第二十話 従妹
「玉緒」
玉緒の目はどこまでも冷たかった。彼は、地面に泣き伏せっている祥華に近づくと、その肩に手を置く。
「叔母上、落ち着かれてください」
しかし、祥華はその手を振り払い、まるで赤子のように泣き喚いている。玉緒は諦めたように立ちあがると、背後で震えている下女たちを振り返った。
「叔母上を部屋へ連れて行って差し上げろ」
「は、はい……」
彼女たちはハッとして祥華に駆け寄り、何とか立ちあがらせようとしたが、祥華はそれにさえ抵抗している。しかし、数人が一斉に引き起こすと、彼女もゆっくりとだが立ちあがった。その顔は涙でぐしゃぐしゃになっており、髪もほつれ、まるで人が変わったように鬼気迫る様子があった。彼女はぎろりとした目で私と玉緒とを睨みながら、下女に抱えられるようにして裏庭を去っていく。
「月國」
玉緒が私の前までやってきて、低い声で言った。
「一体何があった」
「……祥華様が、下女の頭の上に林檎を乗せて、それを矢で射抜けと仰って……さすがに見過ごせなくて、つい」
それを聞いた玉緒は怪訝そうに眉をひそめた。瞳の冷たさは変わらなかった。
「だからって叔母上を刺激してどうする」
「だって、人の命を弄ぶような発言じゃないか」
「でも、お前が、出来ない、といえばそれで済んだ話だ。どうしてそれがこうなった。叔母上に何を言った?」
「あなたの行動はおかしい、と伝えただけだ」
私がそう答えると、玉緒は溜息を吐いた。斬りつけるような、嫌悪感に溢れた溜息だ。彼はかなり怒っているらしい。現に、私を見る眼に優しさも同情もない。
――置いてもらっている身で、迷惑をかけた。
それは申し訳ないのだけど、でも。
「――玉緒。祥華様に罪悪感を覚えているのかもしれないが、あなただって主人としての義務を果たすべきじゃないのか」
――怒っているのは、私とて同じことだ。
私がそう言うと、玉緒は驚いたように片眉を跳ね上げた。
「何だと」
「祥華様の発言に、下女たちがどれだけ怯えていたと思うんだ。それは今回の話だけじゃない。祥華様にお仕えしている下女の中に、一人、よくいじめられている女の子がいるのをあなたは知っているか?」
そう尋ねると、玉緒は勢いに気圧されたように半歩下がりながら、僅かに頷いた。
「知っていたらどうして放っておくんだ! 彼女を何だと思ってるんだ、あなたは!」
私はぐいっと前に歩み出て、玉緒との距離を詰めた。
「家の者が働きやすい環境を作るのが主人の役目だろ! そのご主人が不在なら、子息であるあなたが代わりに義務を果たすのが当然だ! それが何だ、逆恨みで叔父が亡くなったから、叔母があれだけ横暴な真似をしても黙って見過ごすのか? それで何を償ってるつもりなんだ! あなたのやってることは大間違いだ――えっ」
気が付いた時には、もう地面に倒れ込んでいた。地面で後頭部を軽く打ち、う、という僅かな声が漏れる。玉緒はその様子を見てハッとしたようで、すぐに手を差し伸べてくれた。
「……悪い」
玉緒に突き飛ばされて倒れたんだ、とやっと自分の状況を理解した。理解して、その差し出された手を勢いよく叩き払った。
玉緒は唖然とした顔で私を見ている。
私は玉緒の手を借りずに自分で立ちあがった。そして、彼の隣を通り抜けて屋敷に戻ろうとして――ふと、裏庭を驚いた顔で眺めている女を見つけた。
「……あの人」
天上で出会った女官、吉祥だ。
相変わらずの美しさが遠目でもわかる。雪のように白い肌、薔薇のように赤い唇。大きく凛と輝く瞳が動揺で揺れている。どうしてこんなところに吉祥が。
「……神楽月國?」
ぽかん、としたままの彼女が震える声で言った。
まずい――正体がバレた。しかも、天上の人間に。全身から血の気が引いていく。玉緒と喧嘩した時点で危うかったが、これで終わりだ。私はもう城に戻れない。せめて玉緒に余計な迷惑がかかりませんように。腹が立つが、それでも、恩人なのだから。
それにしても、どうして吉祥が玉緒の屋敷にいるのだろう。あまりにも間が悪すぎる。
そうやって考えていると、同じく、吉祥に気付いたらしい玉緒が、短く息を吐いた。
「吉祥」
「玉緒」名前を呼ばれた吉祥が、ハッとして駆け寄ってくる、「どうして神楽月國がこんなところにいるの? しかも……女装で」
そうか。彼女も私が女であることを知らないのだった。
その驚きに満ち溢れている顔を見ながら、そりゃ、思いがけない人間が女装して現れたらびっくりするよなぁ……と私は場違いに能天気なことを感じた。
どことなく引いているらしい吉祥に、玉緒は困ったように肩を竦めて言った。
「まぁ、色々あるんだ。月國のことは城には内緒にしてくれないか」
「でも」
「こいつはあの女中を殺した犯人じゃない。それは俺が保証する」
そう言われても、吉祥は納得がいかないようだった。疑惑の目で私を見てくる。
それにしても、一体どういうことだろう。
私は気まずさを覚えつつも、咳払いをしてから、玉緒に尋ねてみた。
「その、吉祥とは……何? どういう関係なんだ?」
「……言ってなかったか?」玉緒も少しだけ気まずそうに視線を泳がせてから、わざとらしいほど、普段通りの声で答えた。「吉祥は叔母上の娘、つまり俺の従妹だぞ」
「あぁ、そうか、へぇ、娘さん、で、いとこ…………え?」
吉祥が釈然としない顔で私を睨んでいる。
私といえば、飛びだしそうになった悲鳴を抑えるので、精一杯だった。
*
母の部屋から出ると、思わず溜息が零れた。
「吉祥様……」
私の傍に着いてきて、おろおろとしているのは下女の芙蓉だ。私が不在の間、またいじめられていたらしく、申し訳ない気持ちになる。
「ごめんなさいね、迷惑をかけて。もう今日は部屋に戻って良いわよ。ゆっくりおやすみ」
「で、でも」
「いいの。ありがとう」
「……ありがとうございます」
芙蓉は少しだけ両目に涙を浮かべ、ぺこぺこと深く頭を下げ、廊下を去っていこうとした。私も自室に戻ろうと踵を返したが、その前に芙蓉が呼び止めた。
「あの、吉祥様、」
「どうしたの?」
振り返れば、彼女は何かを恐れるような顔になりながらも、こわごわと言った。
「あの……月予様のことなんですけれど」
「月予?」
「お客様です、あの、お綺麗な方」
――神楽月國のことか。
確かに、綺麗だった。あれは何なんだろう。身元を隠すために女装をしているのだろうか。一瞬、玉緒がそういう趣味に走ったのかと思って驚いた。
私がそんなことを考えているとは知らず、芙蓉は必死な調子で言った。
「あの方をあまり責めないで差し上げてください……」
「あら、どうして?」
「悪い方じゃないんです」芙蓉は震える声で言った。「私が祥華様に厳しい言葉を頂く度、同情するようなお優しい眼でこちらを見て下さいました、今日の事も、私の為を思って怒って下さったのだと思います」
神楽月國が? ――信じられない思いだった。
玉緒はああいうが、彼が香鈴を誑かし、死に追いやったのではないか、と私はまだ考えている。それなのに、わざわざ女装までして、この家に転がり込んでいるのだ。その訳はまた後で玉緒に尋ねてみなければわからないが、そんな一筋に「悪い方じゃない」と言っていいほど容易い人間ではない。
きっと騙されているに違いない。芙蓉は良い子だから。
「わかったわ、芙蓉」とりあえず、私は微笑んだ。「でもね、厳しい言葉を『頂いた』、だなんて言わなくていいのよ。つらかったでしょう。本当にごめんなさいね」
「いえ……大丈夫でございます」
芙蓉はパッと顔を赤くし、深々と頭を下げ、逃げるようにして廊下を去っていた。
その後ろ姿を見届けた後、私も玉緒の部屋の方へと歩き出した。
神楽月國。
――友を失う悲しみはよくわかっているつもりだよ。私は誰かの友を殺すような真似は出来ない。
そう言った瞬間の彼は、確かに、優しい眼をしていたかもしれなかった。
「……玉緒」
戸を叩いて玉緒の部屋に入ると、彼は窓枠に腰を預けるようにして、窓の外を眺めていた。窓は開かれていて、まだ冷たさの残る夜風が頬を撫でる。
「吉祥か」彼はこちらを見ずに言った。「叔母上は?」
「何とか落ち着かれて、今はお休みになられたわ」
「迷惑をかけて済まない」
「それはこちらの台詞よ」
母の横暴は常々申し訳なく思っている。父が死んだのは決して玉緒のせいじゃない。それどころか、玉緒だって被害者なのに。
そう思って、俯いていると、玉緒が緩く溜息を吐くのが聞こえた。ゆっくりと窓から身を離すと、私に近づき、優しく頭を撫でてくれる。
「お前が気に病むことじゃない」
「……ありがとう」
私が顔を上げると、玉緒はそっと手を引っ込めた。その目が再び、窓の外の月に向けられる。
「玉緒、どうして月國を家に置いてるの? 迅皇子への反逆だと思われても仕方ないわよ」
「反逆も何も、あの人がそう命じたんだよ」
玉緒は呆れたように両肩を竦めている。
「俺もあの人も月國の身の潔白は信用していてね。まぁ、大人しく自宅謹慎をしててくれればよかったんだけど、家に引き込んだら、もう二度と城に戻れないかもしれない――切り捨てられるかもしれない、って月國が駄々をこねたから、あの人が余計な思い付きをして、こんな面倒くさいことになってる」
「だから、あなたにしては珍しく、事件の調査に積極的だったのね? ……本当に、訳が分からないわ」
「俺だって同じ気持ちだよ」彼は眉間に皺を寄せた。「本当にあの人は余計なことを……」
「そうじゃなくて。あなたも迅皇子も、どうしてそう月國を信用するのよ」
言葉に棘が混じっていたらしい。玉緒は驚いたように片眉を跳ね上げて私を見、それから首を傾げた。
「お前こそどうして、そう敵視するんだ?」
「知ってるでしょう。香鈴があの人に弄ばれたのよ。月國は知らないと言い張ったけど、そんなの、いくらでも言い逃れが出来るでしょう」
「あぁ、でも、本当に、あいつは香鈴と恋仲じゃないぞ」
「どうしてわかるのよ」
あまりにも自信を持って断言している。ムッと思いつつ聞き返すと、玉緒は何かを答えようとして口を開け、そして思い出したように口を閉ざした。そのまま可笑しそうな笑みを浮かべ、また窓の方へ踵を返して戻っていく。
「玉緒」
「悪いが教えてやれない、けど、絶対に恋仲じゃない。腹に赤子までいたんだろ? ありえないよ」
「やけに自信があるのね」
「まぁな」
玉緒は窓枠に腰かけ、苦々しそうな、それでいて可笑しそうな笑みを浮かべている。
――月國は男好きなのかしら。
そんなことを思いつき、私は慌ててかき消した。それだけは考えたくない。万が一、そうだとしたら、ここまで玉緒が自信を持っているのだから、玉緒と月國がそういう関係だという可能性が出てくるからだ……ぶるぶると身体が悪寒で震えた。
――いや、そんな、男に取られるのは、流石にご免よ。
玉緒は私のそんな心情なんて知らずに、窓の外を眺めたまま、呟くように言った。
「一週間か……月國にしてはよく耐えた方か」
「何が?」
「叔母上に逆らうのを、だよ」
玉緒は何かを思い出したように眉尻を下げた。自分の手を軽く上げ、感慨深げにそれを見つめている。そして、しばらくして、ぎゅっと拳を握った。
「玉緒……」
「吉祥も明日、城に戻るだろ?」
「え、えぇ」
「じゃあ、共に戻ろうか」玉緒は微笑んだ。「明日に備えて早く寝ることだ」
明日で玉緒の謹慎期間が終わる。
家の中に、月國と母だけを残していくのは心許ないが、それは仕方ないだろう。李燕もいることだし、何とかこれ以上、母を刺激しないで立ちまわってほしいものだ。
玉緒が私を部屋へと送る為、扉へ歩いていく。その背中を見つめながら、私はまた溜息を吐いた。
――女と寝室で二人きりでも、全く何にも思ってくれないんだから。
相変わらずのわからず屋だ。普段は迅皇子の頑固さを散々嘆いているが、自分のそういうところも、どうにかするべきだと思う。恥ずかしくって本人には言えやしないけど。
――本当に男が好きなんじゃないの、こいつ。
そんなことを思ってじぃとその背中を見ていると、彼は怪訝そうな顔をして振り返った。
「何だ?」
私は何も言わずに、とりあえずにっこりと微笑んでおいた。