第二十八話 李燕
李燕は私の頬を撫でながら、もう一方の手を卓についた。そのまま身を近づけてこようとしたが、その前に私は反射的に立ち上がっていた。勢い余って、椅子が後ろに倒れる。しかし、その音は絨毯に吸い込まれてしまう。私は椅子を後ろ足で蹴るようにしながら、李燕と距離を取った。
「どうしたの、李燕」
――まさか、李燕も私の命を狙っている?
そんな考えが掠めたが、すぐに打ち消した。それなら、今晩まで待たずとも、いくらでも殺す機会はあった。李燕とはずっと一緒にいたのだから。
李燕はどこか驚いたようにしながら、しかし、ゆっくりと私に近づいてくる。
「怖がらなくていいんですヨ」
その声音は普段よりずっと優しく、どこか甘ったるい響きを含んでいる。李燕はそっと手を伸ばし、私の肩に手を置いた。落ち着かせるようにぽんぽんと肩を叩かれ、私はひとまず身体の力を抜いた――李燕相手に何を緊張しているんだ。
「ごめんなさい、急に明かりを消すから驚いただけ」
「あぁ、そうか。驚かせてゴメンよ」
李燕は目を細めて笑う。そしてまた一歩、私に近づいてくる。気が付けば、もう一方の肩にも手が置かれていた。
――やっぱり、何かおかしい。
そう思った時、ぐいと力強く引き寄せられた。驚きのあまり、わずかな声も上がらない。気が付けば李燕の両腕の中に抱きすくめられていた。想像よりも力はずっと強い。李燕は頭を垂れ、私の首元に顔を埋めている。熱のある空気が首筋にかかり、ぞわりと全身の毛が逆立つ心地がした。
「月予――」
李燕が私の名前を呼ぶ。その後、何かを言ったらしいが、鳳凰国の言葉で、咄嗟には聞き取れなかった。
彼の顔が見えない。ただ強い力で抱きしめられている。私を呼ぶ声はどこか熱っぽい。
どういうことだ――そんな驚きでいっぱいになって、抵抗することが頭から抜けていた。呆然としているうちに、李燕は拘束を少し緩めた。
あぁ、よかった、離してもらえる。そう思ってほっとしたのだが、李燕はすぐに私の頬を撫で、顎に触れて少し上を向かせた。目の前に李燕の顔がある。これは――
「うわぁ!」
思わずそんな声が出て、私は李燕の胸板を強く突き飛ばしていた。不意の攻撃に李燕はよろめき、私を離す。私は慌てて李燕から離れた。鼓動がうるさい。けれど自らの顔が真っ青になっているのは、鏡を見なくても分かった。
「な、何をするの、李燕!」
そう叫ぶと、李燕は心外そうにこちらを見た。
「月予こそ、ナゼ拒むんです」
「何故って、当たり前でしょ、そんな……」
「私が好きなんじゃないんですか?」
李燕は心底から不思議そうに言った。
「あんな風に接していたのに?」
「……あんな風って……?」
――わからない。
私は普通に接していたつもりだった。
それなのに、李燕は私が彼の事を好きだと確信しているらしい。
「……一夜の遊びでここに来たワケじゃないです」
ハッと気付いたように李燕が言った。
「私は本気で月予サンが好きです。だから安心してください」
そう言って、彼はまた私に近づこうとしてくる。
口から飛び出したのは甲高く短い悲鳴だった。私は李燕を突き飛ばすようにして駆けだすと、廊下に転がり出た。
――気持ち悪い。
そんな感覚がせりあがってくる。どこへ逃げればいいのかわからないまま、私は廊下を駆けていた。
李燕は悪い人じゃない。それはわかってる。けれど――嫌悪感と気味の悪さが止まらない。
普通に接してるだけで好きだと思われるの?
たとえば私が男だったら、李燕はそう感じただろうか? この男は自分を特別に好きなのだと思っただろうか? わからない。
李燕が好きだと言ってくれた、そのことは別に嫌じゃなかった。けれど。
――だから安心してください。
その言葉。どうして李燕は私の好意を確信しているんだろう。
李燕には、私が、恋に酔ってすり寄ってくる女に見えたのだろうか?
――裏切られた気分だった。悲しくて、同時に気持ちが悪かった。
それでいて、怖い。
脱兎のごとく部屋から抜け出し、廊下を駆けていく。気が付けば中庭に飛び出していた。足は自然と裏庭に向く――弓場に行って何になるんだろう。けれど、そこが逃げ場だという気は確かにした。
弓場に駆けこむと、そこには誰もいなかった。近くの弓術用の荷が置いてある倉庫へ飛び込もうとしたが、そこは鍵がかかっている。私はその倉庫に背を預けるようにして、その影に座り込んだ。
李燕が追いかけて来たらどうしよう。追いかけてこなくても、彼と一つ屋根の下にいるのは怖い。彼の方が力が強かった。本気で襲い掛かられたら、多分成す術もなく手籠めにされる。果たして李燕はそんなことをするだろうか。優しい李燕はきっとしない。でも、李燕は私が彼を好きだと思っている。それなら? わからない。
玉緒に相談しようか、そう思ったが、すぐに諦めた。
李燕に言い寄られて困ってるの、とでも言うのか? この居心地の悪い気持ち悪さをわかってもらえるとは思えない。それに、これは私の問題だ。玉緒に迷惑をかけるわけにもいかないだろう。
私はしばらく膝を抱えて丸くなった。そうしていると、夜風の冷たさも相まって、どんどん気持ちが静まってきた。込み上げてきた嫌悪感や気持ち悪さが落ち着いていく。
――そう、ただ言い寄られて、接吻されそうになっただけ。
ちゃんと、李燕に、勘違いであることを伝えればいい。きっと彼ならわかってくれるはずだ。
そう思うのに、何故だか膝の震えは止まらなかった。きっと夜風の寒さのせいだろうと思い、私は重たい身体を引きずって、屋敷の中に戻った。明かり一つない屋敷の中は、前もあまり見えない。よくここを駆け抜けて庭まで行けたものだ。自分でも感心しながら、自室へ歩いていくと、ふと廊下の先から淡い光が見えた。誰かが手燭を持って歩いているのだ。
李燕が私を探しているのか、と思うと何故か背筋が冷えた。また逃げ出しそうになって浮足立ったが、それより早く、人影が声を発した。
「そんなところで何をしてるんだ?」
軽い口調である。彼は少し笑っているようだった。
「蝋燭も持たずにうろつくと、幽霊だと思われるぞ。下女が怯えるからやめてくれ」
「……玉緒」
廊下の先から手燭を持って歩いてきたのは玉緒だった。思わずほっと安堵の息が漏れる。彼は微笑みながら、私の目の前までやってきて、首を傾げる。
「さっき廊下を駆けまわってたのはお前か?」
「そ、その言い方はちょっと解せないけど」
「びっくりして目が覚めた……ん?」
玉緒は私を見て怪訝そうに眉をひそめた。手燭を持っていない方の手が伸びてくる。思わず後ろに逃げてしまうと、彼は反射的に手を引っ込めながら、低い声を出した。
「何で砂で汚れてるんだ? 外へ出たのか?」
見れば、服の袖や裾が砂で汚れていた。慌てて払い落としながら、私は笑って誤魔化す。
「……あぁ、ちょっと、夜風に当たろうと思って、庭に行ったんだ」
「何を考えてるんだ」玉緒は怒ったような声を出した。「屋敷内では比較的安全だとはいえ、お前は誰かから命を狙われてるんだぞ。気を抜くな」
「わかってるよ」
「――なんだ、覇気がないな。何があった」
「何でもない」
玉緒が言い終わる前からそう答えると、じっと私を見た。何か推し量るような目だったが、諦めたのか、ぱっと視線を逸らし、踵を返す。
「部屋まで送ろう」
声はいつも通りぶっきらぼうで、いつも通り柔らかい。私は気持ちがかなり落ち着いたことに気が付いた。
――良かった。安心した。
膝の震えもおさまった。こちらに背を向けて歩いている玉緒を追いかけ、そのすぐ隣に並んで歩く。
「……腕を掴んでもいいか?」
そう尋ねると、玉緒はびっくりしたような顔でこちらを見た。
「は? どうして」
「……つ、月矢によくそうしていて。落ち着くんだよ」
――何も考えずに発言していた。思わず恥ずかしくなってあたふたと両手を振りながら言うと、玉緒はわけがわからなさそうに眉を上げたが、少し口元を緩め、僅かに頷いた。
「何だ、怖い夢でも見たのか? 掴むならいくらでも掴め」
玉緒はそう言って腕を差し出してくる。私がその二の腕を掴むと、彼は度肝を抜かれたように目を丸くし、それから破顔した。
「――何を笑ってるんだ」
「いや、思ったよりがっつり掴むなと思って」
「だから掴ませろって言ったじゃないか」
「それはそうだけど」
玉緒はくすくすと肩を震わせて笑っている。何がそんなに面白いんだろう。私はむっとしながらも、両手で彼の二の腕を握り締める。歩きづらくはなかったが、気持ちが楽になる。
月矢の腕よりもずっとずっと太いな、とそんなことを思った。鍛え上げられた腕だ。李燕の腕よりずっと力強い。――そういえば玉緒にも抱きしめられたな、と夜這いもどきのことを思い出し、恥ずかしい気持ちになった。結局夜這いは私の勘違いだったが、訳の分からないことをあれこれと口走ってしまった。
「着いたぞ」
そんなことを考えながら歩いていると、いつのまにか私の部屋の前に着いていた。開けっ放しにして逃げてきた扉はしっかりと閉められていた。李燕はまだ中にいるのだろうか。そう思うと足が竦む。
思わず玉緒の腕を掴む手に力を込めると、彼は不思議そうに私を見下ろした。
「どうした」
「どうもしていないけど……た、玉緒は今からどうするんだ?」
「どうするんだって、寝るつもりだけど」
「……迅皇子も今日はもう寝てらっしゃるのか?」
「ん? あぁ、そうだな」
「そっか……」
李燕が中に居たら、眠っている時にまたやってきたら……と思うとなかなか、部屋に戻る気分になれなかった。
「……月國?」
「……一晩中、弓を引いてちゃダメかな」
「ダメだろ」
玉緒は呆れたように間髪入れずに答えた。それでも私が俯いて、玉緒の腕を離さないでいると、彼は溜息を吐き、そのまま歩き出す。思わず私も腕を掴んだまま進んだが、玉緒は止まる様子はない。
「え、ちょっと、どこ行くの?」
「一人じゃ寝れないんだろう」
「え!? え、ちょ、いや、そういうことじゃないけど」
「朝になってお前の死体が弓場から出て来たら困るからな」
「や、流石に一晩中、弓を引いたりはしないってば」
そう言いながら腕から手を離したが、すると玉緒は私の手を掴んだ。痛くない程度の力だが、振り払えない。彼は迷いなく進んでいく。
「え、ほ、ほんとにどこ行くの!?」
「――月國」玉緒が真剣な目をして振り返る。「静かに」
思わず口を噤むと、玉緒はこれ幸いとそのまま私を連れていく。
おろおろしたまま私が腕を引かれるままになっていると、玉緒はいきなり立ち止まった。咄嗟に止まれず、その背中に顔からぶつかる。
「玉緒……」
玉緒は扉を叩いているところだった。訪れたことのない部屋だ。一体どこに連れていくつもりだろう。
彼が何度か扉を叩いていると、扉の向こうから返事が聞こえた。
「俺だ」
玉緒がそう呼びかけると、扉がおそるおそる開く。
「こんな遅くにどうしたの?」
鈴を転がすような声――扉を開けたのは吉祥だった。
眠っていたのか、吉祥はぼんやりとした表情で、髪の毛もおろしていた。衣服もゆったりしたものを着ており、女の私でもその色気にくらくらしてしまう。それなのに、玉緒は平然としていて、私の腕を引くと、吉祥の前に突き出した。
「寝付けないらしくてな。悪いが一緒に寝てやってくれ」
「へ?」
吉祥が一瞬で覚醒したように両目を見開き、私を見る。私も驚いて玉緒を振り返ったが、玉緒は片手を挙げて、じゃあ、と言い残し、そのまま足早に去っていく。
「ちょっと、玉緒……」
私たちの声が重なった。思わず顔を見合わせている間に、玉緒は廊下の角に消えてしまった。
「……あの、吉祥……」
「……仕方ありません」
吉祥は溜息を吐き、私を部屋に招き入れて扉を閉めた。
そして、彼女は気まずそうな顔をして私を見る。
「その……玉緒に、寝付けないって、おっしゃったの?」
――何か誤解されている気がする。それだと誘惑しているみたいじゃないか。
私は首を横に振った。
「いや、違う、その――廊下を走り回っていたら、ちょうど玉緒と会って」
「え」
吉祥は目を剥いた。両手で口をは覆い、信じられないとでも言いたげな顔をする。
「あ……運動不足で眠れないってことでしたの?」
「うーん、ちょっと、違うんだけど、その……ま、色々あって」
「……とりあえず、眠ります? 私は椅子で寝ますから――」
「いや、いい、それは、申し訳ないから、私が椅子で」
「いえ、どうそ寝台を使ってください」
――そんな言い合いを繰り返した結果、私たちは二人で寝台を使うことにした。
とはいえ広い寝台なので、十分に余裕はある。寝台に横になると、端側に腰を下ろした吉祥が笑った。
「それじゃあ、布団をかけますわね」
そう言い、吉祥は布団を引き上げて二人ともを覆うようにし、自分も横になった。
「おやすみなさいませ」
「お、おやすみ……」
――何だか、良い匂いがする。同じ石鹸を使っているはずなのに。同性同士でもやたらとドキドキした。同時に幸せな心地が沸き上がってくる。布団の中で感じる人肌のぬくもりも、さっきまでの緊張をほぐしてくれた。
どこまで考えていたのかわからないけれど、玉緒、ありがとう。
そんなことを考えていると、あっという間に睡魔がやってきて、私は眠りについていた。




