第十六話 痛み
玉緒はやれやれと言いたげに肩を竦めた後、ふと、真剣な眼をしてこちらを見た。
「……どうした?」
尋ねると、彼は何か言いあぐねたように口を開け、また閉じた。まぬけに見え、思わず笑ってしまう。
「何か言いたいなら言ってくれよ」
「……いや、どうしてお前は――」玉緒は目を泳がせる。「男のふりなんかしてるのかな、と思って」
「? そりゃ、そうしないと仕官できないし」
「女官じゃ駄目だったのか?」
「駄目だよ。れっきとした官人じゃないと」
「何でだ?」
玉緒は怪訝そうに眉を寄せながら、床の上で胡坐を掻く。短い黒髪が、開け放たれたままの窓から吹き込んでくる風に揺れた。
「いろいろ考えてみたんだけど、よくわからなくて。明星殿……父上に憧れたとか?」
あぁ、なるほど、そういう話か、と思った。私は後ろの寝台に背中を預け、足を伸ばしながら答える。視線が自然と天井へ向いた。
「憧れ、というのかな。小さい頃から、城の話を当たり前のように聞いてたからなぁ。父は滅多に家に帰ってこなかったし、私と兄の見分けがはっきりとは付いてなくてね。私たち二人を並べて、城の話をしてくれた――」
「ちょっと待て、兄とお前が見分けがつかないって、明星殿はそんな耄碌してないだろう」
玉緒が焦ったように口を挟む。何を言ってるんだろう?
「たまにしか帰ってこなかったもの。見分けがつかなくて当然だよ。母でさえたまに間違えた」
「そんなに似ているのか?」
玉緒が大真面目な顔をして、柳眉をぎゅうと寄せた。その不可解そうな顔を見て、あぁ、と合点がいく。
「双子なんだよ」
「……え? ……あぁ、なるほど」
彼は呆気にとられた顔をして、それからすぐに表情を緩めた。色々と納得したような顔で頷き、先を促すように私を見る。私はその様子に可笑しさを覚えながら続けた。
「当然のように城の話を聞かされるものだから、私も大人になったら官人になって、父みたいに活躍するんだって、ずっと思い描いてたよ。女は官人になれない、なんて誰も教えてくれなかったし――そもそも私が官人になりたがってるなんて、誰も思ってなかったからね。私は本気で勉強してたけど、母は、兄の真似っこをしてるだけだと思ってたみたいだ」
懐かしい。
女に道がないことなんて知らなくて、一心不乱に勉強していた。病気がちな月矢に代わって、彼のふりをして学校に何度か顔を出したこともあった。とても楽しい日々だった。
「……官人にはなれない、とはっきりわかったのは、お父様が死んだ時だった」
ぽろ、と零れた言葉は、思ったより掠れていて、暗かった。
「……明星殿が亡くなったのは、五、六年前じゃないか。それまで誰も教えてくれなかったのか?」
「流石に知ってたよ。知ってたけど、何とかなるんじゃないか、と漠然と思ってた。私が勉強していることを、お父様は止めなかったから。でも」ぽかんと虚ろに穴が開いた瞬間を思い出す。「最期に、お前を男に生んでやりたかった、て言われて、それで、やっと現実を見た……」
ひたすらに目指していたものが、どこにも繋がらないと気付いてしまった、あの感覚。
共に歩いていた月矢には、どこまでも広がっていく道があるのに。私より不真面目で、私よりずっと頭が悪かった、努力不足な学友にも、それは用意されているのに。
私が今まで必死で積み重ねてきたものは、一体何だったんだろう?
幼いころから積み重ねてきたものの上にしがみつきながら、ぐらりぐらりと揺れていた。崩れ去って絶望に落ちる寸前まで揺れた。
「――まぁ、結局、悲しいとか絶望とかよりも、めちゃくちゃ腹が立ってきたんだけど」
空気が重い。私は笑いながら、努めて明るく言った。腹が立ったのは本当のことだ。うじうじと悩んでいたのは数日の事で、時間が経つにつれ怒りが湧き上がってきた。
「男に出来て、女に出来ないなんて道理はないと思って。どうにかして官人になってやろうと、もっと必死になったよ。結局、病気がちな兄に道を譲ってもらって、今、ここにいるんだ……いや、ここにいちゃいけないけど。城にいないといけないんだけどな」
はは、と笑い飛ばすと、玉緒が「そうだな」と軽く相槌を打つ。声音から感情が読み取れず、彼に視線を移してみると、彼は意外にも、真剣な眼をしてこちらを見ていた。
真剣な眼、というよりも、どこか、苦しそうな眼だ。
その眼を見ると、心臓を鷲掴みにされたように、胸がぎゅうと痛んだ。
――どうして玉緒がそんな眼で私を見るんだ。玉緒の方が、ずっと苦しそうにも見える。
「……玉緒?」
そんな視線を受けて黙ってもいられず、おずおずと名前を呼ぶと、彼はそのままの表情で言った。
「無理に明るく振る舞う必要はない。……苦しかっただろ」
「……え?」
「ちゃんと官人になれて良かったな」
不思議な声音だった。優しくて、気遣うようで、それでいてその奥底は痛々しく、繊細であるような、軽く聞き流してはいけないような響きがあった。
私の動揺に気付いていないのか、気付かないふりをしているのか、玉緒はそれきり何も言わないで、不意に立ち上がると、開け放たれた窓の方へ歩いていく。
「……玉緒」ふと気が付いた。「あなたも似たような経験があるの?」
「どうしてそう思う?」
玉緒はこちらを振り返らない。口調も軽く、真剣な様子が消え失せている。あからさまなわざとらしさを感じた。わざと明るく振る舞っている。
「だって……」
言葉にしようとしたが、胸がまた苦しくなる。私は息を浅く吸い込みながら、何とか言葉を続けた。
「馬鹿だなって、女のくせにって、笑われて当然だと思ってたのに、あなた――」
――私より苦しそうな顔をするんだもの。
しかし、それを言おうとした瞬間、窓硝子が大きな音を立てて閉められた。振り返った玉緒は、窓硝子越しの月を背中に隠していて、表情が暗くて読み取れない。
「そろそろ部屋に送ろうか。疲れてるだろ、ゆっくり休め」
彼の声は平坦で、何を考えてるかわからない。
彼は今、どんな顔をしているんだろう。
今日書いた分が長かったので、二つに分けて連続投稿します。
引き続きお楽しみください。