第二十一話 資格
――たくさんの事件が起きているといっても、城での行事は変わらずに行われる。
今晩は玉葉殿で皇家の人間も出席する、高貴な人間による食事会が行われる。毎年、春に行われる会だが、いくら何でも殺人事件が解明していないのに、そんな立派な方々を一つの建物に集めて大丈夫なのだろうか。しかも、玉葉殿は雲間にある。
この集まりの前に、玉緒の謹慎が解けて良かった……と思いながら私は晩餐を運んでいた。
「吉祥様」雲間で働く女官が声を掛けてくる。「このお酒はどちらに置きますか?」
「ありがとう、それは奥の座席に置いて頂戴」
「わかりました」
雲間の女官たちはよく働く。皇家に関わる仕事が出来るのがありがたいからかもしれない。
くるくると目まぐるしく働いていると、あっという間に休憩の時間になった。
庭に出て、うんと伸びをする。桜もそろそろ開花しそうだ。
開きそうな桜の花を眺めていると、ふと、先ほどまで働いていた玉葉殿の方から騒ぎ声が聞こえてきた。耳を傾けてみれば、何やら女官同士で言い合いをしているらしい。今晩、めでたい場となる玉葉殿で言い争いとはあまり良いことではない。官人にばれたら嫌味を言われるか、もしくはこっぴどく叱られるだろう。
私は気が滅入りながらも、玉葉殿に駆け戻った。
「どうしたの、何を騒いでいるの?」
玉葉殿の入り口付近に、女官たちは集まっていた。言い争いをしている片方がよく見知った顔で、驚いてしまう。
「あななたち、一体何をしてるのよ。玉葉殿で言い争うなんて恥ずかしくないの?」
思わずそう尋ねると、天上で共に働いている女官たちが、さっと顔を蒼くしながらも、彼女たちに単身で向かい合っている、一人の女官を視線で示した。
どうやら、天上の女官たちと、この雲間の女官の一人が言い争っていたらしい。
その女官は、真っ赤な顔をして、必死で涙を堪えているようだった。女官服を両手でぎゅうと掴みながら、こっちをじっと見ている。
「吉祥様ですか?」
いきなり名前を呼ばれて驚いた。
「え、えぇ、そうだけど……」
すると、彼女は人目も気にせず、いきなりその場に座り込むと、額を地面にこすり付けるようにして頭を下げた。そんな真似をされる覚えもなく、ぎょっとしてしまう。
「ど、どうしたの!?」
「吉祥様にお願いがございます!」彼女は必死な声で言った。「どうか月國――神楽月國様を悪く言うのはおよしくださいませ!」
――神楽月國?
意外な名前に驚いてしまう。彼女は私が驚いている事にも気付かず、額を地面にぶつけながら、何度も何度も頭を下げる。
「月國は女官を誑かし、毒を盛るようなお人ではありません! それどころか私どもが官人にいじめられて困っていると、いつだって助けてくれた、お優しい人です! あなた様は誤解してらっしゃいます……!」
「待って、落ち着きなさい、顔をお上げ、話ならいくらでも聞くわ」
何度も頭を下げる彼女の肩に手を置き、顔を上げさせた。彼女はついにぼろぼろと大粒の涙を流しながら、そのまま私の腕を掴み、必死な形相で懇願する。
「お願いです、月國を悪く言わないで」
「……あなたは月國の恋人か何かなの?」
すると、彼女は悲しげに首を横に振った。
「違います。あの人に何度も助けられている、ただの女官です」
「ただの女官が、一人の官人の為に、どうしてそこまで必死になるの」
「私がこんなことを言っても、月國の助けにならないのはわかってます」彼女は泣きながら言った。「でも……月國が悪く言われるのを放っておけなくて……だから、それだけでもやめてほしくて……」
私は何も出来ないんです、こんなことしか、と彼女は何度も繰り返し、わぁわぁと泣き始めた。
その様子を見ながら、周りの天上の女官たちが気まずそうに唇を噤んでいる。
「あなたたち、ここで何の話をしていたの?」
尋ねると、彼女たちは青ざめた顔でお互いを見やった後、小さな声で答えた。
「香鈴と月國の話を少し……」
おそらく、月國の悪口でも散々に言ったのだろう。
私は溜息を吐いた。すぐ横では女官がひたすらに泣き続けている。
――どうして誰も彼も、月國の肩を持つのかしら。
悪い方じゃないんです、と言っていた芙蓉の顔を思い出す。玉緒だって、ちっとも月國を疑っていないようだった。
「……あなた、お名前は?」
泣いている女官の背中を撫でながら、問うと、彼女はしゃくりあげながら言った。
「樹杏と申します。突然、失礼をして、申し訳ありません」
「いいのよ。樹杏」
私は微笑んだ。
「よかったら、神楽月國がどういう人間なのか、聞かせてもらえないかしら?」
*
私は朝から自室に籠っていた。今朝に玉緒が城へ戻ったらしいが、見送りの一つも出来なかった。気まずいかな、と思って見送らなかったのだが、いざ距離をとったら、さらに気まずくなった。吉祥の登場で言い争いも中途半端に終わったのだから、何もなかった顔をして見送ればよかった。家に置いて貰っている身で、見送りもしないなど、失礼が過ぎた。
何度も何度も溜息が零れる――もちろん、そもそもの原因である、祥華に反抗したことは少しも後悔していないが。
自室の卓に向かい、玉緒が届けてくれた本の続きを読む。いろいろ考えていても、本を読めばそれに夢中になれた。気が付けば、あっという間に昼餉も夕餉も過ぎ、夜になっていった。流石に、今日は弓を射りに行こうという気持ちにもなれなかった。
一体、いつになれば城に戻れるのだろう。窓を小さく開け、外を見る。夜風が柔らかく吹き込んでくる。みんな、元気だろうか。結月たちは来たる花立の試の為に勉強を頑張っているに違いない。樹杏は何をしているだろう。心配をかけていなければいいが。
また溜息が零れた。
その時、扉を叩く音がした。
伽藍かな、と思いながら、扉の方へ近づく。
「はい……」
軽く返事をしながら扉を内側に開け、私はぎょっとした。
扉の向こうにいたのは、――迅と玉緒だったのである。
迅はいかにも機嫌が悪そうに目を細め、あらぬ方向を睨んでいる。少しだけ頬が赤いのは、酒でも飲んだのだろうか。その後ろに控えている玉緒は、困ったように眉尻を下げながらも、こちらを伺うような目線を送ってきた。
迅とは「出てゆけ」と一喝されたきり会っていないし、玉緒とは昨晩揉めたばかりだ。あまりにも気まずい。
――ついに、私はこの家からも追い出されてしまうのだろうか。
「ええっと……」
「邪魔するぞ」
迅は私を突き飛ばすようにして、部屋の中にずかずかと入りこんでくる。その後に続いてきた玉緒が、ひょいと肩を竦めた。そして、迅には聞こえないように、小さな声で囁いた。
「悪いな。今、機嫌が悪いんだ」
その声の調子がいつも通りで、ほっとした。
「機嫌が悪いなら、どうして私の部屋に?」
「今の状態で叔母上と鉢合わせするとまずいからな」
そう言ってから、玉緒はハッとしたように私の顔を二度見した。
そんな顔をされなくても、流石に私だって、むやみやたらに喧嘩を売るような真似はしない。遺憾の意を伝える為に両腕を組むと、玉緒はより一層不安げな顔をした。何でだ。
部屋に踏み入ってきた迅は、そのまま窓枠に腰を下ろすと、片足もそこに預け、窓を大きく開けた。すぐそこに伸びている桜の枝を睨み、はぁと荒い溜息を吐いている。
「……殺してやりたい」
口を開いたかと思えば、飛び出してきたのはそんな乱暴な言葉だ。私はぎょっとして身を竦めたが、玉緒はふーと軽く息を吐き、片手を広げた。
「玲様は悪気があって仰ってるんじゃないですよ。あの方はあの方なりに本気でああ言ってらっしゃるんです」
「俺には、俺を嘲っているようにしか聞こえないんだ」
「迅、子供みたいなことを仰らないでください」
子供みたい、と言われ、迅は鋭い眼で玉緒を睨んだ。しかし、玉緒は困ったように首を傾げるだけで、その口元にはうっすらと笑みさえ浮かんでいる。迅は何も言わずに彼から視線を逸らすと、また窓の外を見やった。
怒っているようにも見えるが、酷く傷ついているようにも見えた。玉緒の発言にではなく、その「玲様」の発言に、だ。
「何があったんです?」
思わず尋ねると、玉緒がちら、と視線だけを向けてきた。しかし、彼は答えてくれるつもりはないらしい。
しばらく誰も何も言わなかったが、ややあって、迅が片手で自らの髪を掻き上げながら答えた。
「……お前が皇帝になった方がいい、と言われた」
私はそのまま続きを待った。しかし、迅はそれきり黙っている。
――もしかして、それだけなのだろうか。
「……あの、それでお喜びになられるならわかるんですけど、どうしてお怒りに?」
「兄がそう言ったんだ」
迅は、どこか遠くにいる者を睨むような目をして言った。
「兄は昔から口癖のようにそう言う。赤子を甘やかすような、優しい笑顔をしてな」
「玲様」というのは、第一皇子のことだろうか。
それでも、第一皇子に「お前が皇帝になれ」と言われて、何故怒るのだろう? 迅が皇帝になりたくないと考えているならまだしも、そういう風には見えない。
「昔は俺もそれを素直に受け止めていたよ。俺は兄よりも出来の良い人間なんだ、皇帝にふさわしいんだ、そう兄が認めてくれてるんだと思っていた」迅の声が次第に震え始める。「でも違った。兄は誰よりも――もしかしたら、皇帝である父よりも、さらに皇帝にふさわしい人間だった。どんな才能も、俺より兄の方が抜きんでていた。あらゆる点で、だ」
迅が怒りで声を震わせながら、静かな目で私を見やった。
「神楽明星も、兄には一目を置いていた。あの、才能を具現化したような、明星がだぞ」
怒りで震えている声に、僅かながら痛みが走る。迅は痛がっている。苦しんでいるのだ。
「兄は俺を弄んでるだけなんだ。ずっと上の方から、才能のない弟を見下ろして、馬鹿にしているんだよ」
迅が耐えられなくなったように目を閉じた。その手が小刻みに震えていて、彼は自らの手を自らで撫でるような動きをする。寒くもないのに、寒そうな手振りだ。
玉緒が気遣う様な声で、しかし、はっきりと言った。
「迅、何度も言いますが、玲様は本当にあなたを――」
「玉緒」突然、迅は鋭い声を放った。「兄を庇うのもいい加減にしろ」
それから、迅は血走り始めた眼で玉緒を睨んだ。
「――お前が兄の味方なのはとうにわかっていることだがな」
「……私はあなたの護衛です。そうやって誰でも彼でも敵にするのは、あなたの為になりませんよ」
玉緒は背筋を伸ばし、堂々と言い張った。その声音はまっすぐで、本気で迅を案じているのがわかる。しかし、迅の方は鼻で笑うだけだった。
「どうだか。元はと言えば、お前は兄の護衛だったくせに」
――え?
思わず玉緒を見たが、玉緒はハッと怯んだような顔をしていた。
「ですが、今は……」
「戻ろうと思えば、いつだって兄の護衛に戻れるだろう。兄の護衛なら、彼が皇帝になった時に恩恵にありつけるぞ。今のうちに戻っておくべきじゃないか」
はっきりと、玉緒が傷ついた顔をしたのがわかった。しかし、彼はすぐに表情を消し去り、何も答えなかった。普段の彼なら、場違いな軽口でも挟んでいきそうなものの、何かを堪えるような顔をして、唇を一文字に結んでいた。よほど、痛いところだったのだろう。それをそうだとわかっていて、迅はそこを突いたのだ。
痛い沈黙が落ちる。
そこに、軽く戸を叩く音がした。
「失礼します、お茶を……」
扉を開け、緊迫した様子に口を噤んだのは吉祥だ。彼女もまた家に戻って来たらしい。片手に盆を持っており、その上に三つの杯を並べている。玉緒が振り返り、ぎこちない笑顔を浮かべた。
「あぁ、すまん、もらおう……」
「――お前も恨んでいるんだろう」
迅が冷たい声でそう言った。玉緒がぴた、と動きを止め、迅を振り返る。彼は濁った眼で吉祥を睨んでいた。それは激しい怒りというよりも、投げやりな調子があった。
冷たい視線を向けられ、吉祥は驚いたような顔をしていたが、すぐに微笑みを浮かべ、首を横に振った。
「あなた様を恨むなど。お仕え出来るだけで光栄でございますのに」
「俺が皇帝になっていれば、お前も、お前の母も救われた」
吉祥は何かを答えようとして、ぱっと口を継ぐんだ。その目が素早く瞬き、彼女はそっと俯いてみせる。
傷ついている――玉緒も。吉祥も。
迅はまだ何かを言おうとして、口を開けた。
その前に、私は言った。
「救われた、って何? 今の吉祥たちの生活を否定するの?」
最初に飛び出したのは疑問だった。玉緒と吉祥がぎょっとしたような目で私を見る。振り返って見やれば、迅は怪訝そうな目をして私を見ていた。その顔を見ると、怒りがふつふつと込み上げてきた。
「玉緒にもそう。兄の護衛に戻れって何だ。自分を守ってくれている玉緒を否定するのか?」
「……誰に向かって口をきいている」
迅が眉をひそめる。私ははっきりと答えてやった。
「皇帝になる資格なんかない、馬鹿な皇子に向かって言ってるんだ!」
わずかな悲鳴が聞こえ、すぐ後ろで杯の割れる音がした。見れば、吉祥が盆ごと杯を床に落としたらしい。玉緒も、ぽかんとした顔で私を見ていた。
迅が言葉を失い、口を開けたまま、私を見つめている。
「――あなたが兄に劣等感を感じているのか何なのか知らないが、だからって、玉緒や吉祥に当たるのは間違ってるだろう。自分を守るのと、人を傷つけるのとは違う。あなたには優秀な兄などいなかったとしても、皇帝になる資格なんかない!」
迅が窓枠からこちら側に飛び降りた。そのまま、玉緒に片手を差し出す。
「ここで叩き斬る。刀を寄越せ、玉緒」