わず体勢を崩す。近くにいた迅がパッと手を伸ばし、支えてくれた。


「大丈夫か?」

「……はい」

「嘘を吐け」

「大丈夫です」


 私は体勢を戻し、息を吐く。

 ――月矢の居場所を奪っている。

 そんな風に考えたことはなかった。けれど、確かに、私は彼の居場所を奪っているのではないか?


 愛しい愛しい月矢。小さい頃から私を愛してくれた、大好きな兄。唯一の存在。

 私は月矢のふりをして城にいるけれど、じゃあ、本当の月矢はどうするの?

 月矢は病気がちとはいえ、出歩けないほど重病ではない。激しい運動は困難で、寝込む日もあるが、体調の良い日は一日中外出しても平気だ。幼い頃よりもずっと体調は安定してきている。

 ――私は彼に何を強いている?

 心臓に穴が開いた気分だった。


「……この牛車、どこに向かってるんだろうな」


 迅が玉緒に尋ねる。玉緒は首を傾げた。


「さっきの少年の家じゃないですかね? このまま向かう意味もありませんし……どこへ行きましょうか」

「一旦玉緒の家に戻るか?」

「この時刻だとまだ宗家がいるかもしれません」

「もう少し辺りを走ってから戻るか」

「わかりました」


 玉緒が小さく頷き、簾越しに下男に声をかけている。

 私はその様子を見ながら、目の前が昏くなっていくのを感じた。


 ――月國、お前、天上人になれよ。

 武の笑顔を思い出す。

 ――ごめん、武、私にはその資格はないかもしれない。


 私はそっと目を閉じた。迅も玉緒もこちらを見ているのがわかったが、私には目を開けることが出来なかった。どんな顔をして二人を見ればいいのかわからなかった。




                     *


 玉緒の家に戻り、風呂から出ても、憂鬱な気持ちは収まらなかった。どんどんと胸を押しつぶされていくような、そんな嫌な感覚がする。伽藍と一緒に部屋に戻ると、彼女は茶を注いで持ってきてくれた。


「祥華さまから頂いた高級な茶葉です。月予さまにぜひ、ということでした」

「彼女が私に贈り物だなんて珍しいわね」


 明日、その感想でも聞いてまたアレコレと嫌味を言うのかもしれない。どうでもいいな、という気持ちでいっぱいだった。伽藍が杯を卓の上に置き、頭を下げて部屋を出て行く。一人にでいたいという気持ちを察してくれたのかもしれない。

 祥華のくれた茶は、想像よりずっと美味しかった。適度な暖かみが気持ちをほぐしてくれる気がする。そうすると、今度は泣きそうになった。同時に眠気で頭がくらりとした。

 今日は、人混みの中を歩いたり、刺客に襲われたりと久々に身体を動かして疲れた。寝台に潜り込む。枕に頭を置いた途端、意識がふわりと遠ざかるような感覚がした。もう何も考えたくない。このまま眠ってしまおうかと思ったが、かつらを付けたままだった。


 外さないと――そう思って身体を動かそうとしたが、持ち上げた腕が異常に重かった。起き上がろうとして身体を捻るが、ずっしりと重く、身体の先が痺れたような変な感覚がある。半分眠ってしまっているのかと思って頭を振ろうとしたが、首が動かなかった。

 ――あれ?

 おかしい。身体が動かない。

 

 その時、扉が開く音がした。それはすぐに閉められ、深い溜息が聞こえてくる。吐息に混じった僅かな声に聞き覚えがあった。身体が震えあがる――李燕の声だった。思わず飛び起きようとしたがやっぱり身体が動かない。

 李燕はすぐに寝台に近づいてきて、掛かっている幕を一気に開けた。そして寝台に片膝を着き、私の顔を見やる。彼は微笑んでいた。


「こんばんは、月予サン」

「李燕……」


 声はかろうじて絞り出せたが、蚊の鳴くような細い声で、到底扉の外には聞こえなさそうだ。助けを呼べそうにない。李燕はにこりと笑みを深くすると、眼鏡を外し、一旦寝台から離れると、卓の上にそれを置いた。ぱさりと上着を脱ぐと、椅子の上に掛ける。


「この間は礼儀を知らずに来てしまってスミマセンでした」


 李燕は溜息を吐きながら、首を横に振って言う。そして踵を返すと、また寝台に近づいてきた。寝台に腰かけ、愛おしそうに微笑みながら私の頬を撫でる。


「礼儀……?」


 胸の奥がぞわぞわと気味悪く震えているのを堪えながら尋ね返すと、彼は小さく頷いた。


「エエ。女人が寝台に入ってから訪れるのが玉龍国の礼儀だと、祥華サンから伺いまして」


 ――祥華?

 ハッとした。さっき飲んだ茶。あれに痺れ薬のようなものが入っていたのだろう。李燕と私のことを知った祥華が、わざと李燕にそんな嘘を教え、私に痺れ薬を飲ませたのだ。

 まずい。李燕に説明しようとしたが、彼はにこりと微笑んで、そのまま私の顔の横に手を付いた。そして顔を近づけてくる。


「待っ……」

「月予、愛してマス……」


 私は全然愛してない!

 首を振って逃げようとしたが、身体が少しも動かない。李燕からすれば、こちらが抵抗しないのだから、受け入れてくれたと思っているのだろう。彼は安心したような笑みを浮かべ、そのまま唇を重ねてきた。ぎゅっと目を閉じた瞬間、唇に気味の悪い生温さを感じた。

 ――接吻するのは初めてだった。恋愛とは縁遠いところで生きてきた。

 たかが唇と唇が重なるだけ。部位が異なるだけで、手を繋ぐのと何も変わらないはずだ。そう思うのに、何故か悲しさと悔しさが込み上げてきた。自分がそんな風に感じるのが意外だった。今すぐに逃げ出して泣き叫びたいのに、身体は動かないし、李燕は寝台に上がり、私に覆い被さってくる。


 逃げられない。助けも呼べない。


「嫌だ、李燕、私は……」


 必死に彼を説得しようとしたが、あえなく唇を塞がれて言葉が続かなかった。蹴り飛ばして逃げ出したいのに、どうにも出来ない。心底からぞっとする。怖い。どうすればいい?

 

 ――これが月矢の居場所を奪った罰か?

 そんな言葉が頭に浮かぶ。

 そういうつもりじゃなかったんだ。大好きな兄の道を潰すつもりじゃなかった。

 悔しさや悲しさや後悔や、色んな気持ちが一気に沸き上がってきて、訳が分からないうちに、涙が零れた。泣いて何が許されるというんだろう? 何が変わるというんだろう? 李燕の指が私の衣服に掛かる。あまりの悔しさに涙が止まらなかった。泣いている自分でさえも情けなくて悔しくて堪らなかった。


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