第十九話 祥華
――玉緒の家に来て、一週間が過ぎた。祥華の嫌がらせに耐え続ける毎日で、今までのどんな一週間より、酷く長く感じた。
迅には、あれから一度も会っていない。
「――この腕輪は鳳凰国でもトテモ流行ってるものです」
李燕がそう言いながら、小箱から細身の腕輪を取り出した。銅色の輪に、真っ赤な色をした玉が通されていて、それを中心として小さな暖色系の色の玉が並んでいる。繊細で可愛らしいものだった。
「蜻蛉玉?」
「そうです」李燕はにこにこと笑う。「こう見えてとっても高価なんですよ。この鉱物が珍しくて。霊力で守られる、運が良くなる、とかいって、オンナノコたちがこぞって身につけてます」
「どこの国の女の子も似たようなことを考えるのね」
玉龍国にも同じような腕輪がよく売られているが、李燕の見せてくれた腕輪は非常に魅力的だった。単純な作りのものは、作者の感性によって出来が大きく左右される。小さな玉に刻まれた細やかな模様や、玉選びや配色の感性に舌を巻いていると、李燕がそれを私に差し出してきた。
「あげますヨ」
「え? でも高いんでしょう?」
「鳳凰からのお土産のようなものです。ドウゾ」
李燕は満面の笑みで私の手を掴み、私が断るのも無視して、そっと腕輪を通してくれた。自分の手首に、こんな綺麗な飾りがあるのが純粋に嬉しい。
「ありがとう」
私が微笑みかけると、李燕の方がずっと嬉しそうな顔をして頷いてくれた。
玉緒とも話せず、一人で本ばかり読んでいる私の、唯一の話し相手が李燕だった。鳳凰人と話すのが初めてで、あれやこれやと不躾に質問を繰り返しているのに、李燕はニコニコと、いつも笑顔で答えてくれた。常に笑っているのは月矢もそうだった。年は十ほど上だろうが、優しい彼に兄の姿を重ねながら、私は祥華の執拗な嫌がらせで疲れた心を、彼と話すことで癒していた。
――それにしても、いつまでこの生活が続くんだろう。
一週間。もうそれだけ経つのに、城からの連絡はほぼ無い。
結月や春孝、樹杏たちは元気にしているだろうか。私のことをきっと心配してくれているだろう。優しい仲間たちだ。
そして――武。
亡くすのにはあまりにも惜しい人。口は悪かったが、優しかった。大好きな同室だった。
あの四人で、馬鹿みたいに騒ぐことはもうないのだ。私と武が性懲りもなく口喧嘩をするのを、結月が困った顔で笑って、春孝がやんわり止めてくれることも、もうないのだ。
「月予サン?」
私が急に暗い顔をしたからか、李燕が心配そうに顔を覗き込んできた。私はハッとして顔を上げ、首を横に振った。
「ごめん、大丈夫よ。……もうそろそろ夕餉の時間ね。いつもありがとう、李燕」
李燕の部屋から出ようと椅子から立ちあがると、李燕はやっぱり優しい笑顔を浮かべ、私の為に扉を開けてくれた。
「僕の方こそ、いつも楽しいです。ありがとうございます」
――本当にいい人だ……。
胸に熱くなるものを覚えながら、頭を下げて廊下に出る。何だか今日は感傷的だ。
私は深呼吸して気持ちを落ち着かせると、足早に弓場に向かった。
玉緒の家の、弓場は、裏庭にある。表の庭とは違い、縁側など廊下から繋がる道がないため、わざわざ裏庭へやってきた人にしか見られない。もちろん、部屋の窓から覗き込めば見えるのだが、運良く、裏庭に面した部屋は物置部屋や使われていない部屋が多く、祥華にはまだ、弓を射てることは知られていない。
弓を引き、的へ矢を飛ばす。夕餉の前、外が暗くなる寸前に、一刻ほど弓を射るのが日課になりつつあった。
特に、武のことを思い出した日は、弓を射る手に力がこもる。
――月國、お前、天上人になれよ。
武が死ぬ前日に私に言った、あの言葉が脳裏から離れない。武が死ぬ直前に私の手首を掴んだ、あの感触が忘れられない。
――遠くから私の華々しい出世を見ていろ。そして、冥途の友に自慢して回るといい。
私が射た矢は的の中央を射抜いた。何とも言えない爽快感を感じた時、ふと、嫌な声がした。
「何をしてらっしゃるの?」
振り返れば、そこに祥華がいた。数人の下女も引き連れている。よくいじめられている下女の姿もあった。
祥華は桜柄の扇子で口元を覆い隠すと、目を嫌悪に細めてみせた。そして、眉間にぎゅっと皺を寄せながら言った。
「随分と乱暴な遊びをなさるのね」
祥華に会った時の対処法は、この一週間で随分とわかるようになった。
頭の中で何度も「玉緒に迷惑をかけてはいけない」と呪文のように唱えながら、へらへらした笑顔を浮かべる。そんな笑顔を浮かべる自分に吐き気がするのだが、玉緒に迷惑をかけてここを追い出されれば、城に戻る機会が遠ざかる。それだけは避けたい。
「昔から好きなんです」
せめてもの抵抗に、いつも、背筋だけはぴんと張りつめていた。あくまでも堂々と。言い返せないなら、せめて、何の痛みも感じていないふりをしていたい。それが、ここでの私なりの矜持の守り方だった。
私が微笑んでいるのを見て、祥華はいつも通り、汚らわしいものでも見たような顔になる。
彼女は冷たい目で私を見下ろし、はぁとあからさまに溜息を吐いた。
「弓を射るのは男のすることでしょう? なんて野蛮なの」
「えぇ、まぁ。でも、女にもやろうと思えばできることですから」
「流石ね」にこり、と祥華はわざとらしく笑う。「私とは考えが違うわ。一体どんな家でお育ちになられたのか気になりますわね」
「そうですね。考えはまるで違いますわ」
「男の遊びを身につけたら、男に好かれるとでもお思いなのかしら」
祥華は感嘆した様に大げさに手を叩いた。それに合わせて、後ろの下女たちがくすくすと笑ってしまう。いつもそうだ。祥華が何か言う度、彼女たちは同調して笑っている。集団の圧が、否応なく人の心を圧迫するのを知っているのだ――けれど、一人だけそうじゃない娘がいた。
よくいじめられている下女だ。彼女は、周りが笑う度に、少しだけ悲しそうな顔をして俯く。きっと性根が優しい子なのだろう。
その子に気を取られていると、祥華は私の反応が薄くてつまらなかったのか、より一層声音を強くして言った。
「余程真剣に練習してらっしゃるのね。そんなに気になる殿方がいらっしゃるのかしら? ええ?」
「いえ、男の為に弓を引いているわけでは……」
「でも、ほうら、お上手じゃないの」
祥華はわざとらしく扇子を横にし、それで傾いた太陽光を遮りながら、遠くにある的を見た。
――何か企んでいる。毎日似たような目にあっていると、彼女の挙動ですぐにわかる。
もとより、口を開けば私への嫌味しか言わない人だ。褒めた後には、褒めた分の貶しが待っている。
「ねーぇ、一度、その腕を見せてくださらない? わざわざ化野家にやってきてまで、弓の練習をしてるんですもの。誰かへの誘惑じゃないというなら、きっとよっぽどお好きなんでしょうね。それでよっぽどお上手なんでしょう。どうかしら」
私が外したところを、馬鹿にする算段なのだろうか。少なくとも、祥華の後ろにいる下女たちはそういう顔をして私を見ている。
――いいだろう。思う存分、真ん中を射抜いてやる。
かえって嬉しい申し出だ。反抗できなくても、これで驚かせるのは何の問題もないはずだ。多分。
「えぇ、喜んで!」
私が矢を持つと、驚いたのは、よくいじめられている下女だった。青い顔をして、あわあわと慌てふためいている様子である。私が外すことを心配してくれているのだろう。初めて会った時の樹杏によく似た反応だ。可愛らしいな、と思うと口元が自然と緩んだ。
私は彼女たちの視線を受けながら、弓を構え、的に向かった。太陽光が横顔に差す。眩しいが、もう慣れた。私は一心に的だけを見て、弓を引く手を離した。その直前に祥華が何かを言ったような気もしたが、そんなものはもう耳に入っていなかった。
私の弓から飛んでいった矢が、引き寄せられるように的の中央、先程射た矢のすぐ隣へ刺さる。何度打っても、外す気がしなかった。
振り返れば、下女たちがみんな驚いた顔をしていた。目を丸くし、ぽかんと口を開けて私を見ている。私が微笑みかけると、彼女らは罰が悪そうに視線を逸らした。ただ、あの下女だけは、どこか嬉しそうな顔をして私を見ていた。
ふと、祥華を見て、ぎょっとした。
彼女は悔しそうにするどころか、満足げに頷いていたのである。
「素晴らしいわね。こんなに腕のいい人は初めて見たわ!」
わざとらしい誉め言葉だ。かえって背筋がひやりとする。私は思わず愛想笑いを浮かべるのを忘れ、彼女を凝視してしまった。
彼女は私の視線を受けても微笑み続けており、そして、いきなり、傍らにいた、あの下女の腕を引いた。微笑みをたたえる表情と違い、その手つきは乱暴で、下女は痛みに顔をしかめている。
「私ね、一度、見てみたい芸があるのよ」祥華はまだ微笑んでいる。「人間の頭の上に、林檎を乗せて、それを射抜くという芸なんだけど。あなたほど弓の腕が立つなら、きっと出来ますわよ、ね?」
――この人は気が狂ってるんだ。
わかっていたはずなのに、改めてそんなことを思った。
いきなり腕を引かれた下女が、言葉の意味に気付いたのか、両目を見開き、恐怖に震えた目で私を見た。
「誰か、林檎を持ってきなさい」
突然、笑みを消し、祥華が冷たい声で命じた。
普段は祥華に同調している下女たちも、その命令には流石に身体を強張らせた。しかし、祥華はそれを許さず、彼女らを睨みつけながら言った。
「早く! それともあなたたちが土台になりますか!?」
ひっ、という喉の奥から洩れた悲鳴を上げ、祥華の一番近くにいた下女が、周りの下女を押し飛ばすようにして、屋敷の方へ駆けてゆこうとする――私は思わず叫んでいた。
「行くな!」
走り出そうとしていた下女がビクッと身体を竦め、立ち止まる。振り返る表情は驚きと恐怖に満ちていた。
「自分のしようとしてることを、自分でわかってるか⁉」私は彼女へ叫んだ。「あなたが林檎を持ってきて、私が矢を外せば、この子は死ぬんだぞ!」
私はそう言いながら、恐怖に震えている娘を背中に庇った。私に怒鳴られた下女は、それを聞いて顔を真っ白にし、その場に縫い付けられたように動かなくなった。
「何ですの、その話し方。はしたない」
祥華が呆れたように言った。
「――はしたないのはどっちの方だ」
私がそう答えると、祥華はその剣幕に身を竦めた。鋭く吊り上がっていた目を丸くし、彼女は驚いて私を見る。
「たとえ冗談だとしても、人の命を弄ぶような真似は許せない。夫が亡くなったか何だか知らないけれど、だからって、我が物顔で振る舞っていいわけがないだろ! 自分の行動を恥ずかしく思わないのか!」
――突然、頬に鋭い痛みを感じた。足元に祥華の扇子が落ちてゆく。顔を上げれば、彼女は扇子を振り投げた格好のまま静止し、血走った目で私を見ていた。
「な……な……なんですの、あなた、あなたになんか何もわからないのに、私から、全部奪おうとしてるくせに、何で……何であなたなんかに……」
「あなたから何かを奪うつもりはない。何度も説明したはずだ、私は玉緒の恋人でも何でもない。あなたが娘を玉緒と結婚させたいなら、いくらでも結婚させればいいさ。私には関係ない」
「そんなもの口ではいくらでも言えるのよっ! 申し訳ないだとか、罪は償うだとか、そんなものは、えぇっ、いくらでもね、言えるのよ! 口先だけなら、いくらでも!」
祥華が私に駆け寄り、襟を両手で掴んだ。想像よりずっと強い力だった。
「あなたにはわからない! 私にはもう何もない! 何もないことの恐怖がわかるの!? 見捨てないだとか、そんなもの、言葉なんか、もう要らないのよ! 信用できない! ほら、だって、ほらぁ! 現にあなたを連れてきてるじゃないの、私を見捨てないと何度も言うくせに、だったらどうしてあなたがいるのよ、捨てる為でしょ、あなたと結婚して、私も、あの子も、全部捨てるつもりなんでしょ、ね、わかってるわよ、だったらそう言いなさいよ!」
甲高い声でまくし立てている。私が何か言おうとしても、もう耳に入っていないようだった。彼女は片手を襟から離したかと思うと、いきなり私の頬を打ち付けた。そこまでの威力はなかったし、痛みも気にならない程度だったが、彼女は何度も何度も、右手を振り上げた。その手は頬だけでなく、鼻や、目も、めちゃくちゃに叩きつけてくるのだった。次々と顔を打たれていると、訳がわからなくなる。私は思わず祥華を突き飛ばしていた。
祥華は肩を押し出しただけで、あっけなく後ろへひっくり返った。土の上に転んだ祥華は、ぎろりと私を睨みあげてくる。その唇から洩れる怨嗟の声は止まらない。
「あなたなんか殺してやる! 殺して溝にでも捨ててやるわ!」
「祥華様、私はあなたから玉緒を奪いたいわけじゃない……」
「うるさいうるさいうるさい! 何を言っても無駄よ! 信じられないわ! あの人も――あの人も――」
突然、祥華はしゃくりあげた。発作でも起きたのかと思うほど激しくしゃくりあげ、彼女は地面に突っ伏し、わぁわぁと泣き始める。
「あの人も嘘を吐いたもの、死んだもの……」
あの人……とは祥華の、火事でなくなった夫のことだろうか。彼女は自分が汚れるのも忘れ、地面に額を押し付けて泣きわめいている。母くらいの年齢の女性が、まるで子供のように泣きわめいているのは、ぞっとするほど異様であったが、同時に酷く胸が痛んだ。
ふ、と同情心に似たものが沸き起こってきた、その時だった。
「――何をしてるんだ」
冷たい声がした。振り返ると、屋敷の方から玉緒が歩いてきていた。下女たちがサッと顔を青くし、玉緒の為に道を譲った。怪訝そうに眉を寄せて歩いてきた玉緒は、私と、泣き崩れている叔母とを見比べ、私を睨んだ。
「月國」
月予だろ、とは言えなかった。身体が凍り付いたように動かなくなる。
「刺激するなと言ったはずだ」
その声が、静かな怒りに揺れていた。