第二十七話 あの女
下女がまだきゃあ、きゃあ、と途切れ途切れの悲鳴を上げている。その悲鳴を聞きつけ、わらわらと下女たちが集まってきた。その中でも、伽藍が青ざめた顔をして脱衣所に飛び込み、私たちの様子を見て目を丸くした。
「……迅皇子」伽藍はやれやれと首を横に振って言った。「寝室でやってくださいませ」
「違う、断じて違う、何を言ってるんだお前は」
迅がバッと顔を赤くし、片手を上げて伽藍を制した。
「そもそも月國は男――」
「迅皇子!」
慌てて叫ぶと、迅はパッと口を噤んだ。しかし、そう言われた伽藍は不思議そうに首を傾げている。
「月國? 何の話ですか?」
「い、いや……」
「それより、お二人とも廊下へ出てくださいませんか」
伽藍は普段通りの平坦な声でそう言いながら、私の着替えが入った竹籠を、後ろに控えていた下女から受け取った。
「早くお身体を拭いて御着替えになって頂かないと、月予様が風邪を引かれます」
「お、お前が身体を拭くのか?」
「? えぇ。私だけでなく、彼女たちも……」
「おっ、女に拭いてもらうのか?」
迅は相当に混乱しているようだった。何故か白い顔をしながら、伽藍や下女たちと、玉緒の背中に隠れた私とを見比べる。
伽藍は平然とした表情で答えた。
「月予様は女性なのですから当たり前です」
――迅がぽかんと口を開け、もう何も言わなくなった。せっかくの端正な顔が台無しだ。玉緒が悩ましげに長い溜息を吐く。手を伸ばし、その服の裾を引くと、玉緒は顔だけでこちらを振り返った。一瞬目が合ったかと思えば、ぱっと視線が逸れ、玉緒はそそっと前に進んで私と距離を取る。
「あぁ、ちょっと、」
私は壁から離れ、もう一度玉緒の衣を掴み、引き止める。
「どうした」
玉緒が困ったように眉を上げる。
「……迅に説明しておいてくれないか」
「いいのか?」玉緒は囁くように言った。「まだ誤魔化せるぞ」
「いや……無理だろう」
ちら、と迅を見れば、彼は顔を赤くさせたり青くさせたりと忙しそうだった。視線があちこちに泳いでいる。それでも彼は鈍感じゃないから、真実に気付いてしまうだろう。
「確かにな」玉緒が小さく顎を引く。「わかった。……お前が官人になる道を潰さないよう、俺からも頼んでおこう」
「ほんと?」
思わず素っ頓狂な声を出すと、彼は驚いたように眉間に皺を寄せ、頷きながらも、私からまた距離を取った。
「放っておいて、またお前と迅が喧嘩したら面倒だしな……」
「……その発言は聞かなかったことにしよう」
「そうしておいてくれ」
玉緒は薄く笑った。それから、まだ混乱しているらしい迅に近寄り、その背中を押すようにして脱衣所を出て行く。
「玉緒、これはどういう――」
「はい、はい、俺から説明しますんで。下女たちに変態だと思われたくないんなら、さっさと部屋に戻りましょう」
「何。俺のどこが変態だと言うんだ」
「怒るのも後でお願いしまーす」
――いや、だから、そんな態度でいいのか。
玉緒は軽薄な調子で迅の背中をぽんぽんと叩き、そのまま廊下へ出て、すぐさま脱衣所の扉を閉めた。
扉が閉まった途端、あわあわと慌てふためいていた下女たちがわっと私の周りに寄ってくる。伽藍だけは離れた場所で衣服の準備をしていた。
「月予様! どういうことなんですか?」
「迅皇子に言い寄られてたんですよね?」
「元からそういう御関係だったんですか?」
矢継ぎ早な質問だ。両目がきらきらと好奇心に輝いている。女性というものはこの手の話が好きだ。――しかし、その目の奥に、何やら不安のようなものが見えた。
「月予様は姫君になられるんですか?」
下女のうちの一人がそう聞きながら、息を呑んでいる様子を見せた。
――あぁ、なるほど。
私はわざとらしいほど、にっこりと満面の笑みを浮かべた。
「迅皇子は私の傷を気にかけてくださっただけですよ。言い寄られてなんかいないし、ましてや恋愛関係なんかじゃないです」
そういうと、下女たちは一様にほっとしたような顔になった。
迅と関係があるのなら、いずれは姫、あるいは皇后になる可能性があるということである。まさか、そういう人物相手に嫌がらせの片棒を担いでいたとなればとんでもない事態だ。だからこそ、下女たちは慌てたのだろう。
一方で、ある意味鈍感な伽藍は、不思議そうな顔で他の下女たちを見ながら、手拭を持って私に近づいてきた。
「さぁ、月予様。御髪を拭きましょう」
「そういえば、伽藍、どうしてここにいなかったの?」
「お召し物を間違えていたので、取り替えに行っておりました」
「そうなの……」
それならば仕方がない。私は溜息を吐いて、鬘が外れないように頭を押さえた。
*
「――それをお前が何故知っている?」
迅の部屋に戻り、ひとしきり事情説明を終えた後、しばらく黙っていた迅が、ややあって口にした言葉はそれだった。いつになく機嫌の悪そうな声に、俺は肩を竦める。
「まぁ、色々ありまして」
「色々?」
迅の目が細まり、俺を睨む。
「あなたに対して隠し事をしていたのは申し訳ありませんが、そう易々と口に出来る話でもありませんから……」
「そんなことはわかっている」迅が吐き捨てるように言った。「それで? お前はどうしてそれを知ってたんだ」
言葉に棘が混じっている。一体、何に対して怒っているのだろう。
迅は卓に片肘をつき、その手で自らのこめかみを抑えながら、ぎろりと俺を睨んでいる。
「……見ればわかりますよ」
「見れば?」
「怪我の手当てをする時に服を脱いでもらったので。さらしを巻いてましたけど、見れば分かります」
「……それで?」
「それで、って、それだけですけど」
すると、迅は長い溜息を吐いた。怒りを無理やりに抑え込んでいるような、そんな雰囲気だ。彼はしばらく俯いた後、ぱっと顔を上げた。
「わかった」
彼はそう言い、立ち上がった。寝台の垂れ幕を引き、そこに腰かけてから、もう一度俺の方に視線を投げる。
「お前はあの女をどう思ってる?」
――あの女?
咄嗟に誰の事かわからなかった。ぱちぱち、と瞬きしてから、月國のことかと合点がいく。女性だとはよくわかっているのだが、はっきりと「女」と言われると何だか違和感があった。
「どう思うって……信用していいと思いますよ? 迅だって、女だからって官人の位を奪えとは言わないでしょう。あなたはもともと身分や生まれの違いを好かれないんだから――」
「そんな当たり前のことは聞いてない。お前自身の話だ」
「俺自身の話?」
素直に聞き返すと、迅は驚いたように目を丸くした。それから、弱ったように眉尻を下げ、ぱかぱかと口を開閉する。情けない顔だ。思わず笑ってしまいそうなのを堪えながら、俺は首を傾げた。
「何ですか?」
「お前……こう、ピンとこないのか?」
「はい?」
「……男と女の間で、どう思ってると聞けばそういう話だろ」
「――あぁ」
駄目だ。笑いが止まらない。思わず笑ってしまうと、迅はムッとして唇を曲げた。
「何だその顔は」
「いや、意外な話だったので。どう思ってるって、そりゃあ――」
――言葉が続かなかった。
「――どう思ってるんでしょうね」
聞き返すと、迅はありえないものを見たような顔になった。
「私を馬鹿にしてるのか? その回答は」
「違いますけど……」
「……まぁいい」
迅は溜息を吐き、寝台に身体を投げ出す。眠るつもりなのだろうか。迅はこっちを見ていないが、俺は頭を下げ、部屋を出て行こうとした。扉に手をかけた時、迅は低い声で言った。
「玉緒。私は、月國が女で良かったと思っているぞ」
振り返る。迅は寝台に倒れ込んだままで、扉の位置からではその表情など見えなかった。
「……どういう意味ですか? それ」
聞き返したが、迅は何も答えなかった。
胸の奥がざらざらとするような妙な感覚がしたが、それが何なのか俺にはわからなかった。
*
部屋に戻り、寝る前に読書をしていた時、扉を叩く音がした。
――玉緒か迅かな。
そう思いながら、私は返事をした。扉を開けて入ってきたのは、なんと李燕だった。
「李燕、どうかしたの?」
本を卓の上に置き、私は椅子から立ちあがった。李燕はにこりと微笑み、後ろ手で戸を閉める。
バタン、と扉が閉まる音が、やけに大きく聞こえた。
「ちょっと、月予サンに会いたくなってしまいまして」
李燕は微笑んでいる。ちょっと肩を竦めておどけてみせる様子は、いつも通りに見えた。
「そうなの。今ちょうど、あなたから借りた本を読んでいたのよ。あ、よかったら座って?」
空いている椅子を示すと、李燕は微笑みを浮かべたまま、卓に近づいてきた。
そして、卓の上に置かれた蝋燭の火を、ふっと息を吐いて消した。
――え?
部屋がたちまち暗くなる。光源は窓から差し込む月光だけになった。
李燕の笑みが月光に照らされている。彼の伸ばした手が私の頬を撫でた。




