第二十二話 女同士
「迅……」
玉緒は首を横に振り、刀を差しだすのを拒否した。迅は怒りに震え、彼を睨みつける。しかし、やはり玉緒が動かないを見て、今度は私を睨んだ。
「……お前は私を尊敬できないというのか」
「ええ」
頷いてやると――ふと、迅から激しい感情が、すとんと消えたように見えた。
彼は突然力尽きたように、悲しげな顔になると、そうか、と呟いて俯いた。
「……仕方のない話だな」
「はい」私は頷いた。「一番近くにいる人間さえ、大事に出来ないお方に、国民が大事に出来るとは思えません」
「月國」
玉緒が制止するように私の名前を呼んだ。しかし、それを迅が力なく首を振って止めた。
「いい。……正論だ」
迅はそのまま私たちの隣をすり抜け、廊下へ出て行った。ややあって、玉緒がその後を着いていく。
そして、後には私と吉祥だけが残された。
吉祥はしばらく押し黙った後、思い出したように、床に散らばった杯の破片を拾い始めた。白く細い指が鋭利な破片を拾い上げるのを見て、私もハッとする。
「気を付けて、怪我をするといけない」
私はそう言い、卓の上に置いていた桜色の手巾を手に取った。樹杏がおにぎりを包んで渡してくれたものだ。返す時間がないまま、ずっと借りている。
桜色の手巾は、表は柄がなかったが、裏にはうっすらと桜模様が描かれていた。それで破片を拾い上げ、盆の上に乗せながら、私は何か引っかかりを覚えた。
――桜模様?
どこかで見たことがある気がする。
「それ、玉緒から貰ったんですか?」
手巾に気付き、吉祥が私を見た。どこか緊張の残る声で、気を遣って声をかけてくれたのだとわかった。
「いや? 知り合いの女官から借りてるんです」
「あら、そうなんですか。桜は化野の家紋ですから、てっきりそうかと」
「あぁ。そういえば、玉緒もそんなことを言っていました」
玉緒の家に初めて来た時、教えてもらった。
桜が家紋とは羨ましいことだ。美しい花だし、天上にも咲いている。きっと誇らしいだろう。
破片を拾い上げると、吉祥が礼を言いながら、盆を持って立ち上がった。
「……皇子に、あんな発言をして、大丈夫ですの?」
いきなりそう問われ、驚いてしまった。
「……大丈夫、ではないでしょうね」
冷静になってみれば、第二皇子に「皇帝になる資格なんてない」などありえない発言だ。
城に戻してもらおうなんて魂胆は大潰れかもしれない――そう思うと、初めて背筋がヒヤリとした。
殺されるのはまだしも、天上への道を奪われ、実家に戻されるのは最悪だ。
とはいえ、最悪の事態を招いてしまいかねないことをしたのだけれど。
考えれば考えるほど、ぞっとした。しまいには落ち着かなくなってきて、気が付けば頭を抱えて唸っていた。
「あー、もう、玉緒の家にいる時くらいは、色々と我慢しようと思ってたのに……!」
それを見て、吉祥が溜息を吐く。
「確かに。皇子に対してこれなら、よく一週間も耐えたわね……」
「え?」
「何でもないですわ」吉祥は肩を竦める。「それより、あなたに言わなきゃいけないことがあるんです」
「言わなきゃいけないこと?」
はい、と吉祥は鈴を転がすような声で答え、盆を部屋の中央の卓に下ろすと、真剣な顔をして私に向き直った。
こちらが驚いていると、彼女は毅然とした態度で、私に深く頭を下げた。
「――申し訳ございません」
「えっ? 何が……」
「あなたに無礼な態度をとりました」
そう言われて思い出す。確かに、吉祥は私が香鈴を弄んだ犯人だと思い、私の首を絞めようとしたのだった。色々あって忘れていたが、とんでもないことだ。思い返してぞっとするものを感じながら、私は首を横に振った。
「友達が亡くなったんだもの、取り乱すのは仕方ないよ。ただ、私は本当に彼女とは初対面で……」
「存じております」吉祥は頭を上げずに答えた。「今日のご様子を見るだけでもわかりました。あなたは香鈴にあのような酷い仕打ちをなさるような人じゃありません。それに――」
「それに?」
吉祥はゆっくりと顔を上げた。その口元が優しく緩んでいた。
「あなたを信じてほしい、と可愛い女官にもお願いされましたので」
「可愛い女官……?」
尋ね返しながらも、一人、脳裏に思い浮かぶ姿があった。吉祥は頷きながら答える。
「樹杏という女官です。ご存知でしょう?」
「あぁ、知ってるよ。でもどうして樹杏が?」
「私があなた様に不利な証言を……香鈴を騙して弄んだのは月國様に違いないと表立って申し立てておりましたので。私に対して、あの人を悪く言わないでほしいと訴えてきたのです」
吉祥は遠くを見るように、目を細めた。
「月國様の助けにはならないとわかっているけど、あの人は自分を不当に悪く言われるのが嫌だったから、せめてそれだけは止めたい、と泣いていました」
「――樹杏」
友の優しさに胸が熱くなった。
心配をさせているかとは思っていたが、そこまで想ってくれているとは思わなかった。あの樹杏が。内気で、あまり表立って行動することのない、優しい樹杏が、私の為にそこまでしてくれたのだ。
どうしようもなく、励まされる気持ちがした。
「樹杏は馬鹿だな」思わずそんな言葉が漏れた。「樹杏のおかげで、あなたは私を信じてくれたのに、何が助けにならない、だ」
「……素敵なお方ですね」
「良い友達だ」
「そうではなく、あなたが」
吉祥は微笑んで見せた。今までになく、柔らかい笑みに見えた。
「私はそんな人間じゃないよ」
そう答えたが、吉祥は首を横に振り、相変わらず微笑んでいる。綺麗な人に微笑まれて見つめられると、同性でもそわそわしてしまう。
「あー……その、香鈴さんとは仲が良かったの?」
心地悪さに話題を変えると、彼女は目を丸くし、それから小さく頷いた。
「えぇ、共に城へ入りました」それから、彼女は眼を細めた。「本当に良い子でした。父上が倒れてから、休日も遊びに行ったりせずに、ちょっとした内職をしたり、家の用事をしたりとよく働いておりました。幼い弟の事ばかり考えていて……」
吉祥は沈痛そうな溜息を吐き、目を伏せる。
「良家の恋人が出来たと聞いて、嬉しく思っていたのに、まさかこんなことになるなんて……」
「そういえば、迅皇子から、最近になって明るくなったとかいう話を聞いたんだけど、それは?」
「詳しくは教えてくれなかったんですが、一度別れて、またよりを戻したみたいです。でも、」
何かを言おうとして、吉祥はハッと口を噤んだ。気まずそうに視線を泳がせるのを見て、私は違和感を覚える。
「どうした?」
「いえ……」
「何か気付いたことがあるなら、何でもいいから教えて欲しい。香鈴さんの本当の恋人がわかれば、彼女を殺した犯人もわかるかもしれない」
「そんな大したことではないんですが――何だか奇妙な気がして。というか、わざとらしい、というか。こういうことを考えたり、口にするのは香鈴に失礼かなと思うんですけど」
吉祥は本当に申し訳なさそうに眉をひそめた。
「相手がやたらと歯の浮く台詞を言ったらしくて。香鈴は喜んでたんですけどね。付き合いたての恋人が紡ぐ言葉ならわかるんですけど、一度捨てた相手にそんな優しい言葉をたくさんかけるものなのかな、と思うと何だか不思議だったんです」
「彼女をさらに好きになってしまったから、よりを戻して、そういう言葉をかけたんじゃ……?」
「私もそう思おうとしたんですけど、聞いてるこちらが恥ずかしくなるくらいの甘い言葉だったので、あんまりにもわざとらしくて。だから、また捨てられるんじゃないかなと思っておりました……それで済めばよかったのに、こんなことに……」
吉祥はそう口にした後、ぎゅっと唇を噛んだ。
「香鈴に忠告しておくべきでしたね」
自分を責めているらしい。吉祥も優しい性格のようだ。香鈴が亡くなったのは、決して吉祥のせいではないのに。
「幸せな友達に水を差すようなことはできないよ。仕方がない」
「そう言ってもらえると嬉しいですけれど」吉祥はわずかに表情を緩めた。「でも、私が忠告しておけば、と考えてしまいます」
「自分を責めたらいけないよ。天国の香鈴さんも気を病んでしまう。悪いのは彼女を騙した男だよ……まだ、その恋人が犯人だと決まったわけではないけど」
香鈴の恋人が、香鈴に私の名前を言わせ、毒殺したとは限らない。けれど、ここまで騒がれても、香鈴の恋人だと名乗り出てこないのだから、何らかの関連があるのは間違いない。
「犯人じゃなくても大馬鹿者には違いありませんわ」少しだけ明るい声で、吉祥が言った。「あんなに良い子を一度は捨てたんですもの」
「そうだな」
私もつられて笑った。
「男には、そういう女の子の本当の素晴らしさというものがわからないのかな。私の友達……樹杏もとても良い子だけど、変な奴しか周りに集まらなくて困るよ」
「そういうものですわね。優しくて、私が結婚してしまいたいくらい良い女の子たちは、何故だか、男運がよくないですわ」
「全くもって同感するよ。でも、いつかは良い男と出会えるはずだと私は信じているし願っている。……のに、何故かダメ男ばかりが良い子に近づくんだよなぁ」
「いずれは良い男もその良さに気付きますよ。ただ、きっと、そんな良い男の数が少ないんだわ」
「わかる。全く、男として城に入っているけど、樹杏に薦めたいくらい良い男というのが全然いなくて。私自身の出会いの運がないのかもしれないけどさ」
「良い男の方も、同じ悩みを抱えてるかもしれませんね?」
「かもしれないね」
「あなたが樹杏を幸せにして差し上げたら?」
「何を。私はこんな身なりだけど、流石に同性は好きになれな――……」
――あれっ?
私はぽんっ、と自分の口を自分の手で押さえた。
何だか、まずい失言をした気がする――久々の女子会話が楽しくて、思わず気持ちが高ぶってしまった。こんな会話、長期休みに蘭とするくらいだもの。とはいえ、非常にまずい。
そろり、と見ると、吉祥はぽかんとした顔で私を見ていた。