第十八話 宗家と分家
――何が「出てゆけ」だ! 腹が立つ!
第二皇子の命令を無視する訳にもいかず、私は部屋を出て、屋敷内を歩き回っていた。自分で言うのもなんだが、歩き回っているというより、暴れ回っているといった方が正しいかもしれない。怒りに任せて足を進める度に、ドン、ドンと物凄い音を立ててしまうので、通りがかった下女たちが驚いていた。
――それでも! 腹が! 立つ!
部屋を出た時は、要らない発言をしたのだろうと一抹の反省をしたものの、よくよく思い出してみれば、私は全く悪くないではないか。あんな大したことのない発言ごときで、あんな冷たい言い方をされ、部屋を追い出された。迅の方が大人げがない。
それほどまでに、触れてほしくない話題だったのか? とまた反省が首をもたげた。しかし、すぐに掻き消えた。第二皇子ならば王位継承の可能性がある、と言うことの何が悪い。馬鹿にしたのならともかく、優秀だと言ったのに。
部屋を出る前に一言何か言ってやれば良かった、と思いながら廊下を曲がろうとして――
「うわっ!」
誰かとぶつかった。こちらが勢いよく歩いていたせいで、ぶつかった拍子に相手の方が後ろへひっくり返った。向こうは随分とのんびり歩いていたようだ。
「済まない――じゃない、ごめんなさい! 大丈夫!?」
慌てて助け起こしてみれば、ぶつかったのは赤茶色の髪をした三十代くらいの男だった。顔を見れば、緑の眼鏡の奥の両目が小麦色だ……李燕という鳳凰人だ。
「李燕さん」
「アァ、月予サン。スミマセン、大丈夫でしたか?」
彼は独特の訛りでそう言いながら、身体を起こし、眼鏡を直した。
「私は大丈夫よ。あなたこそ……」
「平気平気!」彼はパッと笑顔になる。「頑丈だからネ」
底抜けに優しそうな笑顔に、苛々していた気持ちがふっと落ち着いた。
そして、思いついた。
「李燕さん、もしかして、今、お暇だったりしない?」
「暇ですヨ」
柔らかな笑顔に、こちらまで表情が緩む。
「ちょっと話を聞かせて欲しいんだけど……」
*
「迅皇子の王位継承の件?」
さっき玉緒と出会った縁側に彼を連れ出し、二人で並んで座りながら尋ねてみると、彼は不思議そうにその言葉を繰り返した。
「アァ……私はヨソモノですから、少ししかわからないですけど」
「それでもいいわ」
「第一皇子がとても優秀だそうで」
李燕は済まなさそうにしながらも、すらすらと説明してくれた。
「昔は迅皇子も皇帝の位を狙って、頑張ってたみたいです。ケド、大人になって、第一皇子サマとの実力差に打ちひしがれたとか。本気で皇帝になりたかった分、衝撃が大きかったらしくて……」
「あぁ……」
迅にとって、それはかなり辛いことだったのだろう。
女には道がない、と気付いた時の自分に重ね、少しだけ同情した。
――でも、少しだけ、だ。女は官人になれない、と八方塞がりだった自分に比べれば、迅の状況はまだ道が残ってるではないか。それこそ、王位継承はまだ先なのだから、卑屈になる必要はない。
やっぱり私は悪くないな、と結論付け、私は庭先に視線を投げた。
庭では桜の木が風に揺れている。蕾が少しずつ開きつつあった。
それを見つめていると、隣に座っている李燕が遠慮がちに言った。
「祥華サンのこと、大丈夫ですか?」
「え?」
振り向けば、李燕は心配そうな顔をしていた。
「色々とイヤガラセ、されてるんじゃないですか?」
「あ、あぁ。全然大丈夫よ」
「まわりの女の人たちも冷たいでしょ。伽藍サンはいつもアアだけど」
やっぱりそうなのか。思わず笑みが零れる。
李燕はやれやれと言いたげに首を横に振りながら、庭の桜へ視線を向ける。
「祥華サンの娘サン、とってもイイコだから、みーんな好きなんです。でも、だからって、アナタをいじめるのは違うと思いますネ」
李燕は真面目に怒ってくれているらしかった。素直な気持ちに触れると、それだけでずっと救われた気持ちになる。
そんな優しい李燕に、感謝の気持ちを告げようとした、ちょうどその時だった。
「あら、何してるの」
低く冷たい声だ。振り返れば、当の祥華がいた。機嫌が悪いのか、作り笑いさえ浮かべていない。汚いものを見るような目で私を見下ろし、ハッと鼻で笑った。
「愛しの玉緒と一緒じゃなくていいんですの?」
カチン、とくる。しかし、やっぱり、刺激はするな、という玉緒の制止の声が蘇る。
ふつふつと湧き上がる怒りを押し殺しながら、私は何とか微笑んだ。こういうのは性に合わなくて頭が痛くなる。
「あら、面白い冗談ですね。玉緒さんとは恋人ではございませんのに」
言い返す代わりに、クスクスと笑い声をあげてみれば、それがかえって祥華の癪に障ったようだった。彼女はキッと柳眉を吊り上げる。しかし、彼女が何か言う前に、李燕が毅然として立ち上がった。
「月予サンをいじめるのはよくないです」
祥華にとっても、それは意外だったのだろう。彼女は目を丸くし、いきなり反抗してきた李燕を見た。
「月予サン、玉緒サンの恋人じゃないと言ってます。玉緒サンもそう言ってました。だからいじめる必要もないし、そもそもいじめ駄目です」
李燕の声は、あくまで優しく諭すような口調だ。しかし、祥華はぶるぶると震え始めた。
「あなたもこの子の味方なの。あなたも私たちを見捨てるというのね」
声が異様に震え、高い。極度に興奮しているようだ。目も血走っているし、どこか神経質な恐ろしさがある。彼女は震えながら、引きちぎりそうな勢いで扇子を握りしめている。立ち上がった李燕も、その剣幕にはいささか驚いたようで、じりじりと後ろへ下がってきた。
「――叔母上、何してるんですか」
その時、玉緒の声がした。振り返れば、後ろから玉緒が廊下を歩いてきていた。迅はおらず、一人きりだ。
玉緒を認めた瞬間、祥華の怒りの矛先は彼へ向かったらしい。
彼女は扇子を床に叩きつけると、玉緒へ詰め寄った。そして、もはや何を言っているのか聞き取れない速さで、次から次へと玉緒へ文句を言いつけた。甲高く、聞いているだけで頭が痛くなるような声音である。それでいて、酷く責めるような、ねっとりとした嫌な響きもあり、どこまでも不快だった。
その言葉のほとんどが、「あなたは何も思わないの」とか「一体どういう神経をしているの」とか、ろくに中身を伴わないものだ。
しかし、玉緒はそれをじっと聞き、何も言わずに目を伏せている。
言い返せばいいのに、ただひたすらに受け入れている。
どうして――と疑問に思ったとき、手首を誰かに掴まれた。李燕だ。
「このスキに逃げましょう」
彼は小声でそう言い、私の腕を引っ張って立ち上がらせる。意外にも力強いと感じた。
「で、でも玉緒が……」
そう言いながら振り返ってみると、私たちがその場を去ろうとしていることに気付いた玉緒が、ちらりとこちらを見て、また目を伏せた。
居て欲しいのか、逃げて欲しいのかわからない。
私の戸惑いをよそに、李燕は腕を引いてくる。私はしばらく悩んだ後、叔母の悲鳴にも似た声に気が狂いそうになって、その場を逃げ出した。
李燕に腕を引かれて屋敷の廊下を進む。彼は少しずつ腕を掴む力を緩めながら言った。
「祥華サンは、旦那サマが亡くなったことを玉緒サンのせいにしてるんですよ」
「――え?」
「ここの前に住んでいた家、火事で燃えたらしくて。それで祥華サンの旦那サンは亡くなられたんです」
「火事で? でもそれがどうして玉緒のせいになるの」
「玉緒サンのせいで燃やされたらしいです」
――玉緒のせいで?
ぎょっとした。思わず立ち止まってしまい、腕が解け、李燕だけが前に飛び出す。彼は驚いたように振り返った。
「月予サン?」
「玉緒のせいで家が燃やされるってどういうこと?」
驚きのままに尋ねると、彼は悲しげに眉を寄せながら答えてくれた。
「犯人はハッキリわかってないみたいです。ただ、分家なのに皇子の護衛をすることになった玉緒サンに、宗家の人たちが嫉妬したとかどうとか聞きました。……私はその時の事は、よくわかりません」
家が燃えたから、李燕を呼んで屋敷を建てさせたのだろう。それより前の事を李燕がよく知らないのも当然だ。
鳳凰建築の建物は、玉龍国古来のものよりも火に強いといわれている。そんな説を思い出した。
「玉緒サンは叔父サンを亡くしたことで、責任を感じて、城から出てゆこうとしたみたいなんですが、残された祥華サンが猛反対して」
李燕は悲しげな声音で続けた。
「もう祥華サンには甥の玉緒サンと娘しかいませんから。玉緒サンにはぜひ皇子の護衛を続けてもらって、出来れば宗家から力を奪い取ったウエで、娘サンと結婚させたいみたいですネ」
「それ、玉緒を利用しようとしてるってこと?」
李燕は「そうともいえます」と頷いた。それ以外どうと言えるのだ。
しかし、あの祥華の様子はどこかおかしい。彼女も夫をなくしてから、どこか壊れてしまったのかもしれない。だからといって、あんな風に振る舞うのはいかがなものか、と思ってしまうのだが。
――それでも、玉緒が何も反抗せずに黙って受け入れていた理由が、何となくわかる気がした。あれが彼なりの罪滅ぼしなのかもしれない。宗家が嫉妬して火を放ったのは、玉緒には一切責任がないのだけど。
ずっと耐えてきた玉緒の努力を崩すわけにはいかないだろう。出来るだけ、叔母を刺激しないように努めよう、と私は心に決めた。
――とはいえ、腹立つものは腹が立つ。私に「出てゆけ」だなんて物申した迅にも、好き放題にふるまう祥華にも腹が立つ。我慢しなきゃいけないけど、腹は立つ。
その怒りを込めて、私は弓を射ていた。
「――ッ」
時刻は夕暮れ。もう少しで夕餉だからと伽藍が呼びに来るだろう。それまでの間、私はひたすら矢を引き、的に向かって射続けていた。
ひたすらに矢を射ていると、初めは怒りを込めていたものが、どんどんと無心になっていく。浄化されるような気持ちを感じながら、私は弓を射た。
どれくらい的を睨み続けていただろうか。ぴんと張った背中にわずかな疲労を感じた時、不意に声を掛けられた。
「随分と腕の立つ姫だ」
聞き覚えのない声だ。振り返ると、見知らぬ青年が立っていた。しかし、どこかで見たような気もする。彼は柔らかな笑みを浮かべてこちらを見ていた。少しだけ色素の薄い、こげ茶じみた髪と眼。肌は健康的な色で、よく鍛えているものの、けして太くはない。彼は真っ黒な官衣を着て、腰に刀を吊るしていた――化野の武人だろうか。
「どうもありがとう……」
わずかに警戒心を覚えながら、弓を下ろすと、彼は困ったように片手を上げた。
「済まない、邪魔をしたかな?」
「……あの、貴方は?」
「これは失敬」彼は両手を軽く打ち、わざとらしく会釈してみせる。「私は化野雅人といいます」
やっぱり化野の武人か。玉緒の屋敷内に入ってきているのだから、あまり警戒しなくても大丈夫だろう。
そう思いながら軽く頭を下げて返すと、彼は微笑みを浮かべたまま近づいてきて、私の片手を掴んだ。握手でもするのだろうかと思いきや、彼はすっと腰を折り、私の手の甲に唇を落とす――えっ?
「ちょっ、えっ、なっ……」
凄い勢いで顔が赤くなるのが自分でもわかる。片手を引っ込めると、彼は可笑しそうに笑いながら、片眉を上げた。
「美しき姫のお名前を伺っても?」
「あ……え……」
何だこの人。やばそうだ。果てしなくやばそうだ。というか、やばい。
恥ずかしさと気持ち悪さが交互にこみあがる。月予としての自分は、世間一般的に見て格好いい部類に入るだろう彼の行為に対し胸をときめかせているのだが、月國としての自分が心の中で阿鼻叫喚している。
混乱を抑えきれずに目を廻していると、雅人と名乗った武人は不思議そうな顔をしながら距離を詰めてきた。近い。思わず後ろに下がる。
「――雅人殿!?」
驚いた声が聞こえた。見れば、玉緒がこちらに歩いてきている。見慣れた顔を見て、ほっと安堵の息が漏れた。
「玉緒……」
呼びかければ、雅人はがっかりしたような笑顔を浮かべた。
「なんだ。玉緒の可愛い子か」
「雅人殿、こんなところで何を……」
「自分の屋敷をこんなところ呼ばわりするのはいかがなものかなぁ」
雅人は両肩を竦める。玉緒は急いで私たちの傍に寄ってくると、私を背中に庇うようにして、私と雅人の間に割り込んだ。
「来られるのなら、事前に仰ってください」
「そうつれないことを言うなよ」
「当たり前の事を言ってるんですよ……」
玉緒が呆れたように息を吐いた。しかし、その声はいつもより鋭く、本気で雅人を警戒しているのがわかった。玉緒の背中に庇われながら、私は身を固くする。顔を見られたが、まずかったか。城での事件の容疑者であり、自宅謹慎を命じられているはずの神楽月國が、玉緒の家にいると知られるのは非常に困る。
「彼女の事はご内密に頼みます」
玉緒が低い声で言った。雅人は、「へぇ」と眉を上げて見せる。
「どうして?」
「野暮なことを聞かないでくれますか?」
玉緒は間髪入れずそう返す。それを聞いた雅人が両手を上げた。
「おお怖い。お邪魔虫は立ち去るとしよう」
雅人はそう言い、踵を返す間際、ひょいと私を覗き込んで笑った。
「じゃあ、機会があればまた会おう、美しき姫君」
宣言の通り、雅人は手を振り、そのまま去っていく。彼が見えなくなるまで、玉緒は私を背中で庇ったままだった。
しばらくして、彼は大きく溜息を吐き、両肩を落とす。随分と疲れ果てているようだ。
「え……と、その、今の気障な人は誰だ?」
「宗家当主の長男だ。雪平の兄だよ」
「――えっ」
道理で見たことがある顔つきだと思った。
いや、重要なのはそちらではない。私はぎょっとしながら、玉緒の腕を掴む。
「それまずくないか!? 宗家とは仲が悪いんだろう、私がここにいることがばれたら、すぐに城に告げ口されるんじゃ……」
「月國だとばれてない……と思いたいが」
「流石に顔を見ればわかるよ」
「そうでもない」
玉緒がひょいと私の顔を覗き込む。
「化粧をして長い髪を結ってると、確かに美しき姫君だ。噛みつき癖のある問題児には見えない」
「それは褒めてるのか!? 馬鹿にしてるのか!?」
「雅人殿と顔を合わせるのは、初めてか?」
私が声を荒げたのに、玉緒は気にした様子もなく、あっさりと話題を変えてしまう。こうされると従わない訳にはいかず、私は渋々怒りを抑えて答えた。
「初めてだ。だから宗家だなんてわからなかった」
「初めてなら大丈夫だ。向こうもお前が月國だなんてわかってないはずだ……弟の雪平にだけは気を付けろ、ばれた瞬間頭から叩き斬られるかもしれない」
「この衣服じゃ動きづらいから、反撃しづらいな」
「そういう問題じゃない」
玉緒は軽く私の頭を叩いた。それから、ふぅと安堵の息を漏らして見せる。私を見る目が優しい。
思わず視線を逸らしていると、彼はふと的に気付いたようだった。今度は可笑しそうな笑い声が漏れている。
「流石の腕だな」
「あなたに言われても何も嬉しくない。まだまだ上達したいし。武人たちと比べれば、お遊び程度の腕なのかもしれないけど」
「いや、木の矢であそこまで射れるのは相当な腕だぞ」玉緒は心底感心したように言った。「武人と言えど、良い矢で練習してる奴は、現場では使い物にならないことが多いんだ。咄嗟の事だと、手入れのできてない矢で射る必要があるからな。良い矢で練習してると、良い矢でしか射れなくなる。お前はそこらの武人より上手いよ。見習わせたいくらいだ」
「そうなんだ」
褒められると素直に嬉しかった。何だか気恥ずかしく、私は照れ隠しの代わりに尋ねた。
「良い矢って、例えばどんなもの?」
「名のある家なら、家ごとに特注してるぞ。化野もそうだ」
「え、それ凄くお金がかかるんじゃないの? 矢って消耗品でしょ?」
「だから、分家ではほとんど飾り物だな。宗家とかは練習にも使うし、実際の現場でも持ってくる」
「随分と裕福だな……」
「皇帝家を守る一族だからな」
玉緒は自慢するでもなく、ただ事実を述べるように言った。もっと胸を張ってもいいと思うのだが。彼はそう言ったきり口を閉ざし、ぼんやりと遠くの方を眺めている。その横顔が夕暮れの橙色に染め上がっていた。
やっぱり私は悪くないな、と結論付けたのは、笑いどころかもしれない。