第二十四話 臆病者
春になったとはいえ、朝の空気はまだまだ冷たい。
朝餉を食べ、散歩代わりに屋敷内を歩き回る。庭に目を向けてみれば、桜の蕾は今にも開いてしまいそうだった。花立の試は一、二週間もすれば行われるだろう。あんまり遅れると、次の初品たちが仕官してくる時期と被り、面倒なことになる。武たちに毒を盛った犯人が分かれば、すぐに再開されるはずだ。
しかし、三品を殺した犯人も、武たちに毒を盛った犯人も、まだ手かがりが掴めていないという。ゆゆしき事態だ。
「あら、おはよう、月予さん」
いやに刺々しい響きの声がした。ぎょっとしながら振り返ると、やっぱり、そこには祥華が立っていた。一日寝込んでかなり調子を取り戻したらしく、顔色はすっかりよくなっていた。しかし、私を見る目に込められた憎悪は険しさを増している。
挨拶だけで見逃してはくれないか、と思ったが、祥華は冷たい目で私をじろじろと見ている。何か文句をつけるらしい。一昨日、私が反抗したばかりだというのに、態度を変えるつもりは微塵もないようだ。
朝から嫌味を言われるのはさすがに気が滅入る。また反抗してこの家を追い出されるのは困るから、我慢はしなければいけないが、辟易とし過ぎて悲しくなった。
「――お母様」
そんな時、鈴を転がすような声をした。見れば、祥華の後ろ、廊下の先から吉祥が歩いてきている。
彼女は私に気付き、困ったような笑顔を浮かべた後、私を背中に庇うようにして祥華の前に立った。
「ご気分は良くなられたのですね。お暇でしたら、お茶でもいただきませんか?」
「お前、城へは行かなくてよいの」
「今日はお休みなの。久々にゆっくり話しましょう」
吉祥が気を遣ってくれているのがわかった。彼女は後ろ手を私に振り、行って、というように示してくれる。私は二人に小さく頭を下げると、足早にその場を去った――助かった。
あてどなく廊下を彷徨っていると、ふと、前方に見慣れた人影を見つけた。玉緒と迅だ。
「おはようございます」
声をかけながら近づくと、迅の両肩がびくっと大きく震えた。彼は慌てたように私を振り返る。
「つ、月國か。おはよう」
「月予です」
訂正すると、迅は一瞬意図を掴めないような顔をして、僅かに首を捻った。それからすぐに合点が掴めたのか、あぁと頷いてみせる。
「そうだったな」
「何だかぼうっとしてらっしゃいますけど、朝、弱いんですか?」
「そういう訳じゃない」
彼はそう答えながら、大きく溜息を吐き、自分の首筋を揉む。どことなく眠そうだった。
「もしかして、朝早くから起きて本を読まれてたとか? ちゃんと寝ないと駄目ですよ」
「いや、それはしていない。ただ、寝つきが悪かったんだ」
「興奮してたらなかなか眠れませんもんね」
何気なく相槌を打つと、彼はぎょっとしたように目を丸くした。
「興奮などしていない。何を言い出すんだ、お前は」
「え? いや、迅皇子、昨晩遅くまで本を読んでらっしゃったでしょう? 頭を使うと興奮してしまって、なかなか眠れないものですよ」
「は? そうか――あぁ、そうか。そうだな。その通りだ」
迅はぶつぶつとそんな言葉を繰り返す。視線も泳いでいるし、明らかに様子がおかしい。
何だか心配になって、隣に控えている玉緒の方を見ると、彼も口をぽかんと開けて迅を見ていた。私が視線を送ったことに気付き、玉緒はこちらを見る。首を傾げてみると、彼はわずかに首を横に振った。
「私は部屋に戻る」迅はいきなりそんなことを言い、私の肩をぽんと叩く。「じゃあ、また」
そして、そのままふらふらと歩き、すぐ近くの扉を開けて部屋の中に戻っていく。城に戻らなくていいのだろうか。もしかして、体調でも悪いのかもしれない。
置いていかれた玉緒は、相変わらず呆気にとられた顔をして扉の方を見ていた。間抜けな表情である。しかし、私も負けず劣らずの間抜けな顔をしている自信があった。
「……迅皇子、どうかしたのか? 何だか様子が変だけど……」
「わからん」玉緒はぶんぶんと首を横に振った。「あんな迅は初めて見た」
「風邪でも引いたのかな」
「夜更かしするからだな。後で薬でも持って行こう」
「大事な御身だから気を付けてもらわないと。私が薬を貰ってこようか?」
「いや、俺が行く」
玉緒はそう言って歩みだそうとして、ふと気が付いたように私の顔を見返した。それから、不意に微笑みを浮かべてみせる。
「今日はどうするんだ? 本でも読んで過ごすのか?」
「え? あ、あぁ。後は、いつも通り李燕と話したりしようかなと思ってるけど……何をニヤついてるんだ」
「ニヤついてるとは失礼な話だ」
玉緒は肩を竦め、それから私の頭を軽く撫でた。ぽんぽん、と柔らかく叩かれるような感触だった。
「何だか変な感覚だ」
「変な感覚?」
「拾ってきた猫が、家に慣れ始めてるのを眺めているような感覚だ」
「それは、あれか? 私が猫で、玉緒が飼い主か?」
「感覚の話をしてるだけで、別に誰がどうとかいう問題じゃないさ」
「誤魔化したな?」
「いや?」
玉緒は素知らぬ顔をして手を引っ込め、軽い足取りで廊下を歩いていく。
飼い猫呼ばわりされたのは癪だが、追いかけて文句をつけるほどでもないだろう。私はふんっ、と鼻息を鳴らすと、廊下を逆方向に歩いて行った。李燕と雑談でもしよう。彼と話すと落ち着くし、知的好奇心が満たされる。
*
李燕の鳳凰国の話は面白い。三十代にして他国に渡り、活躍していることもあって、彼自身の話も信じられないほど面白かった。さらに、建築家の視点からみる鳳凰国や玉龍国の違いなども聞いていて飽きることがなかった。
李燕の部屋でいつまでもいつまでも話していたが、やっと沈黙が訪れたのは、日が暮れ、夕刻になった頃だった。もう何杯目かになるお茶を飲む。半日も絶え間なく話しているので、たまにお茶を注ぎにくる伽藍でさえ、呆れたような表情を垣間見せていた。
「……そういえば」
李燕の部屋の窓から差し込んでくる橙色の光を見ながら、私はふと思い出したことを彼に尋ねてみる。
「玉緒は第一皇子の護衛だったの?」
尋ねてから、私はハッとする。
「あ、ごめんなさい。李燕はそういうの、あんまり詳しくないんだっけ」
すると、彼はくるくると首を横に振って見せる。眼鏡の硝子が橙色の光を反射している。
「この間、下男の人に詳しく聞きました」
「そうなの?」
「はい」彼はにっこりと笑う。「月予サンが知りたがるかなと思って」
「あなたって本当に良い人ね……」
私は玉緒の家では、祥華を筆頭に、あまり歓迎されていない。だから、下男や下女とはゆっくり話も出来ないのだ。伽藍は別だが、彼女はあんまりものを話さない性格だ。
李燕は眼鏡を押し上げ、その奥の目を悲しげに細ませながら言った。
「化野の家は、昔から皇帝の一族をお守りしてマス。皇帝のお子サン……皇子たちが成長したら、専属の特別な護衛を付ける為の試験を行うそうです。それで、迅サマが十歳、玲サマが十二歳の時に、その試験は行われたそうです。その試験は、主に武力を試すもので、最低限の、知識、キョウヨウも試すそうです。十八歳以下の化野家の人間ならみんな受けられるみたいで」
李燕は、ぽつぽつと記憶を辿りながら話していく。彼は記憶力がなかなかに良い。
「その試験は、フダン、宗家の人が一番の成績らしいです。だから、いつも宗家の人が皇帝のお子サンの護衛になります――それが、今回は、十二歳の玉緒サンが一番、だったそうです。宗家の本当の子供、えっと……チョッケイ? 直系の子供、がお二人いて、それが十五歳と、玉緒さんと同じで十二歳の子供だったんですが、その十五歳のお兄サンを抜かして、玉緒さんが一番だったと」
宗家の若い人間、といえば、血気盛んな雪平と、一度だけ会ったキザな雅人を思い出す。もしかして、直系の子供とは、あの二人のことだろうか。
「ハジメテ、分家の人間が一番になったらしくて。みんな驚いたそうです。その試験で一番だったから、玉緒サンは第一皇子、玲サマの護衛になりました。しかし……」
「……宗家に嫉妬されて、家を焼かれた?」
李燕は頷く。
「みたいです。宗家と言っても、直系なのか、宗家に味方をしている、宗家派閥の人間がやったことかはわかりませんが。――第一皇子の護衛となれば、皇帝の護衛になる可能性がありますから。そしたら、宗家と分家の関係がひっくり返りマス。だから宗家派閥の人タチは嫌がったみたいですけど……家を燃やすなんてヒドイです」
彼は憂鬱そうに溜息を吐く。
「……それから、本当は玉緒サンは城を出て行くつもりだったんですが、祥華サンに猛反対されてそういう訳にもいかなくなって。板挟みになっていたところを、迅皇子が護衛にしてくれたらしいです。玉緒サンは迅皇子に感謝しているみたいです」
「そうなの」
感謝している皇子相手に、あの普段の態度はどうかと思うが。
「……それにしても、玉緒ってほんと臆病よね」
思わずそう漏らすと、李燕は驚いた顔をして私を見た。
「臆病ですか?」
「えぇ。李燕はそう思わない?」私は両肩を竦めた。「家が焼かれたのも、叔父さんが亡くなってしまったのも、玉緒のせいじゃないわよ。一方的にやられて、それで引き下がるなんて信じられないくらい臆病だわ。せっかく第一皇子の護衛だったんだから、堂々と、真正面から抗えばよかったのよ。うじうじしてるから、あんな風に祥華の尻に敷かれるんだわ。自分の矜持くらい自分で守らないと、貶められるだけよ」
そう言うと、李燕は耐えられないように笑い声を上げた。
「あなたは本当に独特の感性を持ってますネ」
「そう?」
「えぇ」
李燕は大きく頷く。
「強い女性は好きですヨ」
――強いのだろうか?
特別意識しているわけでもなく、常にそうやって生きてきたから、自分ではよくわからない。
――だって、自分が自分の矜持を守らなきゃ、他の誰が守ってくれるのよ。
私は首を傾げたが、李燕はニコニコと楽しそうに微笑んでいた。