第十五話 夜這い?
「こちらの部屋へどうぞ」
――風呂を出た後、伽藍に連れてゆかれたのは、先ほどまで過ごしていた客室とは別のところだった。
「さっきの部屋じゃないの?」
尋ねると、伽藍はこくりと頷き、そのまま頭を下げる。彼女はここで退くのだろう。
「遅くまでありがとう。また明日ね」
そう声をかけながら、扉を開けて中へ入る。伽藍は私が扉を閉めるまで廊下で頭を下げていた。
連れてこられた部屋は、さっきの客室とは違い、生活感を感じる空間だった。棚にはたくさんの本が並び、高価そうな刀剣が壁に飾られている。中央に置かれた丸い卓とは別に、正面に四角い机が置かれていた。そこにもいくつかの書類や本が重ねられてあり、椅子が少し引かれたままになっている。薄い青緑色の窓硝子から差し込む月光だけが部屋を照らしていて、薄暗く、本などの詳細はよくわからなかった。
風呂から出たばかりで、身体が随分と温かい。緩やかな眠気がやってくる。私は欠伸をしながら、天蓋付の寝台に上がり、その斜幕を閉めた。それから、かつらを外す。長い髪をとると、首元に何とも言えない快さを感じた。かつらを枕の横へ置き、寝台に倒れ込む。
枕に顔を押し付け、目を閉じた――何か覚えのある匂いがする。変だな、と思ったが、嫌な気分はしなかった。
「あー……最高……」
風呂にゆっくり入ったのはいつぶりだろう。いつも人目を疑いながら女湯に忍び込んでいた。だから温かい湯に浸かることなんてめったに出来なかったのだ。
今日は背中も流してもらえたし、この上ない至福だった。下女たちが偽物の長髪をせっせと洗ってくれていたのは申し訳なかったが。外れないように必死で抑えながら、少し可笑しくて笑い出しそうになった。
それにしても本当に疲れた。
あの茶会。「下女並の知識」と下女と共に私を辱めた祥華は、その後も嫌味や率直な悪口をぶつけてきた。一つや二つの小言なら痛くも痒くもないものの、それが一時間も二時間も続くと流石に辟易としてくる。部屋にこもって本を読んでいる方がずっと有益だった。
――あの下女には申し訳ない事をした。
思い返すと胸が痛む。あの後も、私と共に、不快な発言の的になっていた。誰か助けてやればいいのに。周りの下女たちは知らぬふりだ。巻き込まれたくないのだろう。一言声を掛けてやるだけで、あの子はずっと救われると思うのに。そう思うと同時に、やっぱり祥華への怒りが湧き起こる。
この家を出るまで、祥華に反抗するのを我慢できるだろうか? 正直、不安だ。
長い溜息を吐いた時、ふと、物音が聞こえた。
――扉の開く音がする。誰かが入ってきた。廊下の光が部屋に差し込み、すぐに細くなり、消える。誰かの息遣いが聞こえる。その人物は部屋の中央まで歩んでくる。斜幕越しでは顔がよく見えない。
私は息を詰め、枕の横のかつらを掴む。下女だろうか。
そう思ったが、その人物は軽く咳をするような声を吐いた。男の声だ。
身体が強張る。下男か? いや、ただの下男が、女性の客人の部屋に、声掛けもなく入ってこないだろう。私はゆっくりと身体を起こす。布団が擦れる音がした。その僅かな音に、その人物は敏感に気付き、こちらを振り返った。
こちらを見た彼は、すぐに近づいてくると、斜幕に手をかけた。
斜幕が開かれる――と同時に私は持っていたかつらを彼に向けて投げつけた。
長髪のかつらはその人物の顔めがけて飛んで行ったが、彼はそれを手で易々と払い落とす。私はそれを見ながら、枕を引っ掴み、投げつけていた。彼は驚いたように半歩後ろに下がりながら、枕も払い除けた。私は寝台から飛び降り、仰天しているらしい男の胸板を突き飛ばして、扉の方へ駆け――ようとして、足が服の裾を踏んだ。いつもと違って裾の長い服を着ているから! 動きづらい! 心臓にひやりとした感覚が走る。どんと床に倒れ込み、顎を強かに打ち付けた。弓で射られた時の傷口が痛む。私は這って扉の方へ寄りながら、悲鳴を上げようとした。しかし、口をざらりとした手に押さえつけられる。やたらと体温の高い手で、確かに男のものだ――怖い。
本能的な恐怖で竦んでしまう。けれども身体は反射的に動いた。私は身体を捻って仰向けになりながら、私の口を抑えている手を両手で掴み、引き剥がした。すぐに声を上げようとしたが、彼の逆の手がすぐに唇を塞ぐ。もう一方の手が翻り、私の両手首をさっと掴んで床に押し付けた。圧倒的な力の差で、相手の指が肌に食い込んで痛い。
床を背にして覆いかぶさられている格好で、相手の背中で月光が遮られており、顔が見えない。
玉緒の家なら安全なんじゃなかったのか。こいつは一体誰なんだ。
彼が何かを言おうとする気配がした。その瞬間に私を抑える力が緩んだ気がした。すかさず、片足で相手の股間を蹴り飛ばそうとする――が、それさえも、彼は自らの足で私の足を抑え込み、防いでしまった。
まずい。怖い。どうすればいい? 反射的に両目をぎゅっと閉じてしまう。一体何をされるのだろうと、身を固くすると、聞き覚えのある声が聞こえた。
「月國……?」
相手が私から身体を離した。目を開けてみれば、月光に照らされているのは、玉緒だった。
「……玉緒?」
風呂上がりなのだろうか。彼はまだ少し濡れた髪をして、いつもとは違って、ゆったりとした寝間着を身に纏っていた。彼の唖然とした顔が月光でうっすらと伺える。私たちはしばらく見つめ合った。動き出しは私の方が早かった。
「最低だッ!」
思わずそんなことを叫びながら、立ち上がり、扉に駆け寄る。
玉緒は慌てたように私を追いかけてきた。
「月國! 逃げるな! 何か勘違いしてるぞ!」
「勘違いしてるのはそっちの方だろ!」
私は悲鳴を上げながら、扉に手をかける。それを開ける前に、追いついた玉緒に扉から引き剥がされた。彼は焦ったような顔をしながら扉に背中をぶつける。扉が塞がれてしまった。玉緒から距離を取りながら辺りを見る。逃げられそうなところは、一つしかない。
「おいっ、どこへ行くんだ!」
玉緒の制止を無視し、私は窓へ駆けた。鍵を外し、外へ開ける。涼やかな風が部屋の中に吹き込んでくる。空では三日月が輝いていた。目の前に桜の木が見える。身を乗り出せば、その太い枝に手が届きそうだ。私は窓枠に片足を乗せ、桜の木へ手を伸ばした。
「月國!」
玉緒の鋭い声がしたのと、私が桜の木の枝に触れたのはほぼ同時だった。木の枝によじ登ろうとする努力も虚しく、後ろから肩を引かれ、窓からひっくり返って落ちる。玉緒の上に転落し、彼共々床に倒れ込んだ。私は頭を玉緒の胸板で打ったが、玉緒の方は床に打ち付けたらしい。う、というわずかな声が漏れる。
「だ、大丈夫か?」
思わず尋ねると、答える前に両手が伸びてきた。ぎょっとするほどの力で抱きしめられ、彼の胸板に額を押し付ける形になる。思わず心臓が跳ねた。
この匂い――さっき、枕に顔を埋めた時に感じたものと同じだ。
「は――離せっ」
両腕をばたばた振って抵抗するが、玉緒は離してくれない。風呂を上がったばかりで体温が高い。布一枚越しでもじんわりとした熱気が伝わって、恥ずかしさが突き上げてきた。
「離してくれ……」
ぎゅっと両目を閉じて懇願すると、長い溜息が返ってきた。
「窓から飛び降りないなら離す」
「と、飛び降りないから」
「ん」
言葉の通り、彼はさっと腕を解いてくれた。私はごろりと転がるように玉緒の上から逃げる。玉緒は胸元の衣のずれを整えながら上半身を起こした。こちらに近づいてくる様子はない。私はほっとしながらも、じりじりと距離を取りながら言った。
「……あのな、家に置いてくれ、というのは、そういうことを許す、というわけではないから、だから、その、」
動揺のあまり、しどろもどろになる。玉緒がきょとん、とした顔でこちらを見た。そんな表情で見ないでほしい。
「わ、私はそういうことをしたくないから、というか、そりゃ当たり前に好きな人としたいし、」
そこでやっと、玉緒の表情が変わった気がした。私は俯きながら、いや、えっと、と慌てて言葉を続ける。
「置いてもらってる身だし、断ったら追い出すぞ、って言うなら、迷惑もかけてることだから、ちょっと考えるけど、ごめん、その、まだ決心が足りないから待って……」
「――ちょっと待て」
玉緒が低い声で唸るように言った。
「や、やっぱりそういうことなのか!? ごめん、私そういうのに疎くて」
「違う、断じて違う、落ち着け。頼むから落ち着いてくれ。もう何も言うな」
玉緒が慌てたように両手を振った。私は言われた通り言葉を飲み込み、しかし、それからぎょっとしてまた言った。
「違うの?」
「違う。そんな下心は微塵もない。信じてくれるか?」
玉緒が眉尻を下げ、困ったような顔をしながら私を見る。その声は戸惑いは残っているものの、真摯なものだった。私がこくりと頷くと、彼は安心したように表情を緩めた。
「よかった」
「……でも、じゃあ、どうして、玉緒がここに? 夜這いじゃないの?」
「あのな……ここは俺の部屋だぞ」
――玉緒から感じた匂いと、枕の匂いが一緒だったことに気が付く。
そんなことを思い出しながら、気恥ずかしさに顔が熱くなった。
「じゃ、じゃあ、何だ? 私が間違ってここに連れてこられたってことか?」
「おそらくな。伽藍が勘違いしたんだろう。まぁ、いきなり女連れで帰ってきたらそう思って当然なのかもな……」
「……でも、伽藍たちは私の事が気に食わないんだろう? 何でわざわざそんな要らない気を遣ってくれるんだ」
「伽藍はそうでもないと思うんだが」玉緒が眉を寄せた。「だから彼女にお前を任せたんだし」
「とっても冷たいぞ、あの人……」
「元からそういう奴だからな。あんまり気にするな」
玉緒は肩を軽く竦めた。その目はいつも通り少し虚ろで、何を考えているのかよくわからない。
そういえば、彼と二人でじっくり話す機会が今までなかった気がする。良い人に違いない、というのはわかるのだが、彼がどんな人なのか私は知らない。
よくもそんな人の家に転がり込んだものだ。今更ながら、自分で驚く。そういえば、玉緒も「よく、知り合って間もない人間の家に転がり込む勇気があるな」と呆れていたっけ。
「……叔母上とはどうだ?」
玉緒がふと、思い出したように尋ねてきた。
「何か、嫌なことをされたりとか」
「大丈夫だ」
実際は全然大丈夫ではないのだが、反射的にそう答えていた。
返事が早すぎて逆に怪しかったのか、玉緒は訝しげな目を向けてくる。
大丈夫ではない。けれど、それを玉緒に言ってもどうにもならないだろう。より迷惑をかけてしまうだけだ。祥華は精神的に嫌がらせをしてくるだけだし、私が何とか耐えればいい。私の問題だ。
玉緒はしばらく私を見ていたが、諦めたように視線を外すと、声音を軽くして言った。
「……弓の練習、してたらしいな」
――どき、と心臓が跳ねる。
「あー……まずいかな?」
「貴族の娘は弓を射たりしないだろう」
「私は射るぞ」
「そりゃお前は……」
玉緒は言い返そうとして、はぁと溜息に変えた。
彼は自らの頭を掻き、困ったようにしながら言う。
「この家にいる時くらい、安静にしててもいいだろう。まだ傷も治りきってないのに」
弓で射られた傷のことを言っているのだろう。指摘されると、興奮で薄まっていた痛みが蘇り、私は思わず顔をしかめて肩を抑えた。
「それでも……じっとしているのは性に合わなくて」
「暴れ回りたいのか?」
「そんな真面目な顔で聞くな。そうじゃなくて、あなたに負けたままだから」
私がそう言うと、彼は驚いたような顔をした。
「弓勝負の話か?」
「そうだ。負けたままじゃ悔しい。次は絶対外さない」
私は真剣に答えたつもりだったのに、彼は可笑しそうに顔を歪め、片眉を跳ね上げた。
「本当に石頭というか……一途だな」
「何だ。勝っているからって調子に乗るなよ」
「乗ってない」
彼は慌てて首を横に振ったが、しかし、顔は笑っているままだった。
いつか目にもの見せてやる。生殺しの蛇は人をも噛むんだから。
そう思いながら彼を見ていると、彼は情けなく眉尻を下げた。
「そんな怖い目で睨むな……」
「に、睨んでないっ!」
ここまで読んでくださり、ありがとうございました!