第三十一話 刺客
――そして、横に押し飛ばされた。建物の壁に右肩をぶつけるのと、真横を玉緒が走り抜けるのはほぼ同時だった。彼は刀の鎬で相手の刀を受け止める。
「二人とも無事ですか」
玉緒の焦ったような声に、私と同様に壁に押し付けられた迅は頭を振るいながら答える。
「お前に突き飛ばされて頭を打ったくらいだ」
「なら問題ないでしょう――迅を頼む」
玉緒は静かにそう言い、力を込めて、相手を押しやった。私は彼の背中に頷きかけ、迅を後ろに回そうとしたが、やっぱり彼は頑として動かない。それどころか、刀を交わしている男と玉緒から、私を庇うようにして立った。
「迅皇子、後ろに退がってください、危険です」
「女に守られるほど弱くはない」
「私だって皇子に守られるほど軟弱ではありません!」
「そういう問題じゃない」
迅はこちらを振り返りもせず、はっきりとした口調で言った。
玉緒が刀を返し、後ろに飛んで男と距離を取った。男はもう一度上段から斬りかかろうとしたが、狭い路地では大きく身を動かす方が不利で、玉緒はわずかに身を捩ってそれを躱す。そのまま男の懐へ難なく入り込み、柄頭で男の鳩尾を打った。男は鈍い声を上げ、その場に崩れ落ちる。
玉緒はその様子を見届けることなく、瞬時にこちらを振り返った。
「――後ろだ!」
振り返ってみれば、後方にも弓を引いた男が立っていた。目が合った途端、彼は矢を射た。
私の首元めがけて矢は飛んでくる。せめて迅だけでも守ろうとした時、後ろから強い力で引かれ、誰かに抱きすくめられた――迅だ。
「皇子……ッ」
矢が皇子の肩口に刺さるか否かという瞬間、それを玉緒が叩き斬って落とした。驚くほどの早業で、流石皇子の護衛だと舌を巻かざるを得ない。玉緒はそのまま地面を蹴ると、弓を引いた男に飛び掛かり、逃げ出そうとする彼の背中を蹴り倒すようにして地面に落とした。
「誰に雇われた? 目的は何だ? 答えろ!」
玉緒は刀を男の首元に突きつけ、そう脅すように言った。しかし、うつぶせに倒れた男は、ややあってから、唐突に大声で叫びだす。
「――ここに第二皇子がいるぞ! 第二皇子がいらっしゃるぞ!」
――それを耳にした玉緒は顔をしかめ、舌打ちをして、男の首に手刀を叩き込む。男は一瞬で気を失い、静かになった。だが、その大声を聞きつけたのか、市場の方がざわめいている。
まだ私を抱きしめたままだった迅が、私の腕をしかと掴んで、また川の方へ駆けだした。
「玉緒――」
「わかっています」
玉緒は頷き、刀を鞘に戻すと、注意を払いながらも、私たちを先導して駆け始める。
「どうして逃げるの?」
迅に腕を引かれながら問うと、彼は走りながら答えた。
「皇子がこんなところにいると知られるとかえって危険が増すんだ」
「そうなの……」
「まずいですよ、迅」
先を走る玉緒が川向こうを睨みながら言った。
「まだ何人か刺客がいるようです」
「牛車まで戻るか?」
「待ち伏せされている可能性はありますけどね――こっちに飛び道具がないのが痛いな」
そう言いながら、玉緒が急に速度を落とした。私たちと並び、最も川に近い位置を走る。何かと思えば、次の瞬間、矢が飛来してきて、彼はそれを懐から抜き出した短刀で弾いた。それでいて走る足は緩めない。迅も私の腕を掴む力を強くし、さらに速度を上げて行く。
ふと、前方に、川にかかった橋が見えた。そこを、見慣れた牛車が通っていく。それはそのまま市場を横切っていくつもりらしい。
「皇子! 玉緒! 市場に戻ってあの牛車に乗ろう、多分、敵にバレないで乗り込めるはずだ!」
「敵にバレなくても、牛車の中の人間にはバレるだろう。私は皇子だから乗せろとでも言うのか? 説得に時間がかかるぞ」
「大丈夫だ」私は迅の腕を引き返し、一番近い路地へと方向を変える。「――あれは私の家の牛車だ!」
そう言うと、迅もくるりと身体を翻して、今度は私に腕を引かれるようにして路地を走った。その後を玉緒が着いてきて、時に飛んでくる矢を短刀で落としている。
「奴ら、橋を渡ってくるつもりだ。乗るなら急いで乗らないと、牛車ごと狙い撃ちになる」
「わかった、急ごう」
短く答えて、私はさらに足を速めた。空いた手で衣の裾を掴み上げ、駆け抜ける。
市場に出ると、運よく、すぐそこに牛車が見えた。人混みは相変わらずだが、牛車が横切るという事で、まばらに道が開けている。人を躱すようにして駆け、のろのろと走っている牛車の目の前に飛び出した。牛を引いていた下男がぎょっとしたように私を見、それからまた激しく動揺したように目を丸くした。
「月予様!?」
「久しぶり。ちょっと乗りたいから一瞬だけ止めて頂戴。台を用意する必要はないわ」
「で、でも今、客人をお送りするところでして――」
「いいから止めて!」
私はそう叫び、迅の腕を引いて牛車の後ろに回り込んだ。まだ牛車はゆっくり動いていたが、後ろの御簾をたくし上げ、両手をついて飛び乗ろうとする――しかし、女物の衣ではなかなか難しかった。衣の裾を踏みつけてしまい、転びそうになったところを、中に乗っていた人物がさっと手を伸ばして支えてくれた。咄嗟にその手を掴むと、彼はそのまま中へと引き上げてくれる。私が牛車の中に転がり込むと、その後ろにすぐさま迅が飛び乗ってきた。それから玉緒がひょいと身軽に飛び乗り、御簾を下ろした。直射日光が塞がれ、薄暗さが広がる。
玉緒は御簾の覗き穴から外を見つめ、ほっと息を吐いた。
「どうやら牛車に乗ったとバレていないようだ」
「そう、良かった……」
私は胸を撫で下ろしてから、ふと気づき、先に牛車に乗っていた人物に向き直った。
「ごめんなさい、いきなりお邪魔して……え?」
――その人物は私の顔を見て、息を呑んだ後、僅かに微笑むような仕草を見せた。
「……久しぶり、月國。……いや、月予、の方がいいのかな?」
「結月……」
牛車の中にいたのは、照日結月だった。編み上げられた竹の隙間から差し込む風に、彼の茶色じみた髪がふわりと揺れる。彼は微笑んではいたが、どこか悲しそうな顔をしていた。それでいて、酷く冷たい眼をしているようだった。
結月にそんな眼で見られるのは初めてだった。
――それに、どうして「月予」という真名を知っているんだろう。
それから、神楽家の牛車に彼が乗っていることも不思議だった。
あまりにも疑問が多く、私が咄嗟に押し黙ってしまうと、彼は微笑んだまま、気まずそうに視線を逸らした。
――どうしてそんな顔をしているんだろう。
正体の分からない、嫌な予感に、胸が押しつぶされそうだった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました!